冬の午後、教師の声をBGMにして窓の外を眺めるのが好きだ。冬の空には刷毛で伸ばしたような薄い雲が広がっていて、校庭ではどこかのクラスの生徒が寒そうに身を縮めながら、渋々と持久走をしている。教室には深く澱がたまったように、ぼんやりとした空気が漂っていて、それがカーテンの隙間から忍び込んだ午後の陽射しを受けて時折きらきらと輝く。気だるい教室の雰囲気も、ゆったりと喋る日本史教師の声も、何もかもがわたしの怠惰を許してくれているようだった。1月の半ば、例年この時期はちらほらと空席があるけれど、ぼうっとしていても目に入ってしまうのは、斜め前の空席。いつもは板書に追われているのに、今日に限って時間を持て余したわたしの思考回路は止まらない。



 今日は、新体制発表会。誠二が、プロサッカー選手としてメディアの前に立つ日。



 小さい頃からプロを目指してきた誠二が、本当にプロになるかもしれないと思い始めたのは、いつ頃だっただろうか。始めたばかりの頃はボールとじゃれているだけにしか見えなかったのに、年を重ねる毎に、なんてそんな長いスパンではなく毎日の練習毎に、着実にサッカーの才能を開花させていく誠二を隣で見ているのは、楽しくもあり、苦しくもあった。こんな何のとりえもない自分と誠二を、気付かぬうちに比べ始め、勝手に誠二を遠い存在に感じていた。小学生の頃から名を馳せていた誠二は、スカウトを受け武蔵森に入学、傍から見ればかなり順当な人生を送ってきた。それでも本人は現状に満足せずまだまだ高みを目指すその姿勢が、一番向上につながっているんだと思うけれど。



 自分は、何をしているんだろう。



 小さい頃は、誠二の隣で笑っているだけでも許された。出来ない運動を無理にして転んでも、引っ込み思案で自分の意見を言えずに泣いても、誠二は無条件に手を差し伸べた。それは幼馴染だから。手を引かれて帰った夕暮れの河原も、ぎこちなくわたしの頭を撫でたあの手も、今となってはもう、確かなものじゃなくなる。惰性でそこそこの大学を目指して、なんとなく生きているようなわたしが、傍にいられるはずなんてない。



 幼馴染がずっと、幼馴染でいられる保証なんてどこにもないのに。



 今頃はきっと、カメラのフラッシュをいっぱいに浴びて、人懐こそうな笑顔で話をしているんだろう。自分のプレースタイル、アピールポイント、チームのこと、将来のこと、そして代表のこと。昔から緊張なんて知らない誠二は、きっとガチガチに緊張している同期の新入団選手をよそに、自分を知ってほしいとばかりに喋るのだろう。そんなことばかりを考えてしまう自分が、惨めで笑えてきた。外を眺めるのにももう飽き飽きして、背もたれに深く体を預けた。暇な授業はまだ、終わりそうもない。何か暇つぶしになるものはないかと、机の中を漁る。


 かさり、指に触れたのは軽い音。探していた文庫本ではなくて、小さな封筒。表に返せば汚い字で「誠二より」。なんで今まで気付かなかったんだろう、普段だったらすぐに気付くはずなのに。どれだけ自分の意識がここにはいない誠二に向いていたのかを思い知った。少し周りを見渡して、そっと便箋を取り出した。少しだけ自分の手が震えているように感じた。




 行かなくちゃ。一通り目を通すと、弾かれたように体が動いた。何をうじうじ悩んでいたのだろう、勝手につらくなって、いつも一歩が踏み出せないままじゃ、小さい頃から何も成長していないじゃない。行かなくちゃ、早く、伝えなくちゃ。



「……っすいません」
「どうした?みょうじ」
「あの、ちょっと……」



 みんなの視線がわたしに集まる、こんな大きな声を出したことなんてないから、羞恥や焦りが混ざり合ってうまく言葉が出てこない。顔に熱が昇ってくる。



  「キンチョーしたときは、深呼吸すればいいんだよ!そしたらなまえだってちゃんと言えるって!」



 幼い誠二の声が聞こえた気がした。指切りをした河原、橋を渡る電車の音。すべてが鮮明によみがえった。もう泣かない約束、そしてもうわたしの為にけんかをしない約束。大丈夫、言えるよって、頭を撫でた小さな手。



「大事な、用があるんです……だから、ごめんなさい。授業抜けます!」



 ひとつ深呼吸をすれば、指先にまで酸素と一緒に気持ちまで巡ったようだった。頭を下げるとすぐ、教室を飛び出した。クラス中がざわめいているのも、呼び止める教師の声も、うすぼんやりとしか聞こえなかった。少しでも早く、行かなくちゃと思ったから。




  なまえは覚えてるかわかんないけど、ちっちゃいころにした約束、まだ覚えてるんだ。俺がサッカー選手になったら、一番に俺のサインあげるよって話。新体制発表とかで、サイン書かされるかもしんないから、一番に書いたやつ、俺の下駄箱に入れとく。



 忘れるわけ、ないじゃない。
いじめられたと泣いて帰ったあの日、誠二は見たこともないくらい怒って、わたしをいじめた男子のところに乗り込んだ。気の短い子供同士、すぐに口論からけんかにまで発展してしまった。誠二よりいくらか体格のいい男子に殴られようとも、絶対に誠二は譲らなかった。



『なまえに謝れよ!!』



 わたしのせいでけんかをしているのがつらくて、また泣き出したわたしに慌てた二人は、結局取っ組み合いのけんかをやめて、男子は少し不貞腐れながらもわたしに謝った。誠二はもうそれでよしとして、わたしの手を引いて家へと帰った。門限はもうとっくに過ぎていた。


 手を引くまだ細い腕にはいくつか擦り傷がついていて、背中も土で汚れていた。わたしはそんな誠二の姿がつらくて、ずっと泣いていた。袖でこすった目は赤くて、ぐずぐずと鼻を鳴らして時折しゃくりあげるわたしを見て、どこか怪我をしたんじゃないかと勘違いをした誠二はしきりに、痛いところはないかと聞いたけれど、どこかが痛かったんじゃない、誠二が怪我をしてしまったらどうしようと思ったからだ。


 誠二が怪我をしたら、もう二度と楽しそうにサッカーをする姿を見られなくなってしまうんじゃないかと思った。子供の取っ組み合いで、そんな重い怪我を負うはずなんてないだろうに、それでも子供なりに必死だった。そのときからなんとなく、誠二にはサッカーしかないと思い始めていた。いつまでも泣き止まないわたしに、困ったように笑って、ぐしゃぐしゃに頭を撫でた誠二に。わたしはほんとうに小さな声で『もうけんかはしないで』と言った。珍しく自分の意見を言ったわたしに驚いたような顔を見せて、それでも笑って『もうしない!』とまた頭を撫でた。


 しばらくして泣き止んだわたしの手を引いて、鼻歌を歌いながら歩く。少し指を動かすと、熱い手が離すまいとぎゅっと握り返した気がした。前を歩く誠二を見上げると、柔らかい髪の毛が夕日を受けて茶色く見えた。あのさ、と言ってこっちを振り向いた誠二は、繋いでいた手を解いて、小指を差し出した。それはほんの小さな約束だった。もうけんかはしないから、と交換条件で出された、もう泣かない約束。ぎこちなく小指を絡めて、指きりげんまんを歌った。それから誠二は、将来どんなサッカー選手になりたいかをたくさん話した。子供の足ではとてつもなく長い河原で、めいいっぱいの時間を使って。W杯に出たい、得点王になる、どこどこの何と言う選手と一緒にプレーをして。そんな抽象的で漠然とした将来だった。そして最後に、今まで羅列した夢に比べると、とても小さな夢を言った。



『なまえが約束守ったら、プロになって初めてのサインはなまえにあげる!』



 かっこいーサイン考えとくから!そう言ってまた笑った。




 階段を駆け下りて、昇降口を目指す。久しぶりに走った体はすでに悲鳴を上げていて、拍動がやけに早い。全身が心臓になってしまったかのようだった。息が上がって呼吸が苦しいけれど、そんなことはもうどうでもよかった。1階の廊下に出ると、冬のにおいがした気がした。切ないにおいだった。中央階段から向かって右側、3番目の下駄箱を目指す。逸る気持ちはいつまでたっても落ち着かなくって、一歩一歩がとても重たい。2年C組、34番。あまり使われていない扉に手をかける。こんなときに限って、どうしてか泣きそうになった。だめだ、約束は守らないと。



――キィ、



 誠二が使っているにしてはきれいな下駄箱の上段、なんでもないような袋が入っている。ほんとうになんでもない、学校近くの本屋の袋。



「……、わたしじゃなかったら、気付かないよ、」



 こんな袋、と言おうとしたけれど、言葉が出てこなかった。色紙を取り出した瞬間、目に飛び込んできたのはあの“かっこいーサイン”ではなくて。



「……っ、ばかじゃないの」



 でかでかと書かれた、『好き!』の文字。場所なんてかまわずに、色紙を腕に抱いて座り込んだ。このどうしようもなく汚い字が、涙が出るほど愛おしかった。昇降口の大きなガラスはめいいっぱい光を取り込んで、空気中に舞う塵をダイヤモンドに変えた。どこからかすきま風が吹き込む。まただ、冷たい冬のにおいがする。練習を終えた誠二が、よく纏って帰ってきたこのにおい。指先は冷えて悴むのに、涙が流れた頬は燃えるように熱くて、どうしようもないなと思った。








20120125




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