日本時間、2011年7月18日早朝、日本女子サッカーの歴史が変わった。一度も勝利を収めたことのない最大のライバル、アメリカとの熱戦をPK戦で制して、初の女子W杯優勝を遂げた。


 わたしはそれを、スタンドから観ているだけだった。





「お疲れ様でーす」
「お疲れ、なまえはまた居残り?」
「はい、ちょっとやって帰ります」
「ほどほどにしときなよー?」
「りょーかいですっ!先輩」



 小さい頃から6つ離れた兄について、一緒にサッカーをしてきた。気付いたら家にはボールが転がっていて、いつだってJリーグや欧州リーグがテレビで流れているような家庭で育った。そしていつからか、大好きな兄がしているから、と言う理由でじゃなくて、純粋にサッカーが大好きになった。


 ドリブルで相手を抜き去った後の開けた空が好き。ゴールネットを揺らした後の歓声や、駆け寄ってくるチームメイトの表情が好き。たくさんの好きが重なって、わたしの人生の中で、サッカーは欠かせないモノへと変わっていった。


 そして何より、足もとにぴったりとスルーパスが収まる瞬間が好き。そしてそんな球を出してくれるのは、小島有希だけだった。


 有希とわたしのホットラインは、いつでも攻撃の起点になって、どんな膠着状態に陥った試合も、覆せるだけの力を持っていた。有希が出したパスが、わたしに必ず得点させてくれる。もちろん個人での突破に自信がないわけじゃないし、いざとなったら自分で持っていくだけの脚はある。それでも有希のパスは、わたしの中で絶対的な、不動の存在だった。



 そんな有希が中学を卒業すると同時に、アメリカへ渡ってしまうと聞いたとき、不思議とわたしは落ち着いていられた。有希は何よりもサッカーを愛していたし、より高いレベルでのプレーを欲していたから、長年有希と一緒にいたわたしからしたら当たり前のことで、純粋に応援をすることが出来た。わたし自身も全国区の高校から呼ばれていたし、有希がアメリカで頑張るのなら、わたしは日本の高校でナンバーワンになろうと思った。


 別れ際に、有希はわたしにこう言った。



「次会うのは、いつかな。代表で会えれば一番だけど。……いつか、二人でW杯のピッチに立とう」



 その約束を果たすため、わたしは強豪校で揉まれ、3年生になる頃には、何度か日本代表にも呼ばれるようになった。それは有希も同じことだった。男子では相当珍しいことだけど、競技人口の少ない女子の世界では、実力さえあれば年齢なんて関係なしに代表へと招集される。だから久しぶりに、有希とのホットラインも復活したし、ドイツでやっている先輩方との、レベルの高いプレーをすることも出来た。


 高校を卒業する直前に、INAC神戸レオネッサから声が掛かった。海外を経験した選手も、代表経験を積んだ選手もたくさん所属していて、わたしの中の闘争心が掻き立てられた。高校時代のように上手くいかないことも増えたけど、何よりみんなが真剣にサッカーに取り組んでいるこの世界で、ワクワクしないわけがなかった。



 神戸に所属してもう4年。生活に足りない分はバイトをして補わなければならなかったけど、お給料ももらえているだけありがたかったし、ここまでの環境を準備してもらって、頑張れないハズがなかった。より高みを目指したい一心から、人よりも早くに来て練習をしたり、調子が悪いときには居残りをした。国内リーグで満足していられるほどではなかった。いずれは、海外へ。その思いがわたしを突き動かしたし、何より男子がアジア杯を制覇して、盛り上がったムードの中で女子のW杯が始まる。監督にアピールをする、という意味でもより高いレベルが求められていた。



「っし!」



 居残り練習の最後には、より正確なシュートを打てるようにゴールのバーを狙う練習をする。最後のボールがバーに直撃して、派手な音を立てた。



「おーい!なまえ!そろそろ上がれー!」
「はーい!」



 クラブハウスで仕事をしていたコーチが、わたしに気付いて声を掛ける。壁に掛かった時計を見ると、もう解散から2時間近くが経っていた。そろそろ明日に支障が出そうだから、とグラウンドから出ようとしたとき、本当に些細な違和感を、足に感じた。



「……?」
「どうしたー?」
「あ、何でもないです!」



 本当に一瞬のことだったから、勘違いだと思って、コーチには何も言わずに帰る準備をした。本当は勘違いだと思ったんじゃない、思いたかっただけだったのだ。もしここで違和感を申告していたら、代表監督が視察に来る、週末の試合でスタメンを外されると思ったからだ。


 あのときもっと早く、なんて思っても、今更遅いけれど。





「中切ってー!」
「マークずれてる!8番フリーで持たせんな!!」



 代表監督が視察に来ているだけあって、今日の試合は両チーム共に気合いの入り方が違っていた。一瞬でも気が抜けない、攻撃の波がどんどんと押し寄せて、いつにも増して速い試合展開だった。前線からのプレスを少しでも緩めると、一気に攻め込まれるし、少ないチャンスをモノにしなければいけないから、精神的、肉体的にどんどん追い詰められていった。



「なまえ!頼んだ!」



 先輩がカットした球が、一気に前線へと上がってくる。MFを中継して、前線のわたしまで。逆サイドから上がった球を追いかけて、中を見る。こっちの速攻に対してラインが崩れた相手は、わたしがクロスを上げると踏んで、中に入ったMFに2枚、マークを付けた。でも、わたしには脚がある。ただ素晴らしいパスに合わせるだけじゃない。ひたすらの反復練習でモノにしたフェイントやドリブルだってある。2回切り返して、パスを出す素振りをして、反転して、シュート。


 ゴールネットに突き刺さるはずだったシュートは、バーの遥か上をふわり、越えていった。落胆の声がスタジアムに溢れる中、わたしはピッチ上にうずくまった。



「なまえ!?」



 チームメイトの声が頭に反響する。軸足の右脚がじんじんと熱を持って痛い。返事をしなくちゃ、レフェリーに、大丈夫ですって。試合、続けられますって。ピッチの上はうずくまっている場所じゃない。そう思っているのに、わたしの頭は、だんだんと白くもやがかかって、何も考えられなくなった。





「第五中足骨の疲労骨折、軽く見積もって2ヶ月」
「……」
「なんで黙ってた?」
「……いけると思ったからです」
「いいか、お前の怪我は防げないモノじゃなかった。お前の申告さえあれば、だ。何をそんなに焦っていた?」
「……遅れを取りたくなかったんです」
「代表の話か?お前の実力だったら確実だった。監督からの打診だってもらっていたんだぞ」
「それだって、確実じゃないでしょう?」
「なまえ……」
「ごめんなさい、わたしのせいで迷惑掛けました。ちょっと頭冷やしてきます」



 軽く見積もって、とは言ってくれたけど、本当はもっと時間が掛かることぐらい解ってる。コーチ、わたしのことバカにしてんのかな?一応講習だってちゃんと出てるんだよ。第五中足骨の骨折は、特に時間が掛かる、ときには手術も必要になるほどだ。



「W杯……無理かあ」



 ごめん、有希との約束、守れないや。




 翌日のスポーツ新聞に、本当に小さくだけど、わたしの怪我の記事が載った。『期待の新星・みょうじ W杯絶望か』と書かれた小さな記事を読むと、監督直々に内定をもらっていたのは本当だったらしい。4年前、W杯出場チャンスを逃したわたしは、生き急いでいたのかもしれない。高校を卒業して、プロになったその年のW杯は、期待を掛けられながらも、招集されることはなかった。「決定的な武器と、経験が圧倒的に足りない」そう言われて招集を見送られた。試合にこそ出られなかったが、有希はベンチ入りをしていた。


 自分に自信がなくなった。もっと練習しなければいけないと感じた。ひたすらがむしゃらにやるしかない、と思ってしまった。




 そんなわたしをよそに、ドイツの地でW杯が開幕した。派手なセレモニーは、サッカー先進国であることを思わせる。注目度が男子と同じレベルで、正直言うとこの環境が羨ましいと思った。最初はどうも居づらくて、関係者席ではなく自腹で一般のチケットを取り、目立たない席に座っていたけど、協会のお偉いさんに見つかってしまって、とうとう決勝は関係者席で見ることになってしまった。



「(気まずいなぁ……)」
「怪我の調子は?」
「あ、えと。まあまあです。手術はしなくて済みそうで……」
「そうか、よかった。みょうじ選手は、どう見る、この試合」



 グループリーグを2位で通過した日本は、ホスト国ドイツを延長戦で破り、準決勝ではスウェーデンに先制されたものの、危なげなく決勝へと進出した。この決勝戦、いかにしてアメリカに飲まれないかがひとつのポイントになってくるだろう、と感じた。日本に於ける普段の練習、試合状況からは想像も付かないほどの人数が、アメリカを応援している。そんな状況の中で、自分のプレーが出来る選手は稀だ。



「……やっぱり、いかにして自分たちのペースに持っていくかですね。体格差もありますし、相手は一度も勝利を収めたことのないアメリカですから、普段と同じ状況と言うのは、なかなか作り出せないです。だから自分たちのリズムを早いうちから作らないと飲まれます。そのままずるずるいって体格差で押されて負けますね」



 そう一気に言うと、協会のお偉いさんは声を出して笑った。

「……?」
「やっぱりサッカーの話をしているときが一番輝いているな!昔からそうだ!」
「昔……、どこかでお会いしましたか?」
「ああ!まだ小学生だった頃さ、男子に混じっても遜色ない選手が二人いてな、それが小島選手と、君だった。誰よりも輝いて、楽しそうにサッカーをしていたよ、君たち二人は。本当に羨ましいくらいだった!」



 そう言われて、思わずピッチに出てきた有希を見た。ぐるりと一周、スタンドを見渡して、深呼吸をした有希はいつも試合中に見せる、わたしの大好きな顔をした。あの、真剣そのものな顔を見ると、わたしも気が引き締まって、試合モードに切り替わったものだった。



「大きすぎる期待は、ときにまだ未熟な心を打ち砕こうとするよ。それでも、プロのアスリートならば、必ず乗り越えなければならない壁なんだ。」
「……まだ取り戻せるでしょうか」
「君は、壁を登った先の風景を見たいとは思わないか?」
「……見たい、です。みんなと、有希と、見たい」



 試合が、始まる。アメリカの猛攻を、辛うじてしのぐだけしか出来ない日本。誰もが、女子サッカー大国、アメリカが勝つと信じて疑わない状況。少しでも気を緩めれば、一気に飲み込まれそうな中で、日本が、有希が、勝利を信じて戦っている。



「すいません、わたし」
「いいよ、行っておいで」
「……ありがとうございます!」



 こんな狭い場所で見ていられるわけがなかった。ピッチの熱気から、隔絶されたこんな部屋で。




 アメリカとの体格差は歴然だった。しかし日本は、試合の中でどんどん成長を遂げていった。簡単に奪わせてくれないアメリカ相手に、どう戦えばいいのか、全員で走って、全員で守る。日本人らしいプレーで、粘った。膠着状態だった前半を終え、後半開始10分足らずで、アメリカが先制。落胆の色が皆の顔に浮かぶ中、ピッチ上の戦士たちは、誰も諦めてはいなかった。まだ後半は、始まったばかりだ。すると交代した日本のFWが、決定機を作った。上手く混戦のペナルティエリアに入り込み、シュートを放つ。しかし、それはGKによって弾かれた。誰もがため息を漏らす中、逆サイドから日本のMFが詰めていた。こぼれたボールをキレイに押し込み、同点になった。


 同点のままゲームは動かず、延長戦へともつれ込んだ。すると再びアメリカがセットプレーからのヘッドで押し込むと、もう駄目か、という空気が流れ始めた。しかしまた彼女たちは、息を吹き返す。誰ひとり諦めない、ねばり強さがそこにはあった。下を向いたサポーターたちも、再び顔を上げ、たまたま居合わせたドイツ人たちの日本を応援する声は、ドイツ語で日本を意味する「ヤーパン」から、いつの間にか「ニッポン!」へと変わっていた。


 スタジアム中に「ニッポン!」コールが渦巻いて、彼女らを後押しした。そして日本女子サッカーを長らく支え続けたキャプテンが、延長後半、コーナーからニアに入った球を右足アウトサイドでゴールへと流し込んだ。



 延長戦が、終わった。スコアは2―2。PK戦へと突入する。わたしは、PK戦というモノが大嫌いだった。これは、チームプレーでも、何でもない。ただの運、だ。決まることが前提のPKをGKが運良く止められた方が勝つなんて、と何度も思った。


 それでも、信じるしかない。GKを、キッカーを、日本を。



「お願い……」



 日本中の、いや、世界中のみんな、どうか、彼女たちに力を貸してください。


 先攻のアメリカは1人目が止められ、それに動揺したのか2人目もふかしてバーの上をいった。3人目もGKのスーパーセーブでゴールを許さない。


 日本は4番目を決めれば、優勝。キッカーは、有希。


 有希はゆっくりと天を仰ぐと、ふっと肩の力を抜いた。そして雑音も何もかもをシャットダウンして、ただゴールだけを見据えた。それは、有希の昔からの、ある種の儀式でもあった。いつも自信に満ちて、みんなを引っ張るプレーをする有希だったけど、昔からPK戦になると、なかなか周りの雑音をシャットダウン出来ずにいた。そんな有希に教えた、緊張を解くおまじない。


 その状況を楽しみなさい。選ばれた者しか立てないピッチの、空気に酔いしれなさい。サッカーが楽しくて仕方なかった、純粋な気持ちで臨みなさい。スタンドの、楽しそうな、これから起こることに対して、期待に胸を膨らませているサポーターをよく見なさい。


 たくさんの重圧に、押し潰されそうなほど小さな体。それが今、めいっぱいに期待を背負って、いつもより一層小さく見えた。



「つらいなら、わたしにあずけていいんだよ」



 全部全部、わたしにあずけて。神様、どうか、有希を邪魔する、プレッシャーや期待や、まるで呪いみたいな汚い気持ちも、みんなみんな、わたしにあずけてください。全部わたしが背負いますから、有希の邪魔をしないで。



 手を合わせて強く握った。食い込む爪も、じっとりと滲んだ汗も、何もかもが気にならないくらい、わたしの神経は研ぎ澄まされて、有希の一挙手一投足を固唾を呑んで見守った。そんな中、有希がチラリとこちらを見上げた。気のせいだとかこじつけだとは思わなかった。今、確かに有希とわたしの目が合っていて、確かに有希は、「決めるよ」と言った。時間にしたらほんの数秒間だったのだろうけれど、わたしたちの間には、とてつもなく長い時間が過ぎたように感じた。「信じてる」そう返すと、有希は静かに頷いて、その後はPKに集中するように、相手GKをじっと見つめた。

 全身が研ぎ澄まされて、ピッチを歩く有希の、足音さえも聞こえるようだった。まるで自分自身もピッチに立っているように錯覚させるほどだった。有希とわたしの鼓動が重なって、わたしの心臓も痛いくらいに跳ねた。ボールをセットして、ゴールを見据える。


 何の躊躇もなく振り抜いた有希の脚から放たれたボールは、ゴールの左上へ、思い切り突き刺さった。


 一気に歓声がスタジアム中を駆けめぐった。この歴史的な勝利の瞬間に、誰もが酔いしれ、歓喜の雄叫びを上げ、ときに誰かと抱き合い、喜びを分かち合っている中、わたしは、何も言えなかった。何かを言うよりも先に、どっと涙が溢れて、言葉にならなかった。ピッチの上、歓喜の中心でもみくちゃにされている有希を見て、心の奥に閉じ込めた、ドロドロと汚くて、醜い、誰にも見せられない感情が堰を切ったように溢れだした。


 本当は、わたしだって、このピッチに立っていたかった。みんなと一緒に戦いたかった。あの中心にいたのは、もしかしたら自分だったかもしれないのに。言い出したら止まらない、どうしようもないことが巡る自分が気持ち悪くて、最低で、消えてしまいたいと思ってスタンドの片隅に、うずくまって泣いた。



 そんなわたしを置いたまま、時間は刻々と進む。18年もの長きにわたって、代表を牽引してきたキャプテンが、インタビューに答えている。その言葉一つひとつに重みがあって、だからこそ18年もの間、代表に選ばれ続けたのだろう、と思った。それに対して自分はなんて軽い人間なんだろう、と感じざるを得なかった。

 そして、優勝を決めたPKを蹴った、有希のインタビューになった。本当はこんな状態で、有希を見るには眩しすぎると感じたけれど、ここから逃げたら、それこそもう後ろめたくて有希に会えないんじゃないかと感じて、少しでも近くで有希の言葉を聴こうと、スタンドの階段を駆け下りた。



―優勝を決めた瞬間は、どのようなお気持ちでしたか?
「正直言うとまだ実感が湧かないです。シュートが決まったときもみんなの反応を見て、ああ優勝したんだな、と言う感じです」
―PKを蹴る直前、スタンドの方を見上げていたように見えましたが?
「ああ、……もうひとりの仲間が、スタンドにいたんです。直前に怪我をしてしまって」



 ドクリ、と心臓が動いた。自分のことを言われているのだ、と直感的に感じた。やはり、あのとき確かに、有希と気持ちを共有し合っていたのだ。



―それは、みょうじ選手のことですか?
「そうです、わたしの古くからのチームメイトです。昔から、PK戦が苦手だったんですけど、なまえが見ててくれたので、大丈夫かな、と思えました」
―PK戦、苦手だったんですか?
「はい、いつも周りが気になって、ゴールへの意識が削がれちゃって……。でもなまえに教わったんです。


その状況を楽しみなさい。選ばれた者しか立てないピッチの、空気に酔いしれなさい。サッカーが楽しくて仕方なかった、純粋な気持ちで臨みなさい。スタンドの、楽しそうな、これから起こることに対して、期待に胸を膨らませているサポーターをよく見なさい。


これを思い出してから、スタジアムを見渡すんです。そうすると、自然と集中することが出来る。」
―彼女のおかげでもあるんですね
「そうですね。今回は怪我で残念な結果になってしまいましたけど、それでもわたしのことを支えてきてくれたのは確かです。小さい頃から、ずっとライバルでチームメイト。お互いの良いところも悪いところも全部知っているから、わたしはずっとのびのびとプレーが出来たんだと思っています。それはこの決勝でもそうです。だからやっぱり、何よりなまえに感謝したいですね。」



 有希が、わたしの言ったことをずっと覚えてくれていたなんて、思ってもいなかった。だってそれは、もう10年以上も前のことだったし、あの頃と比べて、有希は確実に自信を付けてきた。アメリカで学んだ勝利の哲学が、有希を支えていると思っていたから、わたしが有希を支えているなんて、思ってもいなかった。むしろ、いつだって支えられているのはわたしの方で、いつまで経っても大人になれず、迷惑ばっかり掛けていた。さっきとはまた違う涙が、ぼろぼろとこぼれる。嗚咽を止められなくて、うずくまりそうになる。



「なまえ!」



 突然有希がわたしの名前を呼んだ。有希の肉声のあと、遅れてスピーカーから流れてくる、少し機械化された声を聞いて、思い切り顔を上げる。こっちを見ながら、泣きそうな顔をして有希が言う。



「ずっと待つから!約束!二人でW杯出るって!だから、絶対、ロンドンまでには脚治して、わたしら、絶対、予選も負けないから!ロンドン出て、そしたら、4年後だってすぐだよ!」



 不安だったのは、有希だって同じだっただろう。いつだってわたしばっかり、不安に思って、置いてきぼりだとヤケになって。いつでも二人は一緒だったのに。そんな風に思ってきたけれど、有希だって不安に思わない訳がない。一人日本を発ち、高校生のうちから代表入りして、ずっと一人きりの連続だった。お互いがお互いを支え合ってきた中で、ふと支えがいなくなったのはどちらも同じだった。



「……有希、」



 約束は、叶えられなかったわけじゃない。これからのサッカー人生の中で、どれだけのW杯を迎えるだろうか。生きている限り、サッカーを続けている限り、誰にでも等しく、W杯は訪れる。



「っ、有希!」



 声が届くかはわからなかった。歓声に飲まれて届かないだろう、とも思った。それでも今、伝えなきゃいけないことがある。



「絶対約束!守るから!だから、W杯の決勝で!有希の最高のパスを、わたしにちょうだい!」





 日本に帰れば、またリーグが始まる。そうしたらまた、性懲りもなくわたしは全力で走るだろう。時々限界を超えることもきっとある。怪我だってまた、いくつかするだろう。それでもわたしは、常に全力で、自分の力を信じて走るだろう。だって、有希が、わたしの力を信じているから。


 有希と二人で、あの決勝の舞台に立つまで。そして、再び栄光を手にするまで。









20110720




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