春が近づいた今日の東京は日差しが温かい。北海道から東京に戻ってきてもう何年が経ったのだろう。あの地で過ごした日々よりも、確実に東京での毎日が長くなったこの頃。まだ木々に宿るのは蕾ばかりで、温かく感じているのは僕だけなのだろうかと錯覚する。街ゆく人々はまだ厚着で、そんな中でも僕は寒さをあまり感じていなくて、この不思議な感じは何度季節を跨いでも変わらない。そういえば、なまえもまだまだこの時期はよく寒がっていることを思い出す。僕が「そんなに寒くない」と言うと、よくむくれては「この雪国育ちめ」となまえに悪態を吐かれたものだった。と言ってもむくれるのは本当に一瞬のことで、頭をぽんと撫でてあげるだけでそれは簡単におさまってしまう、至極単純な恋人だった。
 駅のロータリー、改札が見える位置まで車を動かす。改札口を見ると、幾度となく繰り返したあの日々が、今でも鮮明に思い出される。こんな車のハンドルを握るようになっても、心の中のまだ高校生の僕たちは些細なことで顔を出す。試合終わりの車の中で、朝家を出る扉の前で、隣を歩くなまえの揺れる髪を見る度、ありとあらゆるところに思い出がいるのだ。

 練習終わりにマネージャーであるなまえを駅まで送っていくことが、学生時代の僕の習慣だった。最初の頃は「スタミナ不足だから、帰りに走って帰ってこい」と言われ、渋々行くようになったことがきっかけだったが、話上手ななまえとの駅までの道のりは、存外楽しいものだった。最初のうちは申し訳なさそうに僕の後ろを付いて歩くなまえだったが、「それじゃあ、送ってる意味がないから」と言うと、少しだけ嬉しそうにして僕の隣を歩いたその姿が、その背中で流れる髪がやけに印象的で、今でも目に焼き付いている。
 その日クラスであったこと、教師たちの噂話、練習中に気付いたことなど、話題は多岐にわたって、持て余すかと思っていた駅までの時間は、あっという間に過ぎ去った。歩調は最初の頃に比べて随分とゆっくりになって、いつからだろうか、その時間が過ぎ去るのを惜しいと感じるようになったのは。そしてどちらからともなく、その延長を求めて僕たちは駅のベンチに座って、とりとめのない話をした。「電車、まだ来ないから」なんて見え透いた言い訳をして。ベンチに座ると、いくらかなまえの顔が近くなる。心許ない街灯に照らされる、その少しだけ日に焼けた頬や、明らかに男とは違うその睫毛の長さや、とにかくあらゆることがありありと感じられるようで、心臓が煩く騒いだのを覚えている。そこでも僕たちは時間が過ぎるのも忘れて、練習のことや、なまえ自身の話、そして僕の下手くそな話を数え切れないほどした。何度か電車を見送ったりもしたが、あっという間に時間が過ぎた。
 雨の日も、東京では滅多にない雪の日でも、僕はなまえを駅まで送った。その頃には、二人だけの帰り道では、名字ではなく名前で呼び合うようになっていた。なまえが呼ぶ「暁くん」はいつだって特別な輝きで僕を優しく照らした。その頃にはもう『ロードワーク』が言い訳じゃないことくらい、たぶんお互いにわかっていた。それでもその『一歩』は、小さなように見えて僕にはとてつもなく大きなものだった。

 馬鹿みたいに打たれたあの日も、怪我に悩んだあの日々も、ずっと陰で支えてくれたのはなまえだった。そして、先に『一歩』を進んだのも、奇しくもなまえだった。

「わたしの人生は、たぶんずっと暁くんのものだよ」

 そう言ったなまえを、「待っていて欲しい」と待たせたのは僕の弱さだった。それを「わかってる」と飲み込んだなまえは、僕に反して強くて、綺麗だった。野球も彼女もどちらもなんて芸当、とてもじゃないが自分には出来ないと思った。ただ強くなりたいと焦がれ、純粋に追い続けないとたどり着けない境地を、僕は目にしてしまったから。……それだけじゃない。この曖昧な関係に、僕はずっと甘えていたかったのかもしれない。
 なぜ僕なんかに、そんなに信頼を置いてくれるのだろう。当時は疑問に思ったりもしたけれど、それこそがまさしく彼女からの「そのまま真っ直ぐに進め」というメッセージだったのだろう。全てを理解して、まるで僕を包み込むみたいに、当然のように傍に居続けてくれた。
 それからも僕たちは、変わらずに帰り道を共にした。部活でも何もなかったかのように、当たり前の日常を過ごしてくれるなまえのおかげで、僕はただ目標に向けてひた走ることができた。


 最後の夏を終えたとき、帰り道でなまえは少し残念そうにこう言った。

「二人で歩くのも今日で最後かな」

 最後になんてしたくなかった。なんて言えばいい。練習にはまだ顔を出すから。ロードワークはまだするし、そのついでだからまた……。ついで? 違うだろ。そんなことを伝えたいんじゃない。

「最後じゃなくて、」
「……うん」
「なまえがずっと傍にいてくれなきゃ、困る」

 僕に人生を捧げると言った彼女の、あの声に今ならば応えられると思った。いや、応えたかった。誰も通りかかることのない土手、少しの間静寂が二人を包んだ。まとわりつくような暑さも、何もかも気にならなかった。今はなまえのためだけに、僕の全神経を使いたかった。

「……わたしでいいの?」
「なまえがいい。待たせてごめん」

 なまえの目に、はっきりとわかるくらい涙が浮かぶ。瞬きをした瞬間、頬に落ちたそれは、あんなにも心許なかったはずの街灯に照らされて、流星のようにきらめいた。もったいないと思った。この瞬間を切り取ることができたら、どんなに美しかっただろうか。
 あんなにも強気な告白をしてきたのに、こんな風に涙が零れてしまうほど、僕のことを想ってくれていたと思うと、また心臓が騒いだ。頬に零れ落ちた涙を、すくい取るように親指で拭った。僕の硬くなった指先を、何も言わずに受け入れてくれるなまえを、愛おしいと思った。

 土手を通って、少し心許ない街灯の明かりの中、どんな日でも僕たちは隣を歩いた。そしてまだ何もわからない未来の話を、二人で分け合うようにした。二人の弱さも強さも、全てを混ぜたらどんな未来になるだろうか。それは誰にも共有させやしない、二人だけの、二人のためだけの時間だった。星だけが、僕たちを見ていた。




「暁くん」

 なまえが僕を呼ぶ声がする。学生時代から耳に馴染んだ、変わらない優しい声。スカートが風になびいて、そんな様ですらひどく懐かしくなった。車から降りて傍に行く。久しぶりの大学の同窓会だと言っていた、楽しめただろうか。自分とのデートよりも、気合が入っているように見えたのは少し引っかかったけれど。風で踊ったなまえの髪を、そっとあるべきところへ戻すように頭を撫でる。それだけでもう、彼女は嬉しそうに目を細める。

「お迎えありがとう。……電車でね、寝ちゃったみたい」

 そう言って笑うなまえの顔は困っているはずなのに嬉しそうだった。なまえの腕の中で眠る、愛しい我が子を彼女から受け取って、起こさないようにシートに座らせる。思えばこの作業も、随分と手馴れてきたものだと思った。最初のうちには抱き方にも戸惑って、まるで知らない生き物のように恐る恐る触れていたことを思い出す。その度なまえに笑われては、「暁くんが思ってるより、ずっとしっかりしてるよ。大丈夫」そう言われたものだった。なまえの強さと、僕の弱さを併せ持って、産まれ落ちた宝物。
 運転席に乗り込むと、既に助手席にいたなまえがこちらを見ている。その目は少し潤んでいるように見えて、何かあったのかと内心焦る。

「……どうしたの」
「ううん。ただ、……幸せだなあって」

 あの日何もわからずに交した二人の未来は、たしかに今、輝いているよとあの頃の僕たちに伝えたくなった。

「もっと」
「うん」
「もっと幸せを、増やしていこう」

 二人でなら、きっとできる。アクセルをゆっくりと踏んで、車は走り出す。向かう先は、僕たちの家。家に着くまでに、何も知らずに眠る我が子は起きるだろうか。最近はその小さな手で、やたらと手を繋ぎたがる。今日も家に着いたら玄関まで手を繋いで歩くのだろう。小さなその身体に合わせるには、少し大きすぎる僕の身体。それでもその小さくて柔らかな手を、繋げる間はできる限り繋いであげたいと思う。
 夕日がそっとなまえの顔を橙に染めて、眩しさから目を薄めている。その頬に落ちる睫毛の影は、街灯に照らされたあの時と変わりなくて、思わず笑みが落ちる。あの日から、この未来は決まっていたのだろうか。いや、誰かが決めたんじゃない。二人で作り上げてきたんだ。

「もう十分幸せなのに、これ以上幸せになったら死んじゃう」
「…………それは困る」

 だって、なまえの人生は、僕のものなんでしょう。そして僕も、君がいなくちゃ困るって伝えたよ。二人の全てを混ぜ合わせて、未来を作る約束。それは未来永劫破られることはないから。




ファンファーレの先に



 どんな未来があるのか、見に行こう。



20200612




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