「広島かぁ……」



 遠い、なあ。



 英士が念願のプロ契約を果たした。契約したクラブの他にもいくつかのクラブが名乗りを上げたみたいだったけど、チームの調子も悪くない、提示してきた条件も良い広島に、英士は決めたらしい。


 英士に結人、一馬。3人の夢はいつだって揺らぐことはなかった。プロのサッカー選手になる、そのために今まで血の滲むような努力をしてきた。遊ぶ時間も、学校行事ですらもサッカーのためにすべて犠牲にしてきた。そんな英士がやっと夢を掴むのだ、それを喜べないはずがない。……はずがない、のに。



「なんでだろうなぁ……っ」



 広島に決めた、と事後報告だった。わたしは、他にどのクラブが名乗りを上げたのかすら知らなかった。深夜のスポーツニュースでどのクラブが英士にオファーを出していたのか知った。英士から直接知ることはなかった。


 でも、あのとき知らずにいてよかったとも思ってる。


 だって、もしも仮に、広島よりももっと近くて、頑張れば逢える距離で、……そんなクラブがあったことを知ったら、わたしはきっと、わたしが今まで絶対になるまいとしてきた、きっと英士の嫌うであろう嫌な女になっていたと思う。近くにいたいと、口には出さずとも、英士にはバレてしまっていたと思う。だから知らなくてよかった、そう思ってるはずなのに。


 ほんとうは、言って欲しかった。


 英士のお父さんの後でも、お母さんの後でも。結人や一馬の後でも、2人の両親の後でもよかったから、言って欲しかったよ。そしたら、わたしの気持ちを整理して、笑って見送れたかもしれない。少なくとも、こんな気持ちになることはなかったかもしれない。



「ぐちゃぐちゃだ」



 整理し切れない頭の中も、隠すように泣いたせいで、メイクもなにもなくなった顔も。


 今は、ギリギリまで泣かせて欲しかった。目は腫れぼったいかもしれないけれど、泣いていたことが英士にばれてしまうかもしれないけれど、明日は笑顔で見送れるように。試合、楽しみにしてるよって、早くレギュラー穫ってスタメンになってねって言えるように。



――コン、コン
「なまえ、……入るよ」

「英、士」



 ああ、こんな顔で、会いたくなかったなぁ。



「っ、なに?」
「……最後まで、言えなくてごめん」



 狡い、なぁ。今それを言ってしまうんだから。気付いてて、言ってるのかな?わたしがどれだけあなたを好きで、そんな風な、滅多にしないような困った顔をされたら、絶対許してしまうって。


 ああ、また涙。


 ほんとうはこんな、困ったような顔を英士にさせたかったわけじゃないの。こんな、わたしなんかの我が儘で、迷惑をかけたくなかった。わたしの中の英士は、いつだって落ち着いて自信を湛えた表情で、彼をよく知らない人からすれば冷めているとさえ感じられてしまうようで、でも実は熱い気持ちを秘めていて……。


 いつだってわたしのヒーローで。



「……っ、ごめっ…」



 どうして涙が止められないの。英士の負担になるようなことだけは、嫌だったのに。



「…っなまえ」
「っそんな顔、しないで…わたしなんかの為に」



――グンッ



 急に視界が動き出す。引っ張られた腕、それを掴む掌から指先までは考えられない程熱くて、外見からは想像つかない、意外とがっしりした胸板に耳を寄せると、心臓の拍動が一定のリズムを速く、力強く刻む。呼吸の音すらもダイレクトに脳に響く。



「…“なんか”なんて、言うなよ」



 怒っているのだ、彼は。



「お願いだから、自分なんかなんて言わないで。今回、確かに俺はなまえに相談もなしに決めたかもしれない。それでもなまえを考えなかったことはないよ。」



 普段滅多なことでは怒らない彼が、全身で怒っている。鼓動一つとっても、力強く脈を打って、訴えかけるように。



「でも俺はまだ高卒で、いくらユースや世代別で騒がれようと、プロ1年目の新人、それ以上でも以下でもない。安定した生活だって保障出来ないし、何が起こるか解らないのがプロの世界だから。もしかしたらデビュー戦で脚が駄目になるかもしれないし、一気にスターダムへ上り詰めるかもしれない。」



 だから、と彼は続けた。その声はいくらか震えていた。



「いつか、プロとして安定して、A代表にもコンスタントに呼ばれるようになったら、必ず迎えに来るから」



 そう言ってまたきつく抱きしめてくれた英士の背中に、わたしはそっと腕を回した。中途半端な気持ちで行ったら、打ちのめされるのがプロの世界だ。それは十分わかっているつもりだったけど、わたしはやっぱり理解出来ていなかった。でも、今ならわかる気がする。



「英士、わたしね」
「……何?」
「広島で、よかったと思う。遠くても、何だろうと、英士が決めたチームなら、それでよかったと思うの」



 だから。



「迎えに来てくれるの、待ってるね」



 どれだけ時間がかかっても良い。どれだけ辛くても、苦しくても、それでも英士が迎えに来てくれるというのだったら。



「だから、絶対、迎えに来てね」





(最後に笑っていられるならどれだけ待っても構わない)




20110723




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