メーデー、メーデー、聞こえますか。こちらは屋上、プールサイドより救難信号。


 本日は晴天なり。梅雨の合間を縫ったかのように顔を見せた太陽は、容赦なくジリジリと肌を焦がす。六月の太陽は思っている以上に手強い。遮るものが何もないこの屋上には、痛いくらいの陽射しが照り付けている。水が張られたプール、水面がキラキラと輝く。プールサイドのコンクリートに照り返した光が目に痛い。
 何故こんな時期に屋上のプールサイドにいるかというと、時を遡ること数時間前。


「えー、今日の体育。見学のものはいるか?」

 朝のホームルーム。突然の担任の問いかけにおずおずと手を上げた。だって、だって、体操服もジャージも忘れてしまった。こんな日に限って友達のクラスは体育がなし。朝から他のクラスを回ったが、ジャージを借りられるツテもなくて、仕方なく見学することを決めた。サボりたくて見学するんじゃない。そこらへんは勘違いしないで欲しい。

「なんだ? 体調悪いのか?」
「いえ……ジャージを忘れました……」
「じゃあ今日、悪いがプール掃除の手伝いしてくれるか?」

 担任の思いもよらない提案に思わず動きが止まる。プール掃除……? えっ、プール掃除って水泳部がやるものじゃないの? 去年そんなことした覚え、ないんだけど……。疑問が駆け巡り頭にはてなを飛ばしまくるわたしを知ってか知らずか、担任は続ける。

「水泳部があらかた掃除は済ませてあるし、大した掃除じゃないから、頼むな」
「はい……」

 あらかたの掃除が済んでいるとの一言に、少しだけ安心する。ジャージを忘れたわたしに今、人権などない。申し訳なさそうに眉を下げる担任。集まるクラスメイトの視線。断ることなんて出来ずに、しぶしぶ返事をした。


 だからって。

「一人で掃除させることないじゃーーーん!」

 快晴の屋上、入口に立って一人きりで叫ぶ。なんでよ、見学の人いないの? 先週あんなに休んでたじゃん。そういえば朝の担任は、わたしの方に“だけ”向かって話しかけていた。わたしがすぐに手を上げたからだと思っていたけど、もしかして、わたししか見学いないの? 屋上の下の下、うーんと下のグラウンドからは準備運動に興じる男子の声がする。男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でバレー。屋根の下にいる女子のみんなが羨ましい……。

「屋根が恋しい……」
「くっ……はははっ!」
「えっ、誰?」

 振り向いた先、扉の奥から現れたのは同じクラスの真田俊平だった。差し込む陽射しと真田の快活な笑い声が相俟って嫌に爽やかだ。夏男め。というかなんで真田がここに。

「でけぇ独り言!」

 遠慮の欠片もない笑い声で、さっきの独り言を聞かれていたことに気付いて、恥ずかしさから頬が熱くなる。気まずくて目を逸らすと、視界の端でこちらへ向かってくる真田を捉えた。本当になんでこんなところに真田が。

「なんで真田がここに?」
「俺もプール掃除、体育サボってんのバレてよ」

 よかった、一人でプール掃除するわけじゃなくて。そうだよね、流石に一人でなんてさせるわけないか……。いくら水泳部があらかた済ませてると言っても、この広さのプールを掃除するなんて無茶だ。ましてや女子一人でなんて到底無理な話だ。どこの誰かは知らないが、真田を掃除へ寄越してくれたのは助かった。
 見渡すプールは広い。ここのどこをたった二人で掃除しろというのだろうか。よく見るとプールに水はもう張ってあり、透き通った水面が風に泳いでいる。プールの中の掃除は既に終わっているようだった。この状況で掃除……? と思っていると、わたしが思っているよりずっとすぐ傍で、真田の声が落ちてきた。

「ほら、コレ」
「……デッキブラシ?」
「プールサイドの掃除だけでいーってよ」

 妙な近さにドキドキしながらも、プールサイドの掃除だけで済んだことに胸をなで下ろす。差し出されたデッキブラシ、真田の手に触れないようになんとなく意識して柄を掴む。なんとなく、他意なんてない、はずなのに。なんで。なんでわたしが、こんな。
 気持ちを逸らすかのように、身体ごと向きを変えて、プールサイドと向き合う。掃除って言ったって、たいしたことはないはず。それならばちゃっちゃと終わらせて日陰で休みたいというのが本音。屋上に出てまだそんなに時間は経っていないというのに、頬がジリジリと熱くなってきた。熱を持って赤くなってきているのが、鏡を見なくてもわかる。これは日焼けのせい、そうに違いない。そうやって自分に言い聞かせて、デッキブラシの柄を強く掴んだ。

「じゃあ、さっさと掃除しちゃお」
「みょうじって……」
「何よ?」
「案外マジメなんだな」

 失礼な。どういう意味よ。そう思って目で真田に訴えかける。わたしの視線に気付いたのか、真田は続ける。

「体育サボったのにわざわざちゃんと掃除すんだろ? マジメだろ」
「サボったんじゃないってば! ジャージ忘れちゃったの! 友達のクラスは体育ない日だし借りるツテだってないし……!」
「わかった、わかった! 悪かったよ!」

 わたしの必死の形相にか、慌てて被せるように言う。めんどくさい女だと思われただろうか。……ってなんでそんなこと気にしなきゃいけないの。気まずくなってホースを手に取りプールサイドへ急ぐ。今は掃除、なんで真田なんかに振りまわされなきゃいけないのよ。
 楕円に潰したホースの口から勢いよく出た水は、綺麗な放物線を描いてコンクリートに当たって弾ける。キラキラと飛び散る水の粒が素足にかかって気持ちが良い。デッキブラシでコンクリートを擦っても、たいした汚れは見られない。それでもなんとなく掃除をしたという体は取りたくて、構わずにデッキブラシで床を擦り続けた。そんなわたしを見てか、真田もようやく重い腰を上げたようで、視界の片隅で動く姿が見える。二人の間に会話はなく、ただ床を擦る音だけが響く。空はまるで夏本番のように高くて、でもまだ蝉の声は聞こえない。なんとも不思議な空間だった。


「……よしっ!」
「こんなもんだろ」
「あとは水で流して終わりかなー」

 プールサイド一面を掃除し終えると、額から汗が浮かぶ程になっていた。肌はじっとりと汗ばむけど、撫でるように吹く風が心地良い。デッキブラシを壁際に立てかけ、ホースを手に取る。早く床を洗い流して、すっきりとさせたかった。

「水撒くよー!」
「あっ、おい!」
「えっ?」

 真田の声が聞こえた瞬間、足元に何か絡まる感覚がした。それがホースだと気付いた時にはもう遅く、わたしの身体はゆっくりと傾いていく。ああ、こういうときって本当にゆっくりに感じるんだあ、なんて見当違いなことを思いながら、焦ったような真田の声を微かに捉えた。

 瞬間、大きな水飛沫が上がる。

 あれ、なんか、思ってたより深いな。高校のプールってこんなに深かったっけ。耳に水が入ってきてぼわぼわするな。水を吸った制服は重くて、なんだか動きにくい。小学生の頃にやった、着衣水泳を思い出す。あの頃は独特の非日常感にはしゃいだけれど、今こうしてやってみると気持ち悪いなあ。いざ水に入ってしまうと、思うように体が動かせなくて、自分の身体が自分のものじゃないみたいだ。

「っ、馬鹿! 大丈夫か!」
「っぷは、……はぁっ、ごめん……」

 ゆっくりと沈んでいく感覚の中、急に引っ張り上げられるように、水面が近づく。わたしの腕を確かに掴んだその手は、誰のものでもなく、紛れもなく真田のものだった。水が抜け始めた耳が、真田の声をキャッチする。今まで聞いたこともないその声色は、わたしの頭を酷く混乱させる。掴まれた腕が嫌に熱くて、水の中にいるのにのぼせそうだった。

「ごめん……真田も濡れちゃった……」
「んなコトどうでもいいっつの! 怪我してないか?」
「大丈夫、ごめん……」
「いいって、上がれるか?」

 思った以上に驚いたらしいわたしの手は冷え切って震えていて、プールのヘリを掴もうにも力が入らない。どうしようかと考えあぐねていると、また大きな水飛沫が立った。

「真田!?」
「掴まれよ」

 濡れた前髪をかき上げて、当たり前の様にわたしに向き合うこの男は一体何なのか。顎を伝う雫が、光を受けてわたしが知りもしないような宝石みたいに煌めく。

「持ち上げる。そこ座れるか?」
「……っうん」

 真田の両手が馬鹿みたいに優しくわたしに触れる。その癖わたしを持ち上げる腕は力強くて、ちぐはぐな優しさに涙が出る。ようやく腰掛けたプールサイド、脚はまだ水に浸かったままで、情けなさから俯く。そんなことしたって、まだプールに浸かったままの真田からは丸見えなのに。

「何泣いてんだよ。怖かった?」
「ちが、……馬鹿じゃん」

 一緒にプール掃除になったくらいで浮かれて、その癖それは隠したくて、強がって、興味なんてないフリをして可愛くない態度を取った。挙げ句の果てにプールに落ちて真田に迷惑までかけて。制服はびしょびしょだし泣き顔は不細工だ。さっきまであんなに気持ち良さそうに風に泳いでいたわたしの髪の毛は頬やら額やら首筋やら、とにかくいろんなところに貼り付いて気持ちが悪い。
 真田だってこんな、わざわざプールに入ってまでわたしを助けることなかったのに。風邪引いたらどうするつもり、とか、エースピッチャー様が身体冷やして何してんの、とか。とにかくいろんなことがぐるぐると頭を駆け巡ってはわたしを混乱させる。それなのに、なのに。わたしの額をなぞるようにして前髪を分けたその手は熱くて、男っぽくて、でも優しかったから。勘違いさせないで欲しくて、わたしはまた涙を零してしまう。

「泣くなって、大丈夫だから」
「ごめんっ……」

 口から出るのは謝罪の言葉ばかりで、ああ、本当に可愛くないなあ。もっとこうできたら、ああしたら、って思うばっかりでどうにも行動に移せないわたしが嫌だった。

「ごめんじゃなくて、ありがとうでいいんだよ」
「っ……ありがと」

「それが聞きたかった」なんて、真っ直ぐに笑うから。何もかもを許してくれるような、そんな顔をするから。冷えた指先も貼り付いた髪の毛も、全部全部気にならなくなって。単純だ、至極単純に出来ている。

 こんな、馬鹿じゃん。わたしも、真田も。

 高く昇った太陽は揺れる水面を必要以上に煌めかせる。二人の間を吹く風も、脚をさらうように動く水も、何もかもが特別に、いっそう愛おしい存在になる。不思議だ。これ以上どんな言葉を交わしても、わたしの気持ちが透けて見えてしまうような気がして、臆病なわたしは零れた涙を自分で拭うことしか出来なかった。それでも真田は全部わかったような顔をして笑うから、今だけは、その視線の先にいることを許されたような気がした。


 メーデー、メーデー、聞こえますか。こちらは屋上、プールサイドより救難信号。要救助者一名。応援願います。体温の上昇と胸の苦しさを訴えています。至急、然るべき処置が必要です。


この心臓を止めるのは貴方




「ジャージ、その、借りてよかったの……?」
「いいって、その方が色々捗るし」
「……?」

 捗るって何が。ねえ、ちょっと! どういう意味!


20200729


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