隣の席の若菜結人は、遅刻魔である。


 8時35分までに着席しなければならないはずなのに、大抵彼は8時35分を少し回った頃にやって来る。息を切らして、額にうっすら汗を浮かべて。



「若菜アウトー!!」
「いや!ギリセーフだって!!」



 先生ももう慣れた様子で、出席簿に『遅刻』と記入をする(ただ単に若菜結人の出席番号がクラスの一番最後だからかもしれないが)。クラスメイトと言い訳のやり取りをしている若菜を見ると、いつも思う。毎回遅刻しているのだから、いい加減に学習すりゃいいのに、と。あと5分早く家を出れば、遅刻することも、汗をかくことも、時間を掛けてセットしたのであろう髪型が崩れることもないだろうに。



「てかイタリアどうだったー?」
「んー、惨敗!」



 語尾に星マークでも付くような軽い口ぶり。先週までサッカーの遠征にヨーロッパへ行っていたが、試合の結果は散々だったらしい。騒ぎ立てながら着席する若菜に担任が、「授業のノートはしっかりコピーしとけ」と忠告した。こうでも言わないと若菜は進んだ授業を確認しないままその授業に出席するだろうと見抜いたからだ。最初のうちは『写しておけ』だったはずのフレーズだが、若菜の性格を察してか担任はいつのまにか『コピーしておけ』に変わっていた。



「りょーかいでーす」



 間延びした若菜の声に、一緒に騒ぎ立てているグループのある女子が「あたしのノート貸すよ〜!」と話しかける。普段はノートなんてまともに取りもしないのに、若菜が遠征などで公欠したときに限って、ノートを取っている。もちろん若菜にノートを貸すためだけに。



「おー、サンキュー!」



 もやもや、もやもや。心の中で渦巻く小さな、ほんの小さな闇があたしを包むのではないかと錯覚した。端から見ればほんの些細なこと。だけどあたしを飲み込むには充分すぎた。あたしは心にもやもやを抱えたまま、授業の準備をした。





 暖かな陽射しが差し込み、午後の教室は一気に暖かみで包まれる。昼休みを終えた5時間目も中盤を過ぎた頃だった。空腹が満たされたからか、教室の暖かさにやられたのか、はたまたその両方なのか。隣の席の若菜結人は堂々と机に突っ伏したまま眠りについていた。以前「過去は振り返らない!」と豪語していたので、午後の世界史の授業ほど、睡眠に最適な授業はないはずだ。



「(よくもまぁ、こんな堂々と……)」



 眠れるものだ、と呆れかえっていると、若菜が眠っていると気付いたのか、世界史担当のおじいちゃん先生は若菜を指名してきた。黒板には中世ヨーロッパの様子が描かれた壁画の資料が貼られていて、どうやらこの絵から読み取れることを質問したいらしい。



「えー……じゃあ若菜、この壁画から読み取れる事は?」



 名前を数度呼ばれて気付いた若菜は、苦笑いをしているが、焦りで顔が引きつっていた。黒板の壁画と、その前の板書を見る限り、どうやらこれはビザンツ帝国の力関係についてらしい。



「(左側が聖職者で、右側が将軍、ってことは……)」



「あー……、っと」
「中央にいるユスティニアヌス帝の権力が強い」



 若菜は驚いたようにこちらへと小さく振り向く。「早く、」と言う意味を込めて強めに目線をやると、慌てたようにあたしが耳打ちした答えをそのまま言ってみせた。おじいちゃん先生は耳が遠いから、あたしたちのやり取りが聞こえなかったらしい。若菜の答えを受けてそのまま授業を続けた。



「そう、ビザンツ帝国は西ヨーロッパ世界と対照的な皇帝教皇主義だと言うことがこの絵で解る。」



 そうしてまた先生のお経のような自己満足の授業が延々と続くのだ。安心したようにため息を吐くと、同じように若菜もため息を吐いた。少し驚いて若菜を見ると、同じように若菜もこっちを見ていた。



「みょうじ、ありがと!」



 笑顔でそう言う若菜に、驚いたというか、なんて言ったらいいのかわからない気持ちが胸の中を巡る。午前中にあの子に言っていた「サンキュー」とは、何故だか違うような気がして、嬉しかった。……嬉しいってなんだ、あたし。



 授業が終わって、若菜は大きくのびをして(ついでに言えば奇声を上げて)立ち上がった。背骨をボキボキ鳴らして、廊下へと出て行った。きっと他クラスにでも遊びに行ったんだろう。



「……パンツ見えてんぞー、」


 今度は、ノートを貸してみよう。ズボンがずり下がって変な柄のパンツが見えた、隣の席の遅刻魔、若菜結人に。






(まだ、気付いたばかり)




:)20101124




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