「パパ!ごめんお風呂入れてあげて!」


「はい、こっちがパパの分ー」


 ……いや、嫌いじゃないんだけど。うん。





「なまえが名前で呼んでくれない!」
「……は?」



 俺は今、月末の国際Aマッチに向けての召集を受けて、某所の練習施設にいる。練習も終わり(さっきのミニゲームではちょっと本気で若菜に脚削られた。若いって怖い、一個下だけど。)自由な時間を持て余していた俺たちは休憩スペースにいた。昔から慣れ親しんだ平馬に俺の悩み(俺にとっては結構深刻)を聞いてもらおうと、一大決心をして悩みを打ち明けると、雑誌を読みながらそれを聞いていた平馬はいつも以上に冷めた目でこっちを見てきた。


 ……なんだその可哀想な人を見る目は。いや、俺だってパパって呼ばれんのが嫌いなワケじゃないのよ、でもこれはなかなか深刻な問題なワケで。



「俺は一国の全サッカー選手を代表する人間がこんなしょーもないこと考えてるって事実こそが深刻な問題だと思う」
「ちょ!平馬、お前は俺の心を読むな!!」



 いくら付き合い長いからって、それは怖ぇーわ。そう言うと、普段からあまり表情を変えない平馬があからさまに嫌そうな顔をしてこっちを見てきた。



「……ケースケ、今までの口に出てた」
「……マジか」





「航介!!ちゃーんと頭拭いて!」
「はぁーい」



 風呂から上がると、キッチンに立っているなまえが少し怒ったような声を上げる。幼稚園の年長組になった息子の航介は、何でもかんでも自分でやりたがる年齢に差し掛かってきて、特に風呂に関してはもう体は自分で洗えるだ何だのうるさくなってきた。でも頭はまだ目に滲みるのを怖がってか自分では洗えないし、目を離して何かあったら困るから、俺がいる日は俺が、そうでない日はなまえが入れるようにしている。それでも体だけは自分で拭くと言うからやらせているけど、やっぱり頭を上手く拭けていないから、いつもこうやってなまえに怒られる。まぁそのうちこれも呆れた声になるのだけれど。



「もぉ、雫垂れてるし……。パパ!頭拭いてあげてー」


「……はいはーい」



 チョイ、と手招きをすると、航介は嬉しそうに駆け寄ってきて俺の膝の間にちょこんと座った。少し短めに切り揃えられた髪の毛の先からは、大粒の雫が垂れていて、どうやらほとんど頭を拭けていなかったらしい。柔らかそうな、俺よりいくらか色素の薄い髪の毛が、光を受けてさらに茶色っぽく見えた。ガシガシと少し乱暴に頭を拭いてやると、タオルの下から「いたいー!」とくぐもった声が聞こえた。


 やっぱりチビが産まれてから、名前で呼ばれなくなったなぁ。


 でも俺は決して子供が嫌いな訳じゃない。航介は最初の子供で実家の方でも初孫だし、念願の長男でもあるから、実家に連絡したときは、俺たちを差し置いてそれこそお祭り騒ぎだった。俺のマネをしてか、サッカーも始めたし、見た限り運動神経もいいようだ。チビッコのサッカーに上手い下手なんてほとんどないし、親の贔屓目かもしれないけどセンスはある方だと思う。最近では芯でボールを捉えたいい蹴りをするようになってきている。ついでに言うと顔立ちも小さい頃の俺に似ている。


「おーわりっ」



 頭をぽんっと叩くと、航介は勢いよく立ち上がった。もうすぐ夕飯だと言うのに、DVDやCDが収まったラックの方へ駆け寄り、DVDを選んでいる。あそこにしまってあるDVDのほとんどがサッカーのDVDだ。やっぱり血筋は争えない。



「もうごはんだぞー」
「んー……」



 ……聞いてないし。真剣にDVDを選ぶ様を見ていると、小さい頃の自分を思い出す。今考えてみるととてつもなく少ない小遣いからなんとか捻出したお金を持ってはビデオショップに行き、マラドーナやジーコのプレーをコピーしたいと、どれを選ぼうか迷っていたあの頃は、今ほど品揃えもよくないし、DVDではなくビデオだったけど。



「これ見る!」
「ったく、仕方ねぇな」



 この前チームの広報部からイヤーDVDをもらってきた。その前には代表戦と、今までのものを合わせると、なかなか種類も豊富だが、今度は何を選んだのか。デッキの操作なんて出来ないから、仕方なくテレビの前に座って航介を待つ。



「どれ?」
「ん!」



 差し出してきたのはサックスブルーでもディープブルーでもなく、目の覚めるようなオレンジのパッケージをしたDVD。


 ……なんで清水のイヤーDVDなんだよ、パパ泣いちゃうよ。





「パパ?こんなとこで寝たら風邪ひくよ?」
「……ん、」
「起きて?寝るならベッド行こ?」
「今、何時……?」
「まだ9時だよ」



 夕飯を終えて、航介と遊んだりDVDを見てたりしているうちに、どうやら寝てしまっていたらしい。9時、航介はとっくに寝たのだろう、リビングにはなまえの姿しか見当たらない。体を起こして首を回すと、グキリと耳の奥に響く、間接の軋む音。



「(ああー、首痛ぇ……)」
「いいの?寝なくて」
「んー、今から寝たら腰痛くなるし」
「そう」



 なまえはくすりと笑うと、何かを思い出したような顔をしてキッチンへと向かった。冷蔵庫にマグネットで貼ってあった紙を持って、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらこっちへやって来て紙を手渡した。



「何?」
「航介の参観日、一応オフになってたけど……大丈夫かな?」
「何日?」
「えぇと、19日」
「19日か……」



 たぶん大丈夫、と言おうとしたその瞬間、脳がストップをかける。これは名前で呼んでもらう一大チャンスがやって来たんじゃないか?きっとそうに違いないありがとう神様(いるのかわからないけど)。



「名前、」
「ん?」
「名前で呼んでくれたら、行かないでもないケド?」
「え、っと……」



 おーおー、考えてる。目線があっち行ったりこっち行ったり。でもきっとなまえは呼んでくれるだろう。なんてったって航介の参観日がかかっているから。……悲しいけどこれを使うしかない、航介マジごめん。パパも自分が情けないと思ってるところだ。



「……、け」
「……」



 赤くなった顔は、学生時代を思い出させる。あの頃は本当に俺も余裕がなくて、サッカーで一杯いっぱいだったから、なまえには淋しい思いをさせてたと思う。だから滅多にデートにも行けなくて、たまのデートで、しかも遠くへなんて行けないのに喜んで、すごく初々しかったのを覚えている。



「……けーす、け」



 俯きがちな顔は拗ねたようで、長い睫毛が頬に影を落とした。視線は泳いで、どこか落ち着かない。……、だめだ。



「もー、可愛すぎ。なまえ」
「ちょっ、けーすけ!」



 赤い顔をしたなまえの腕を引っ張ると、簡単にこちらへと倒れ込む。驚いたように顔を上げるなまえは、いくらか文句を言いたそうにしているけれど、今はそんなこと無視して、柔らかい栗色の髪を指に絡ませた。忙しくて碌に構ってやれてなかったから、本当に久しぶりに触れたような気がする。癖のない前髪をサラリと掻き上げて、形の良い額にキスをする。



「ちょっと……」
「ん、なんか最近構ってないなあと」
「……そうだけど」
「嫌?」
「や、じゃない」



 何年経っても初々しいなまえがどうしようもなく可愛くて、もっともっとと引き寄せる。観念したのかなまえは突っ張っていた腕の力を緩めて、くたりと体を預けてきた。



「ずるい、」
「……何が?」
「いっつもあたしが流されてばっかり……」
「そ?……ついでにさ、も一個流されてみない?」
「何?」
「……そろそろ、二人目欲しくない?」
「ちょっ……ばか!」



 バカでも何でも結構です。なまえのこととなると昔からこうだって、もうわかってるはずだろ?平馬だってスガだって呆れるくらい、いつだって夢中だから。俺の胸を緩く叩く細い手首を捕まえて、今にも文句が飛び出しそうな桜色の唇を塞いだ。





「パパ!こっち!!」



 相変わらず航介の前ではパパ呼びだ。それでもだんだんと昔のように名前で呼んでくれることも増えてきた(本当に稀だけれど)。



「んー、どした?」
「航介の絵、ほら。見て!」



 俺の腕を引っ張るなまえは、壁に貼られたたくさんの園児が描いた家族の絵の中から、航介が描いた絵を見つけたようで、いつもより若干テンションが高い。



「どれー?」
「ほら、これ!」



 絵の才能はなまえに似たことを祈ろう。なんてったて俺の高校時代の美術の成績は散々なものだったから。そんなことを考えながらなまえの指さす先を見てみると、全体が緑色で塗られた絵が貼ってあった。



「……これ」



 よくよく見てみると、そこには青いユニフォームを着た俺(と思しき人)が描かれていた。そのユニフォームは磐田のサックスブルーと言うよりは日本代表のブルーで、上の方にはいつ覚えたのか、汚いけれど一生懸命書いたことが窺える幼い字で

”ぱぱみたいなサッカーせんしゅになりたい”


と書いてあった。ひらがなとカタカナが混じり合っているし、小さいカタカナの”ッ”なんてよく見てみると”シ”にしか見えなかったけれど。



「格好悪いところ、見せられないね。パパ」
「そう、だな」


「ぱぱ!」
「おっ、航介!」
「あのね、これね、せんせいにおしえてもらった!」



 後ろから飛びついてきた航介が、一生懸命貼られている絵の説明をする。教えて貰った、という先生はきっと、航介に向かって手を振っているあの先生だろうか。「よくできたな」と航介の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫で、先生には会釈で返した。航介の脇の下から手を入れ、ぐいっと抱き上げると、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げた。



「よし、帰ったら何したい?」
「サッカー!!」
「だろうと思った」
「着替えたら公園行こう、そんでパパとサッカーだ!」
「うん!」
「ふふ、怪我はしないでよ」



 やっぱりまだパパでも良いか、と思った土曜日だった。






(この家族に一生注ごう)



20111205




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