嫌なことが重なりに重なった。
 天気予報は晴れだったのに通り雨に降られそうになって傘を取りに戻ったら遅刻しかけた。朝から走ったわたしの前髪は見るも無惨にバラバラで、「前髪どうした?」なんてからかってくる先輩に対して「シースルーバングです」と不機嫌な顔で誤魔化すことしかできなかった。新しく下ろしたパンプスはなんだか小指のあたりがきつくてイライラする。
 仕事では社内の連絡ミスで取引先にぐちぐちと嫌味を言われて、わたしのせいでもないのに頭を下げ続けて、気が付けばお昼休みをだいぶ過ぎていた。金曜のご褒美に、と買いに行こうと思っていた少し高めのお弁当屋さんはとうに完売店仕舞い。仕方なくコンビニに行くもスカスカの商品棚には大して好きでもないお弁当しか残っていなくて、好きでもないものにお金を払うのはなんだか癪に障って、レジ横のホットスナックを買って帰った。イライラするからGAVA入りのチョコも買った。効くかはわからない。
 やっと一息と思いきや、昼休みがとっくに終わった職場ではひっきりなしに電話が鳴って、電話応対に追われる始末。席について慌てて取った電話口の向こうの取引先はどうやらご立腹のようで、声色を変えて平謝りする体制に入る。ミスを引き起こしたらしい担当者はこんな時に限って有給でいない。引き継ぎと言うほどのものもされていないから、こちらでは対応しきれない。「確認次第折り返させて頂きます」そう言ったって相手は聞く耳を持たなくて、仕方なく上司に回した電話。嫌々電話に出た上司には、後からお小言を言われそうだしもう最悪の気分だ。
 視界に入るのはさっきまでは温かかったはずのアメリカンドッグとチョコレート。一緒に入れたお茶ももう温くなっていて、この子たちにありつけるのはいつになるだろうと思いを巡らせた。


「みょうじさーん……?」
「……なんですかまたミスでも?」

 案の定電話が終わった上司に呼び出されて、「何年社会人やってるんだ。あれくらい自分で処理しろ」なんて理不尽に怒られた。情報の共有もされていないのにどう対応しろって言うんだ、まったく訳が分からない。すっかり冷たくなったアメリカンドッグを食べようとすればわたしを呼ぶ声がして。度重なるミスに余りにも敏感になって、思わず低い声で同期の事務員に返事をする。焦ったような同僚は顔の前で大きく手を振って否定していて、威嚇みたいなマネをして、申し訳ないことをしちゃったなあと思った。

「違う違う! 今日って予定空いてたりする……?」
「今日……? 特にないけど」
「お願いなんだけど……」

 ああ、なんとなく嫌な予感がする。予定を聞く時は同時に用件も伝えて欲しい。じゃないと空いていると言った手前断りづらくなるじゃない。わたしはそこまで出来た人間じゃないから、予定が空いてたって相手と用件次第で平気で断ったりしますので。

「今夜、合コン出てくれない……? 友達一人急に出られなくなっちゃって!」
「……わたし彼氏いるからちょっと」
「数合わせで全然いいから! お代もこっちで出すし! お願い!」

 そういえば、全然亮介に会えてない。最近はお互い仕事が忙しくてすれ違いばかりだ。わたしの休日出勤が重なったり、亮介の残業が長引いたり。今日もたぶん亮介は忙しくて会えないんだろう。そう思うとこのムシャクシャした気持ちのやり場がなくて、頭を下げ続けている同僚もなんだか可哀想になってきて、やけっぱちで返事をしてしまった。

「数合わせなら……まあ」
「本当!? ありがとう!」

「詳しい場所はLINEするね!」と言いながら足早に去って行く同僚を見て、これで本当によかったのか考える。考えたところで答えは出ないし、会えない事実は変わらない。この最悪な一日がこれ以上最悪になることもないだろうけど、せめてこの『奢り』の合コンで巻き返すくらい許してほしい。LINEの通知が鳴る。こういうところだけはやけに仕事が早い同僚に、スタンプだけで返事をした。……一応、『ごはんに行く』ことだけは、なんとなく後ろめたくて亮介に連絡をした。
 席に戻って、やっと昼食にありつく。昼食と言ってももう三時を回っているけれど。冷めたアメリカンドッグはぼそぼそしていて美味しくなかった。温くなったお茶でなんとか流し込んで、午後の業務に取りかかる。どうか定時まで、いやこの一日が何事もなく終わりますように。



 端的に言うと、合コンは全然楽しくなかった。
 ごはんとお酒だけ楽しめればいいやと思っていたのに、わたしの趣味じゃないごはん屋さんだったし、相手のお酒を飲むノリも全然合わなかった。明らかな数合わせ感のある自己紹介をしたのに、隣に座った男はやけに馴れ馴れしくてしつこいし、同僚に助けを求めようとしても、彼女たちは彼女たちでそれぞれ狙った相手に夢中でこちらの救援信号には気付きもしない。数合わせで呼ぶならそれくらいのフォローは欲しかった。
 亮介といるときは、会話がなくたっていつだって心地良い。お互いがお互いをわかっていて、過不足なく生活が回る。喧嘩することだってあるけれど昔のように馬鹿みたいな意地を張らなくなった分、「ごめん」も「ありがとう」も素直に言えるようになった。
 ああ、わたしのいるべき場所に、亮介のところに早く帰りたい。

「明日早いからわたしはここで……」
「えー! 帰っちゃうの?」
「ごめんなさい」

 あんなにも退屈そうにしていた女をよく引き留めようと思ったな。だいぶお酒が回っているメンバーから一定の距離を取って、最後に店を出た。繁華街の喧噪が耳に痛い。どうやら他のメンバーはこれから二次会にでも行くようだったけれど、強引に引き留められなかったことに胸を撫で下ろした。
 カツン、カツンと、いつもよりずっとゆっくりしたペースでパンプスが鳴る。やっと開放されたって言うのにわたしの気持ちは晴れないままで、なんとなくもやもやしたまま歩き続ける。いつもよりゆっくり歩くのも、この胸のもやつきも、全部全部下ろしたてのきついパンプスのせい。どうしてかなんてわかりきっているのに、事実から目を逸らしたがるのはわたしの悪い癖だ。
 頬を撫でる風は、先週よりもずっと爽やかで心地良い。思っているよりそっと、秋が近づいていた。一駅分歩いて、乗り換えなしの電車に乗って帰ろう。そうすればきっとお酒も抜けて頭も冷えて、気持ちも晴れるだろう。

「楽しかった? 合コン」
「……亮介」

 改めてつまらなかったな、と足元を見ながら歩いていると、耳に馴染んだ亮介の声がする。なんで、いるはずもないのに。顔を上げると、いつもの笑顔の亮介だけど、滲み出る雰囲気が、彼が怒っていることを知らせる。こうなるんだったら、ごはんに行ってくるなんて連絡しなければよかった。そう思っても後の祭りで、ガードレールに浅く腰掛けていた亮介がこちらへ向かってくる。こういうとき、なんて言えば良いんだろう。「数合わせで呼ばれて」「全然楽しくなかった」どれをどう伝えたって言い訳にしかならないなら、わたしにできることはもう謝ることだけだ。

「……ごめん」

 亮介に手首を掴まれて、無言のまま歩き出す。早足の亮介になんとか合わせようと、脚を回すけれどだんだんときつくなってくる。小柄な身体に似合わず、大きくて男っぽい亮介の手が好きだった。わたしくらいの手首だったら、難なく一回りする亮介の手。今はもう、バットを握ることはずいぶんと減ってしまったけれど、代わりにわたしの手を繋いでくれることが増えた。意地悪なことも良く言うけど、優柔不断なわたしをいつだって引っ張ってくれる亮介が好きだ。でも。今は掴まれた手首が痛くて、亮介の手の温もりも分からなくて。ただ、悲しい。

「亮介、あのね」
「……」

 亮介はまだ何も言わない。そりゃそうだ。彼女が『ごはんに行く』なんて言って合コンに参加してたら、怒るに決まってる。それがたとえ数合わせだったとしても。存外嫉妬深い亮介のこと、わかっていたはずなのに、なんでこんなことしちゃったんだろう。涙が出そうになるけど、わたしに泣く資格なんてなかった。

「亮介、ねえ、……痛いよ」

 ぴたり、と亮介の動きが止まる。掴まれた手首も、朝から気になっていた足の小指も、冷や水を浴びせられたような心臓も、何もかもが痛かった。

「……俺の方が、痛いんだけど」

 本当は、手首じゃなくて手を繋いで歩きたかった。どれだけ時間がなくても、一目でいいから会いたかった。隣にいてくれるのは、亮介以外の人じゃ嫌だった。それなのに、そう思っていたのに、好きな人を、大切な人を傷付けた。

「ねえ。手、繋ぎたい」
「……うん」
「あと、悲しい気持ちにさせてごめん」
「……もうこんなことすんな」
「うん、ごめんなさい」

 離さないと言わんばかりに、深く組まれた指。ああ、ずっとこうしたかった。やっと亮介の体温がわかって、ほどける。安心する。うっすらと手にかいた汗が、亮介がどんな気持ちでわたしを迎えに来たのかを物語っているかのようで、申し訳なくて、でも嬉しかった。歩調はさっきと比べてずいぶん緩やかで、もう足だって痛くない。たったこれだけのことで、嬉しくなってしまうわたしはもう、どうしようもなく亮介に甘やかされている。

「どうせタダ飯に釣られたんだろ、食い意地張ってんなバカ」
「く、い意地……張ってなんか」
「ないって言い切れるワケ?」
「……ごめんなさい」

 そういえば、今の今まで気付かなかったけど、わたしの乗る電車じゃない。有無を言わさず通った改札。この路線は、確か。

「俺がどんな気持ちで残業してたかわかる?」
「え、あ。この電車」
「明日の仕事、全部終わらせてきた。せっかく明日空きにしてやろうと思ってたのに? 当の彼女はタダ飯に釣られて合コン参加してるし?」
「うっ……すみません。……って、え? 明日休みなの?」

 亮介の言葉に、思わず俯いていた顔を上げる。駅でお別れだと思ってたのに、予想外の展開にぽかんとしたまま亮介を見つめる。「ブサイクな顔」そう言ってわたしの額にデコピンをする。……痛い。夢じゃない。

「泊まりに来ないの?」
「い、く。行きたい」
「……俺も、ほったらかしにして……悪かった」

 ホームに電車が滑り込んでくる。風で髪の毛がバラバラと泳ぐけど、それもまた心地良い。髪型が崩れるのがあんなにも嫌だったのに、崩れた髪のわたしを丸ごと、亮介は好きでいてくれるって知っているから。だからもう、なんでもいい。開いた電車の扉は、見慣れたそれのはずなのに、一瞬にして豪華な馬車に変わった。わたしの最悪だったはずの一日は、亮介が最高の一日に変えてくれる。まったくわたしにばかり都合が良い魔法みたいだ。気まずそうに目線を逸らす亮介は、わたしだけの魔法使い。お城には行かないこの馬車で、どこまでも攫って行ってくれる。


きみはまほうつかい

「変な男に引っかかるなよ」
「引っかかってない! ……亮介以外が隣にいるの、嫌だったもん」
「……へえ、隣に男座らせたんだ」
「隣に座っただけだから!」
「どうだか」

20200831


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