※「今更言えないよ」続き

 この間の飲み会のことはすべて忘れることにした。成人して何年経っているんだ、あるまじき失態だ……。飲み過ぎて記憶までなくして、挙げ句自宅に帰れなくなるなんて。あの日見た天井も、何もかもわたしは知らない……、とまではいかないけれど、とりあえず何事もなかったかのように日々を過ごしている。あの日、ファミレスで朝ご飯を食べて眠い目を擦りながら解散してから、これと言って倉持からの連絡はない。

「みょうじさーん」

 同僚がわたしを呼ぶ声がする。仕事中は仕事に集中しよう。いかにわたしが不良社員の給料泥棒だろうと、とりあえずやることはやっておかねばならない。同僚から受け取った資料に目を通して、データを入力していく。経理部門は月末月初以外はのんびりとしたものだ。平時はあまり仕事に追われることはない。繁忙期の残業はとんでもないが、それでも他の部署と比べたら、平均残業時間は短い方だと思う。「銀行に寄ってきます」と言えば中抜けだってできるし、毎日コーヒー片手にPCに向かっている。それもこれも全部、学生時代にちょっとした部費の経理担当をやっていたおかげ。「領収書早く出して」と部員に向かって口を酸っぱくして言っていたそれが、社内の人間に変わっただけだ。汚い部室のロッカーや、何が入っているかわからないカバンからしわくちゃの領収書を探し出していたあの頃よりは、今の方がよっぽどマシだ。

「……あ」

 スマホの通知が光っている。スマホ片手に作業をしてたって、特に怒られないのがこの部署の良いところ。電卓を使っているフリやスケジュールを確認しているフリをすれば、まわりは何も言ってこない。流石に電卓ぐらいはちゃんとしたものを使うけど、そこはご愛嬌といったところ。目を瞑って頂いている。請求金額の誤差さえなければ、あとはこっちのものだ。通知画面の一番上、ぴかぴかと主張をする新着のメッセージから飛ぶと、倉持からの連絡だった。

『金曜メシ行かねえ?』

 それだけの簡単な連絡だったけど、返事をするには十分だった。

『いいよ、どこ行く?』



 そういえば、こんな風に事前に連絡を貰って、店の予約までして飲みに行くのはいつぶりだろうか。そんなことを思いながら、駅ビルのショーウインドウに映った自分を見やる。待ち合わせにはまだ十分な時間があるから、手持ち無沙汰になっていたずらに前髪を弄る。終業後に重たくなっていた前髪には、SNSで話題になっていた魔法の粉を軽く振って、朝家を出たときの仕上がりには及ばないけど、それでも上々の仕上がりだった。
 大学を卒業し、それぞれ就職したばかりの頃は、相手の仕事のスケジュールどころか自分のスケジュール感すらわからなくて、「この日は絶対に早く帰らせて下さい……」なんて部内朝礼で頭を下げたこともあったっけ。それが段々とタスク管理を覚え、繁忙期の乗り越え方を学んで、気付いたら終業後の軽いノリで飲みに行くことの方がずっと多くなった。
 半泣きになりながら頭を下げたわたしに、先輩達は「繁忙期じゃなければ残業してまで終わらせなきゃいけない仕事なんてないから」と笑っていた。「デートか?」なんてからかう先輩に、「そんなんじゃないです!」とムキになって返した新卒のあの頃が懐かしい。何をあんなに必死になっていたんだろうか。わざわざ頭を下げてまで、飲みに行くような相手なんて今までいなかったはずだ。気心の知れた女友達――例えば幸とか、だったらたぶん、「遅れる!」とメッセージを送って、仕事を終わらせてから合流しただろう。
 仕事のときは疲れるからと、いつもは履かないヒール。今日はなんとなく、一目惚れして買ったヒールを下ろした。爪先から頭のてっぺんまで、ショーウインドウで確認する。好きな色のワイドパンツを履いて、お気に入りの柄のシャツを着た。なんだ、今だってそうじゃないか。

 ヒールを履いていると、少しでも顔が近くなるから。高校時代にあった身長差を、大学時代にまた、ほんの少しだけ遠ざかったあの目つきの悪い顔との距離を、自力で埋められる手段だったから、ヒールを履いた自分が好きだった。学生時代には気付かなかった、ヒールを履いている時だけ、気付かないくらいにちょっとだけ、ゆっくりと歩いてくれるぶっきらぼうな背中が好きだったから。倉持相手じゃなかったら、先輩に頭を下げてまで飲みになんて行かない。前髪だって入念に直さないし、お気に入りの服に下ろしたてのヒールをわざわざ選ばない。

「わりい、待った?」
「今来たところ」

 倉持じゃなかったら、今来たなんて嘘、吐かない。



「あの後無事に帰れたかよ」
「あー、おかげさまで」

 いつもは行き当たりばったりに大衆居酒屋に入り浸る癖に、今日に限って何故だかイイ感じの飲み屋に連れて行かれた。なんでよ、変に緊張するじゃん。この間の失態を掘り起こされて、反射的に当たり障りのない返事をする。なんか、変、こんなのわたしじゃない。蒸し返されたんだからしょうがない、もう開き直ってあの日の話をしよう。

「てかあのベッドさ、寝心地悪すぎて笑った」
「オメーそれが人のベッド借りて爆睡したヤツの態度か」
「いやごめんだけどマジの話です」
「んなモン毎日寝てる俺が一番わかってるわ」

 失礼を承知でマットレスのダメ出しをする。いや、だって本当だったんだもん。もうちょっと良いの買いなよ。笑い声と共にビールを流し込む。ああ、こうやって笑い合えるだけでも幸せなのかな。テーブルの向こうの倉持はわたしの発言に少し怒ったような、マットレスの質の悪さを思い出したような、なんとも言えない複雑な顔をしていた。これでいいんだ、軽口を叩き合って、今までやってきたんだもん。空いたグラスを店員に預け、新たに注文をする。次は何を飲もうかな。やっぱりここは、レモンサワーで。



「また行き遅れだ〜……」
「ヒャハハ、もう諦めろ」

 酔えば酔うほど愚痴っぽくなるのはわたしの悪い癖だと思う。今飲んでいるこの酒は一体なんだ。それすらもわからなくなってきた。さっきトイレに立った時、実家の母親から妹の結婚式のドレス合わせの写真が送られてきた。「姉より先に嫁に行く親孝行な妹の写真です」「なまえは最近どうですか」なんて聞かなくてもわかっていることをわざわざ連絡してきた。先立つ予定も特になく、金曜の夜にくだを巻いているのがわたしという女です。好きな人が目の前にいたって、自分からは踏み込むことなんてできない。バカで臆病なわたしをどうぞ笑ってくださいな。

「妹の結婚決まってからの親の冷たさよ……」
「しゃーねぇな、三十まで売れ残ってたら貰ってやるよ」

 ねえ、それってどういう意味? 聞きたいけど聞けない。だってわたしたち、そういう関係じゃない。いつもお互いにふざけ合って、なあなあにして、笑顔を貼り付けて生きている。倉持といるこの時間が、楽しくないわけじゃない。けれど、この時間をいつまでも続けられる程、わたしたちは子供じゃなくなってしまった。学生時代の友情の、賞味期限は短いのだ。思わず動きが止まったけれど、誤魔化すようにグラスに残った甘ったるい酒を一気に呷って、隠れて一緒に涙も飲み込んだ。

「なにそれ、冗談」
「笑えねーな」

 そう言って同じように酒を呷った倉持が、何を考えているのかわからない。深く考えたら、負けなんだと思う。


 ネオンが輝く繁華街の風景は、いつも少しだけわたしを寂しくさせる。この風景に放り出されると、もうわたしたちに待っているのは「ばいばい」だけだからだ。「またね」があるだけ、マシなのだろうか。慣れない甘い酒を飲んだからか、なんだか思考がいつになくまとまらない。先を歩く倉持は、わたしが好きになったあのゆっくりとした歩き方で、でも確実に駅までの道を進む。その背中が繁華街の喧噪に溶けて消えてしまいそうで、心臓が握りつぶされたみたいに悲鳴を上げた。行かないでほしい、本当は、隣を歩きたい。妥協じゃなくて、倉持がいい。

「三十じゃ、やだ」
「……は?」
「三十じゃなくて、今すぐがいい」
「お前、それ」

 どういう意味だか、わかってんのか。そう言いたげに見つめられる。未だに肉刺だらけのその手を取ることはできなくて、袖口に手を伸ばした瞬間、思わず口をついて出た言葉に、鋭い瞳がいつになく大きく見開かれていた。ネオンが煩い繁華街の路地で、わたしはもうどうしたらいいのかもわからずに、その瞳から逃げるみたいに酔っ払った振りをしてしゃがみ込んだ。面倒臭い女だ、こんな女嫌に決まってる、そういう相場があるものだ。自分の惨めさに涙が出て、ばれないようにと深く俯いた。
 俯いた頭の上で、何かが動く気配がした。わたしの目線の先の地面には、まだ見慣れない革靴。だってあんなに、スパイク姿、見てきたんだもん。わたしは何時まで経っても自分たちが大人になってしまった事実を受け入れられずに、こうして駄々を捏ねては倉持を困らせている。「だいじょぶかぁ」なんて、からかうような酔っ払いの声と共に、「彼氏いるんだから!」なんて笑い声がする。彼氏だったらどんなによかったことか。こんな些細なことでまた目頭が熱くなる。思っていたよりずっと近くから、倉持の声がする。

「さっきのよ」
「……」
「冗談っつーから、流したけど」
「……うん」
「冗談なワケねーだろ」

 嘘だ。思わず顔を上げると、いつになく真剣な瞳と視線が絡む。この瞳をわたしは知っている。七年間、この瞳を傍で見てきた。わたしの大好きなまなざしだった。

「どーでもよかったら酔って終電逃したってその辺に転がしとく」
「……うん」
「好きでもねーヤツに、わざわざ連絡してまで飲みに行かねぇし」
「……っ、うん」
「毎週お前のために、金曜空けてたんだけど」

 解れよ、とでも言いたげに、少しだけ視線を逸らされる。目にとまったその耳がいつになく赤いことに、わたしはもう気付いてしまった。でも、でも。言葉にしてほしいって思うのは、わがままですか。拗ねたように尖ったその唇から、紡いで欲しい言葉があるのです。

「部員のために走り回って日に焼けまくってたところも、洗濯しまくってあかぎれだらけになってたとこも、一回決めたら頑固なとこも、……高校の時から、ずっと好きだったんだよ。お前は気付いてなかったかもしんねーけど」
「嘘だぁ……」
「嘘じゃねーよ、誰にも言ってなかったけど」
「……本当に?」
「ホントだよ。誰かに持ってかれねーかいつもヒヤヒヤしてたっつの」

 頭の上に、ぶっきらぼうな手が降ってきて、気恥ずかしそうにわたしの髪の毛を撫でた。その手はぎこちないくせに、嫌に優しくてまた涙が出る。それならもっと早く言ってよ、なんて口が裂けても言えなかった。だって、野球に真っ直ぐなところが好きだったから。わたしの存在でその気持ちが濁ってしまわないか、いつも怖かったから。ぐっと手を引かれて、立ち上がるように促される。視界いっぱいに広がったネオンが、いつもよりずっとキラキラして見えた。あんなにも寂しい気持ちにさせてきたこの街の喧騒が、一瞬で変わってしまうのだから不思議だ。

「わたし、倉持の彼女でいいの」
「……みょうじだからいいんだよ」
「わたしも、倉持がいい」

 やっと言えた。ずっと言えなかったその一言は、驚くほどすんなりと馴染んだ。立ち上がらせるために掴まれたと思っていた手はそのままに、変わらず硬い肉刺を感じる。ああ、これが学生時代だったら、もっと、なんて考えたけど、それは何も意味のないことだったからすぐにやめた。今、こうして隣にいる、それだけでいい。命を燃やすように、ひたむきに野球に向き合う姿を、かけがえのない時間を一緒に過ごせた。それはそれで、何にも代えがたい特別な時間だったのだから。思えば沢山遠回りをした人生だったと思う。それでも、誰が何と言おうと、今、わたしは世界で一番幸せな人間だから。硬い掌から伝わる少しの緊張も、今は何もかも愛おしかった。

「ねえ、お願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「マットレス、買い換えて」

 だってわたしも使うから。ここで言う事かよ、とでも言いたげにひとしきり笑ったあと、倉持はこう言った。

「狭くなるからベッドごと買い換えてやるっつの。流石に今日は我慢しろよ」


君が好きだと言ったから


20210117



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