26時38分。ベッドに入って、眠りに落ちるまでの微かな微睡み。カーテンは開け放ったままで、部屋全体が青白い月明かりで満たされる。起きているのか、寝ているのか、体はふわふわとなにか暖かいものに包まれているような、心地良い安心感に満たされながら、少しずつ、少しずつ眠りに落ちていく。


 全身の力が抜けていくような柔らかさに、ゆっくりと溶け込んでしばらくすると、そこにはいつからかユンが待っている。わたしの夢の入り口、扉の前でいつもの微笑みを携えて、まるでわたしが辿り着くのを待ち望んでいるかのように。


 その扉までは長い長い階段が螺旋状に伸びていたり、波のような緩やかなカーブを描いたりして、何処までも続いていて、わたしはそれを懸命に上り続ける。半透明をした階段の踏み面は宙に浮いているようで、わたしがそれを踏む度にふわり、ふわりと小さく沈んだ。その半透明さも、ふわりと浮いた感じもどこか心許なくて。馴れない浮遊感にわたしは手間取って、なかなか上手く駆け上がれない。わたしの気持ちと上体は、早くユンの元へ辿り着きたくて、だけどそれとは裏腹に、脚が重くてついてこない。夢だっていうのに、その感覚はまるで、学生時代のマラソン大会だとか、結人に無理矢理引っ張られて走らされた後のようで、やけに気怠かった。そしていつだってユンは、あと十数段で辿り着くというところで、悲しく笑って扉の向こうへ行ってしまうのだ。



 でも、今日は違った。



 いつもと同じように、わたしは浮遊感に悩まされながら階段を上り続けていた。ユンの元へ辿り着きたい一心で。早く、と逸る気持ちの片隅、どこかで辿り着くのは無理なのではないかと考え始めるようになった。それでも体はユンを求めて、ひたすらに階段を上り続ける。グレーの靄がかかった空間、半透明の階段を。ユンがドアノブに手をかける。ああ、もうすぐ辿り着くのに、待って、行かないで。



「っユン!!」



 するとユンは驚いたような顔をして振り向いて、ドアノブから手を離した。いつもは声なんて出せないのに、今日は何故だか声が出た。待って、待ってと2段跳ばしでユンの元へ駆け上がる。あと、5段、3段。1段。扉の前、踊場のようなところまで辿り着くと、グレーがかった靄が少し明るく、優しい色へ変わった。息を切らしながらユンに駆け寄ると、ユンは困ったような微笑みを浮かべた。



「っ…ユン」



 ユンのシャツの裾を控えめに指先だけで握ると、ユンはわたしの目にかかっている髪の毛を優しく横へと流して、わたしの頬を親指の腹でそっと撫でた。それがやけにくすぐったくて、わたしは笑って身じろいだ。でも、その優しく触れる指先の感触があまりに懐かしくて、本当は泣きそうだった。サラリ。ユンはわたしの髪をとかすように撫でると、わたしの耳元に近づいて言った。



「明日の夕方6時、あの場所で」



 そう言うとユンはもう一度わたしの髪をゆったりと撫でて、どこか淋しさを感じさせる微笑みを見せて、ドアノブに手をかけた。行かないで、待って、と心の中で叫んだ。心臓が警鐘のように早く、高鳴る。それでももう、わたしの声が空気を震わすことはなかった。そのままユンは振り向くことなく、扉の向こうへ去って行った。扉の向こうは、真っ黒い闇だった。真っ暗で、何もなくて、泣きたくなるほどの空虚。





「っ待っ!…て」



 夢だとわかっているのに、思わず叫んでいた。汗だくになって目覚めたのに、手足は気味が悪いくらいに冷えていた。カーテンが透けて、青白い光で満たされていたはずの部屋には、カーテンでも遮れないほどの強い日射しが降りそそいでいる。時計の針は12を優に越えて、2を少し過ぎたところにいた。体が嫌に重く、長い間眠っていた筈なのに、体はひどく疲れ切っていた。とりあえずシャワーを浴びて、この嫌な汗を流してしまおう。枕元の携帯が光っていたように見えたけど、大した用事ではないだろうと、無視した。


 火照った体に少し温めのシャワーを浴びてしばらくすると、混乱した頭も冷静さを取り戻してきた。そうして思い出した。起きた瞬間はただただ悲しいだけだった夢の中身を、昨日と言うよりも今日の深夜、あの夢の中でユンが言っていたことを。夢にしてはやけにリアルだった、ユンの髪に触れる仕草や頬への感触。そしてそれに賭けてみたくもなった。現実的に考えて見れば、到底あり得もしない話だ。それでもわたしは、ユンを信じてみたかった。どんな形であろうと、例えそれがユンに知られることはなかろうと、ユンを疑うことだけはしたくなかった。


 シャワーを終えるとだいたい3時を過ぎたところだった。ぼーっとしながら着替えを済まし、しばらくしてから家を出た。今までユンと一緒に行ったところを見て回り、そのあと約束の場所に行こうと思った。





 幼少期を一緒に過ごした雑司ヶ谷の、あの独特な雰囲気は、ユンや英士にとてもよく馴染んでると思う。都電の寂れた踏切や荒川線の低い立体交差の、あのレトロな感じというか昔と変わらない安心感や、しかしそんな中にも感じられる都会の片鱗が、彼らに似ていると思った。


 3人で通った小学校の近くの小径をゆったりと歩く。小径は小学校のグラウンドに面していて、高いフェンスと深緑色をした防球ネットに遮られている。フェンスの向こうではサッカーをしている小学生がたくさんいて、あの頃を思い出させた。


 幼少期の1歳の違いというのは、ほんとに大きなもので、1対1の勝負をすれば、いつでもわたしたちより一つ上のユンが勝った。顔には出さないけれど英士はそれをとても悔しがって、でもユンが手加減をするとあからさまに不機嫌そうな雰囲気になったものだった。



「懐かし……」



 かしゃり、フェンスに手を掛ける。子供の、あの頃独特の高い声がこだまする。ああ、あの頃のわたしたちも、こんな風に無邪気に笑えていたのだろうか。少なくともユンや英士は、そうではなかったかもしれない。


 わたしに知られまいと、2人で口裏を合わせひた隠しにしてきたことがあった。それはサッカーや勉強の出来る彼らに対する妬みのような小さなものから、彼らにはどうすることも出来ない民族的な差別まで様々だった。


 わたしが何より辛かったのは、そんな事実があったということよりも、長い間それに気付くことが出来ず、気付いても何も出来なかった不甲斐ない自分の存在だった。そのような事実はあってはならない、とは言われていても少なからず世界中の何処かに存在するものだ。世界屈指のビッグクラブから、小さな誰も知らないような町でも。


 それでもユンは笑っていた。しかたないよ、と。何もかも悟ったかのように。でもその後に続けて言うのだ。


 そんなの関係ない世界に、実力が全ての世界に必ず行く。


 そう語る瞳は強かった。こんな小さな学校の、寂れて塗装も剥げ、ところどころネットが切れたゴールなんて見ていなかった。このゴールのもっとずっと先の、世界一のスタジアムの、世界一のチームのゴールを見据えていた。それを見た瞬間、ああ、ユンは行ってしまうんだな、と思った。


 実際、ユンはそれからしばらくして韓国に戻り、15歳のときにスカウトを受け、プロサッカー選手としての人生を歩み始めた。この小径も小学校のグラウンドも、ユンにとっては人生のほんの、本当に小さな一部分でしかなくて、その中にちゃんとわたしが入れているのか不安になった。





 学校の周りをぐるりとまわって、ゆっくり歩くと5時45分。もうすぐ約束の場所―あの公園―に着く。あの公園も、彼らの練習場所の一つだった。小学校は最終下校時間を過ぎるとグラウンドも使用禁止になってしまって、もっと長い時間サッカーをしたがった彼らは、小学校から直でこの公園に通っていた。


 砂場の前、何もないスペースで、彼らはまた1対1をして、それをわたしはブランコに座りながら眺めるのだ。だからいつからか、ちょっとしたフェイントなら、どっちから抜くかが判るようになってしまった。


 ギィ、コ。ギィ、コ。足をぶらぶらさせながら、今日はどちらが勝つのだろう、英士には悪いけど、今日もユンが勝つのかな、そんなことを考えながら、いつまでも座っていた記憶がある。どれだけ日が暮れようと、どれだけ寒かろうと。



 公園は当時と変わらない姿を保っていた。彼らがボールを蹴り合ったあの場所も、わたしが座っていたブランコも。多少、遊具の塗装の違いはあれど、それは確かに記憶の中の公園そのものだった。



「小さいなぁ……」



 ギィ、コ。あの頃と同じように、ブランコに座る。目線はあの頃より数段高くなって、足もとがだいぶ窮屈になっていた。ああ、あの頃わたしは幸せだった。大好きなサッカーを間近で観て、一緒にはしゃいだり、外に連れ出されたり。そして何より、大好きなユンが近くにいた。


 自分の気持ちは、伝えなかった。ユンはそれに、気付いていたかも知れない。それでもユンは、気付いていないフリをし続けてくれた。わたしもそれで十分だった。練習が終わって、いつも待たせてゴメンと、わたしの頭を優しく撫でてくれるだけでよかった。



「それだけで、よかったのに」



 そんな些細なことすらも、もうなくなってしまった。いつのまにかユンも英士も、わたしの知らない二人の方が多くなった。特にユンは、遠くて、もうわたしのことなんて見えていないんじゃないかと思った。そう思う度に胸は苦しくなって、隠しきれない嗚咽が漏れた。そんな多感な時期も過ぎて、もう大丈夫だと思ってたのに、わたしが1歩進んでいく間に、気付けばユンは2歩3歩と進んでいってしまって、もう背中が遠く見えない程になった。多感な時期が過ぎたからじゃない、ユンがあまりにも遠すぎて実感が湧かなくなっただけだった。



6時まで、あと10秒。
5秒、
2、




「……、やっぱり」



 何もないよね。当たり前だ、だってあれはただの夢だったんだから。そう思って帰ろうとブランコから立ち上がろうとすると、公園の入り口の方から、ジャリ、と砂を踏みつける音がした。誰もいない公園には、その音がやけに響いた。



「なまえ」



 それは幼少期から聴き慣れた声。声変わりを迎えようとも、試合後でどれだけ喉が嗄れていようとも、いつだって独特の雰囲気で私を包んだ優しい声。顔を上げなくても、すぐにそれと解る。わたしの特別な声。



「……ユン」



 顔を上げると、そこにはいつものユンがいた。最後に見たときより、いくらか痩せているような気がする。尤も、最後に見たと言っても、TV画面越しに見た、試合に出ているユンだけども。リーグ戦も終盤に差し掛かって、あれだけ激しい優勝争いが繰り広げられているんだ、心身共に疲れているに違いない。



「痩せた、ね」
「っ……なまえ」



 ねぇ、どうして。こんなに久しぶりに逢えたのに、どうしてそんなに悲しそうな顔をするの。



「いつこっちに来たの?リーグ戦は?まだやっているでしょう」
「なまえ」
「そうだ、この前ね。ユンのユニフォーム着た小さい子を見たよ、」
「……なまえ!」



 小さい子を見たの。あの、ユンがいつも着ているユニフォームを、サイズがなかったのか、ずいぶんとダボつかせて着ていて。


 着ていて?それから?


 思い出せないの、その後どうなったのか。



「……リーグ戦は終わったよ。優勝は、出来なかった」
「?……でも、わたし、」
「もう……大丈夫だから」
「……ユン?」
「もう、僕は大丈夫だから」
「……」



「だからもう、逝っていいんだよ」



 ちょっと思い出せないだけなの。だから、そんなに悲しい顔、しないでよ。



「……ユンのユニフォーム、着ていたの」
「うん」
「自分の顔よりずっと大きい、ボールを追いかけてね」
「……うん」
「あの頃のユンにそっくりだったの」


「わたしと英士と、3人でいた頃の、ひたすらボールを追いかけるユンに」


「……っ、うん」


「守りたかったの、大好きだったから。わたしが大好きだったユンが大好きだった、大切にしていたモノを守りたかったの。ユンを大好きでいてくれるモノを守りたかったの」



 自分のしたいようにしただけよ、だからそんな顔しないで。



「そっかぁ……、やっぱりダメだったかぁ」
「2週間くらい、頑張ってたんだけど」
「仕方ないね、長期戦は昔から苦手だったし」
「……」
「テスト勉強も何も、長い間してられなかったし」



 上手く笑えただろうか、少しでもユンを安心させられる材料が欲しかった。でも、きっと。ユンは気付かないフリをするんだろう。本当は泣きそうな情けない顔をして笑っていることも、解っている。



「ねぇ、わたし上手く、笑えてる?」
「……うん」
「そ、よかった」



 手や足の先から、すうっと感覚が薄れていく。起きたときに感じたような冷えが、末梢神経から全身に伝わっていく。ああ、もう時間なんだ。



「いつか、」
「ん?」
「いつか世界最高の舞台に立ったとき、」
「うん」
「わたしの命を賭けて助けた、あの子を必ず招待して」
「……もちろん」
「……それまでユンのファンでいてくれたらだけど」
「……そうだね」



 最期は笑ってさよなら出来そう。なんとなくそんな予感がした。こうしている間にもだんだんと体中の感覚が失われてきて、指先に至っては透け始めたみたいだ。



「なまえ」
「ん?」



 神様はなんて気紛れなんだろう。今まで散々、ユンには触らせてくれなかったくせに、最期の最期でこんなに粋な計らいをするんだから。感覚がなくなっていったはずの背中が、前に逢ったときより一層逞しくなったユンの腕を感じた。サラリとわたしの横髪を掻き上げる指は、夢の中よりずっとずっと優しくて。唇に感じた熱は、わたしを抱きしめる腕より、わたしを撫でる指より、ずっとずっと熱かった。











20110520




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