ジャキン、……パラパラ



「う、そ」



 前髪が、わたしの視界から消えた。



「〜〜っちょっと!ぶつかったりするから前髪!なくなったじゃん!」
「あ?いつまでも占領してっからだろ」
「あああどうしよう……!」
「誰もお前なんか見てねぇよ」
「ハァ?今何っつった?」
「誰 も お 前 の 前 髪 な ん か 見 て ね ぇ よ !」
「〜〜もういい!」



 前髪は、わたしを外の世界から守る防御壁だ。瞳の奥さえ見られなければ、自分の真意なんてそうそう伝わるもんじゃない。やっかいごとを避けて、当たり障りのないことを言って、なんとなく周りと合わせて生きていければいいと思っているわたしにとって、前髪はとても大事なものなのだ。瞳にかかるくらいに前髪を伸ばして、わたしの気持ちを隠して、他人に瞳を見られないように、ずっとそうしてやってきた。


 それなのに。少しだけ、ほんの少しだけ長さを揃えようとハサミを手にして、失敗しないようにと慎重に鏡とにらめっこをしていたら、あろうことか弟が、わたしに、ぶつかってきた。ぶつかった衝撃でハサミは大きく開けていた口を閉じ、わたしの視界から光に透けて焦げ茶をした髪がなくなった。 ハラリ、ハラリと散る様は、まるでスローモーション。




 ああ、どうしよう。学校、行きたくないなぁ。




 どれだけわたしが行きたくないと願ったところで、無情にも時計の針は進んでいく。リビングでお母さんがごはん出来てるわよー!と叫んでいるのが、わたしの頭を余計痛くさせた。鏡の中にいる前髪が眉毛ギリギリのわたしはいつもの数倍疲れた顔をしていた。



「……行ってきます」
「若いんだから、シャキッとしなさいよー」
「……うん」



 そうは言われても、どうにも元気なんて出せるはずなかった。なんとなくみんなと合わせて笑って、出来るだけ輪を乱さないように。ずっとそうやって生きてきた。生まれついて人よりつり上がったわたしの目尻は、よく生意気だとか調子に乗ってるだとか言われることが多くて、そのせいで中学時代は辛い思いもたくさんした。だからイヤなのに、自分の目つきのせいで謂われない非難を浴びるのはもう、うんざりだった。


 いつもより早く家を出て、学校への通学路に就く。いつもと同じ風景のハズなのに、少し時間が早いせいなのか、それともわたしの前髪が短くてはっきり世界を見渡せるせいなのか、時間がゆっくり流れているようで、荒んだわたしの心を少しだけ落ち着かせた。



 けれど、やっぱり学校に着くと話は別で。さっきなんとなく落ち着いていたはずなのに、教室が近付くにつれて拍動が速くなる。――またあの頃みたいに、何か言われるんじゃないか。わたしはそんなこと思ってないのに、生意気だとか、またみんなが陰で何か言うんじゃないか――ドクドクという拍動がダイレクトに脳に反響する。ドアの取っ手を掴む手が震える。



――ガラッ



「あ、は。そう……だよね」



 いつもよりも家を早く出たんだ。みんなが来てないのも当たり前だ。まだ落ち着かない心臓のまま、窓際の自分の席に座る。近くの窓を開けて、少し冷たい、でも澄んだ空気を教室に入れながら、窓の外を眺める。吸い込んだ空気は肺の奥でツンと刺激を感じる、でも何故だか心地良い。



――ガラッ!



「はよー!」
「!……あ、おはよう」



 急に開いた扉の向こう、いつもは遅刻ギリギリに来るはずの若菜くんがいた。落ち着き始めていた心臓もおかしいくらいに騒ぎ出した。でも平静を装って窓の外、グラウンドで朝練をしている野球部を見るフリをしたまま話しかける。



「……今日、早いんだね」
「こないだの公欠ん時の課題出されちって!べっつにこんな朝じゃなくてもよくね!?」
「あ、うん……そ、だね」



 どうやらこの間の公欠――確か世代別の代表かなにかの大会――でいなかった分の課題を渡されたらしい。若菜くんは普段はいつもみんなとふざけてばかりだけど、サッカーがとても強くて、あの日本代表の青いユニフォームを着て、世界を相手にプレーをしている。時々スポーツニュースにその試合映像が出たり、サッカー雑誌に載ったりと、実はとてもすごい。


 そんな若菜くんみたいな、目立って発言力も周りからの人望もある人に、目を付けられたりしたら大変なことになる。今までわたしにいろいろ言ってきた人は、どれもみんな周りにたくさんの人がいて、誰かの意志を発言で操れるような人だった。



「てかさー」
「!」
「みょうじさんさ、前髪、切ったよね?」



 来、た。



「……うん」



 お願いだから、何事もないように。



「短い方が、イイね。前髪」



 きっとお世辞なんだろうな。まだ他のクラスメイトが来るには時間がある。話す相手がいないからわたしに話しかけてるだけで、後で陰で何か言うんだろうか。



「そんなこと、ないよ。だってわたし、目つき悪いし」
「短い方が明るく見えるって!絶対!」



 なんで、そんな風に言えるの?



「……それは、自分のことじゃないから言えるんだよ」
「……」
「わたしは、っ何もしてないのにあることないこと言われて。若菜くんはそんなことされたことないからっ、どうでもいい他人だからそんなこと言えるんだよ!」



 ああ、言ってしまった。泣きたくなんてないのに涙がこぼれる。馬鹿みたいに取り乱してしまったわたしに対して、若菜くんは至って落ち着いていて、真っ直ぐ強い眼差しでわたしを見てくるから、思わず視線が宙を泳いだ。結局わたしの視線は斜め前の席の脚に落ち着いた。それでもわたしの心の中は、ざわついたままで落ち着かない。



「どうでもいいとか、思ってねぇよ」



「え……?」



「どうでもいいとか思ってたら、みょうじのこと目で追って、前髪もっと短くすりゃいいのにとか、そしたらもっと可愛くなんのにとか、思ったりしねぇよ」


「なぁ、自信持てって。みんなも待ってんだよ」


「みょうじがホントに笑うの」


 本当は心のどこかで、そんな酷いこと言うようなクラスじゃないって、わかってた。それでも疑心暗鬼になって、みんなはいつだって笑いかけてくれるのに、心を開けずにいたのは、わたしがあまりにも臆病だったから。こんな風に言ってくれる人がいるのに、こんなに暖かいのに。


 なんでもっと自信を持てないんだろう。家だったら大丈夫なのに、学校じゃいつでもビクビクして。なんでもっとみんなを信じてあげられないんだろう。自分が情けなすぎて、でもこうして手を差し伸べてくれる人がいて。



「……っ短い方が、似合うのかなぁ?」



 もうちょっと、頑張れるかな。



「短い方が、ずっと可愛い」



 頑張れるよね、きっと。だって、









「あー、若菜なまえちゃん泣かしてるー」
「ばっかちげぇし!」
「てか前髪切ったんだー、かわいー」
「……うん」



「な、……俺の言った通りだろ?」



:)20110403




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