夏だ。じっとりと首筋に汗が滲み、うちわとタオルを手放せなくなる。暑さからうちわを扇ぐが、その扇いでいる腕がもう既に暑くて、汗が滲む究極の悪循環に陥る。世間では節電が叫ばれ、電力使用量が何たらとニュースで伝えられるがすべて右から左。居間にあるテレビからは絶えず甲子園が流れ、気持ちの良い金属音が時折響く。落胆する声、喜びを乗せた吹奏楽の演奏。ジワジワと鳴いていた蝉がフッと鳴き止むと、サアッと音を立てて夕立が降る。その後、空に広がるのは赤紫のベール。



 夏だ、なあ。



 こうして夏休みに入って、ダラダラと過ごしていられるのは、3年間なんとか踏ん張って人より少しだけ勉強をし続けて、ギリギリだったけれども指定校推薦を頂けたからだ。あとは形だけの面接を終えたら、合格。みんなが予備校に詰めて勉強している間、何もしないと言うのはやっぱり心苦しいけれど(それに何より遊び相手がいない)、まとめて大変なことをするのは大嫌いだったから、推薦を取れて本当によかったと思っている。





「暑……」



 口に出したって暑さは変わらないのに、それでも口にしてしまうのはなんでだろうか。扇風機の前を堂々と陣取って高校野球を観ている小学生の弟を、足で退けて扇風機の温い風を浴びる。横で文句を言っているのが聞こえるけれど、そんなのお姉ちゃんの知ったことじゃありません。子供は外で遊んでいなさい、ってあたしも子供か。



「なまえー!」
「んー、何ー?」



 母さんが台所から大声であたしを呼んだ。こんなにも暑いのに何かどでかい鍋を出している。嫌な予感しかしないけれど、とりあえず台所へと行く。



「お醤油切れちゃったから買ってきてちょうだい!」
「……醤油なんて使わなきゃいいんじゃないですか」
「何言ってんのよ!すき焼き作るのにお醤油なきゃどうしようもないでしょ!」
「てか何でこんな暑いのにすき焼き……」
「文句言わないの!余ったお金でアイス買っていいから!」
「……わかった」



 お金が絡むと人とは実にあっけなく意見を変えるものだ。あたりまえだろう、貧乏なバイトもしてない高校生にお金という強大な力に抗うことなど不可能に近い。後ろで母さんが「航太にも買ってくるのよ!」とまた大声で叫んだ。……あいつのはホームランバーでいいや、安いし、野球好きだし。





「ありがとうございましたー」



 コンビニに着いて母さんに渡されたサイフを開いてみると、ほんとうにギリギリのお金しか入っていなかった。なんてせこい母親なんだ、と内心悪態を吐きながら仕方なく2つともホームランバーにシフトチェンジした。ほんとうはハーゲンダッツ(証拠が残らない、家に着くまでに食べられるクリスピータイプ)を買ってやろうと思ってたのに。目当ての醤油とホームランバー×2を手に取りレジで会計を済ます。自動ドアが音を立てて開き、少し気怠そうに店員が挨拶をした。また暑い、濃縮されたような空気があたしを包んだ。


 レジ袋からホームランバーを取り出し、あの独特なアルミっぽい包みを破り開けた。そのゴミをコンビニ前のゴミ箱に捨て入れ、さあ歩きながら食べようと振り向いたところに、同じクラスの真田が立っていた。



「あ、どうも」
「……おう」
「今帰りなの?クラブ?」
「ああ、そっちは……」
「買い出し、親に頼まれて。あ、そうだ。」
「何?」
「アイス、いる?言ってもホームランバーだけど」
「は?」
「ああ、やっぱりハーゲンダッツとかがいいよね、あたしもそう思う」
「あ、いやそうじゃなくて」
「?」
「いいのかよ?」
「だって暑いじゃん。それに多分、家に着くまでに溶けちゃうから」



 そうして奇妙な組み合わせ(とあたしが言って良いものか)で少し涼しそうな公園まで歩いた。その間にとりあえず、こんな部屋着で申し訳ない、と謝っておいた。そしてサッカーやっているのにホームランバーなんてほんとうに申し訳ないと思ったけれど、それは口に出さないことにした。



「いやー、暑いねえ」
「ああ、てかみょうじ勉強しなくていいのかよ」
「あ、おかげさまで指定校決まったんで」
「そうか……」
「真田は?進路どうなってんの?」



 真田はそれは昔から有名なサッカー選手だった(らしい)から、あたしはもちろんどこかのクラブから話は来ているのか、という意味で尋ねた。正直言うと身の回りにこんなプロのスポーツ選手の卵なんていやしなかったから、どんな風に尋ねて良いものかと悩んだけれど。



「一応、何個かは話が来てるけど」
「おお、すごい。あたしJリーガーの友達になれるんだ」
「そこかよ……」
「まあそれは冗談で、」



 そう言って、今度は少し口にするのを戸惑った。こんなたかがクラスメイトのあたしが、厚かましいにも程があると思ったから。でも、多分この機会を逃したらあたしは、もう真田に声を掛けることもないだろう。夏休みが明ければ、クラスのムードはぐっと受験モードに加速して、なんとなく、あたしも萎縮するような気がしたから。



「なんか、試合とかないの?」
「え?」
「なんかちょっと、観てみたいのかも、真田の出てる試合」



 言ってしまった。けれど後悔はあまりなかった。真田は少し戸惑ったような顔をして、照れたように頭の後ろを掻いた。そりゃあそうだ、こんなあまり話したことのないクラスメイトから、こんなことを聞かれて、戸惑わないはずがない。でも真田は携帯を開いて、どうやらスケジュールをチェックしてくれているらしい。



「こないだデカい大会終わったからー……」
「うん」
「9月から始まるリーグ戦?くらいか」
「そっか」
「始まったら教える……てか俺みょうじのアドレス知らねえや」
「あ、あたしも」



 そう言ってどちらからともなく携帯を向かい合わせた。目に見えない赤外線が、あたしたちを繋いでいるという事実がなんだかおかしくて笑ってしまった。それがどこか気に障ったのか、真田はなんだよ、とこっちを少し不機嫌そうな顔で見てきたけれど、なんだかとても気分が良かったから、なんでもないよ、とだけ言ってはぐらかした。



「じゃあ、また連絡する」
「うん、ありがと」





 公園を別々の方向に別れる。公園の外、日陰の少ないそこの空気はじっとりとまとわりつくようなのに、あたしの足どりは何故だか軽かった。なんだか鼻歌まで出てきそうなくらい、いや、お気に入りの歌を大声で歌ってしまいそうなくらい、心も軽かった。暑いだとか、じめじめするだとかそんなことはもう気にならないくらい。




「ただいまあー!」
「おかえり、早くお醤油頂戴」
「はいっどーぞ!」
「なによ機嫌良いじゃない、気持ち悪い」



 そんな母さんの小言も耳に入らなかった。また扇風機の前に居座る航太を押しのけて、扇風機の前に座る。意味もなく携帯を開いたり閉じたり。また開いて携帯をしばらく見つめる、何度も繰り返して、いつの間にか口角が上がる。



「何にやにやしてんだよー」
「別にー航太には関係ないですー」
「てか姉ちゃん!俺のアイスは!?」
「あー、……猫に食べられた」
「は!?嘘だあ!姉ちゃんのは?」
「お姉ちゃんのも食べられたんですうー」



 うるさい弟の文句も、蝉の声も、ジリジリと照りつけるような太陽も、何もかもが気にならなかった。テレビの中の高校球児が、どうやら満塁ホームランを打ったようだけれど、その歓声すらも掻き消さんばかりに、あたしの心臓は大きく脈を打つ。



 あたしがこの夏、手に入れたもの。大学の指定校推薦枠。そして真田一馬のメールアドレス。









20110816




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