夏休みに入って約1週間。受験生、という言葉は自分が思っていた以上に重たいモノで、毎日予備校と家の往復で正直嫌気が差していた。学校に行くのと同じように起きて、予備校に行き、聴きたくもないけど聴くしかない講義を聴いて、その度に課題が出され、それを夜まで、毎日、ずっと。朝の駅は混んでいるし、毎日お昼はコンビニ。予備校にいる人はみんな、なんだかカリカリしているし、息が詰まった。


 だから今日は久しぶりに予備校をサボった。サボった何て言うと聞こえが悪いけれど、講義の時間を別の時間にずらしただけだ。後から今日の分を受講するから、結局わたしは受験生、という言葉に縛られたままだ。そういう何とも言えない偶感に振り回されて、でも、それでもやらなきゃいけないとはわかっている。



「今日だけ、」



 今日だけでいい。今日はトクベツだから。





 学校の図書室へ入ると、今までの外の喧噪から何からすべてが切り離されたようで、ひやり、と肌に涼しい風を感じた。図書室に来ている生徒は本当に少なくて、考えてみれば3年はみんな予備校に行っているし、下級生たちは殆ど部活に出ているだろう。だからか、と考えの及ばない自分を軽く笑いながら、窓際の席へと荷物を置いた。外からは野球部の声がして、高い打球音が空に響いて、ああ、夏だな、と首筋を伝う汗を拭った。今までだったらみんなと野球応援に行ったり、プールや海、楽しいことがいっぱいだったのに。


 それに、8月の頭の、サッカー部の応援も。





 そんなことを考えていたら、なんだか少し心がさみしくなった。こうやって限られた時間を、わたしはいつもムダにしていくだけなのだろうか。掌の水はもう少ししかないのに、すき間からどんどん溢れて、もう取り返しが付かない。拾い集めることも、掌に戻すことももう叶わないのに。青春とは、そういうものだ。でももう、感傷に浸るのはやめよう。自分は受験生なのだ、と言い聞かせて。その割にやっていることはまったくちぐはぐだけど。せめてもの償い、と言っては変だけど、課題になっていた古典文学でも読んでみようか。と文学の棚を探すべく立ち上がった。



「あった……」



 古典文学の棚の、一番上。目的の本はそこにあった。少しくたびれた、使い古されたような姿で。何人の受験生が、この本を手に取ったのだろう。興味をそそられて、或いは嫌々ながら、仕方なく。また一人、仕方なく、でも少し諦めがついたように、この本に手を伸ばす。


 が。



「……っ届かない」



 如何せん身長の低いわたしだ、棚の一番上になんて届かないに決まってる。わかってはいたけど、それでも認めたくない自分の身長の低さ。ああ、最初からカウンターで踏み台を借りるんだった。



「これですか?先輩」
「……え?」



 諦めようかと俯いたとき、わたしの足もとが暗く陰る。頭の上から振ってきた、優しい声に顔を上げると、見知った、でも少し遠い、君。



「渋沢、くん」





 振り向いたみょうじ先輩は、いつも以上にやせ細って、小さく見えた。先輩の目当ての本を棚から取って渡す、そんな俺にとってはたやすい一つひとつの動作でも、懸命に手を伸ばしていた先輩を見ると、ああやっぱり、女の子なんだなあ、と感じる。



「お久しぶりです、と言っても先週会いましたけど」
「久し、ぶり」



 驚きを隠しきれない表情で俺を見上げる。今日たまたま練習がなくて、図書室に寄ってみたら、いるはずのない先輩がいた。俺だって内心驚いているけど、図書室に入ってふと目に入った小さな、暗い肩までの髪の生徒を見たとき、気付いたら先輩だと良いな、と思っていた。だんだん近付くにつれて確かになっていく先輩の面影に、年甲斐もなく胸を高鳴らせたりして。


「生徒会の引き継ぎ以来ですね」
「そうだね、これから忙しくなるのにまた生徒会頼んじゃってごめんね」
「そんなことないですよ」



 本当にそんなことないんです。中等部時代は、頼まれたら断ることが出来ないと言う損な性格から引き受けてしまった生徒会活動だったけど、高等部に上がってからは、あなたがいるから、引き受けました。困ったように笑う、先輩の笑顔に会いたくて、でも学年も部活も違う先輩に会うためには、生徒会を利用するしかなかった。こんな姑息な手段でしか、先輩に近付くことの出来ない自分が、少し恥ずかしかった。



「今日は予備校は?」
「今日はね、うん。サボっちゃった」
「サボり?珍しいですね」
「うーん、なんかね。予備校、息苦しくて。みんな切羽詰まってて、夏の開放感とか、キラキラしたのが、どこにもないの」


 先輩の重たい気持ちを、俺が代わってあげられたら。そう思ったところで年齢の壁を越えられるはずもなく、先輩の気持ちを理解してあげることは、自分にはこれっぽっちも出来ない。その笑顔が曇らないようにと、祈ったところで何も変わりやしない。



「応援、行きたかったな……」


 そう呟いた声が、寂しく、人のいない図書室に響いた。気恥ずかしくて正面には座れずに、対角線上にいる二人の間を埋めることさえ出来ないほど小さなその呟きは、図書室の本たちに吸い込まれて、静かに消えていった。






(埋める術を、僕はまだ持ち合わせちゃいない)



20110729




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