例えばもっと、自分の気持ちを素直に伝えていれば。例えばもっと、なまえの言葉に耳を傾けていたら。例えばなんて今更、都合の良いようになんていかない。

「……もういい」

 諦めを色濃く映したなまえの声が、今でも忘れられない。




 幼馴染のなまえは、子供の頃から僕と同じように兄貴の後ろをついて回っては、『亮ちゃん、亮ちゃん』と何かにつけて呼んで、兄貴によく懐いていた。なまえは練習を見に来たり、バッティングセンターに付いて来たり、とにかく何がそんなに楽しいのかと言うほど、笑顔で僕たちの野球を見ていた。「見てるだけでよく飽きないな」と兄貴はよく言ったものだけど、僕たち兄弟はなまえのあまりの運動神経の悪さから、打席に立たせたことも、それこそキャッチボールすらも一度もさせなかった。それに対して文句も言わず、目を輝かせながら見ているものだから、「あぁ、なまえは兄貴が好きなんだな」と幼心になんとなく思ったものだった。
 それからもずっと、小学校に上がっても、なまえの『亮ちゃん』は収まることはなくて。なまえは変わらずに練習も試合も見に来る。それは兄貴がいるから。笑顔で応援をして、歓声を上げて、ときには落胆する。兄貴のために。そのたびに傷付くのが馬鹿らしくなって、自分の気持ちはいつしか心の奥に閉じ込めた。それでも時折顔を覗かせる恋心は、じくじくと僕の身体を蝕んで腐らせた。

「春ちゃん!」
「何?」
「次の試合スタメンなんでしょう?」
「そうだよ」

 嬉しそうに駆け寄ってくるなまえを見ると、勘違いしそうになる。運動音痴な彼女は、少し駆け寄ってきただけでも息を切らしていて、落ち着かせるように肩を上下させている。走って火照ったのか、顔が紅潮していて、まるで子供の頃みたいだ、なんて思った。あの頃に、何も気付かなかった頃に戻れたら、この瞬間をどんなに幸せに迎えられただろう。笑顔で話すなまえが眩しくて、何もしていないのに後ろめたい気持ちになる。


「亮ちゃんが次春ちゃんスタメンだって教えてくれて」


 また『亮ちゃん』だ。仄暗い影がどんどん身体を蝕む。なまえはまだ嬉しそうに話しているけど、話の内容なんて何も入ってこなかった。「集合時間だから」と話をこちらから切り上げて、彼女から距離を取る。兄貴は尊敬してるし憧れている。自分ではまだ、敵わないこともわかっている。それでも、彼女の恋の仲介役なんて、死んでもごめんだ。そんな役を貰うくらいなら、自分からステージを降りてやりたかった。
 それからだ、僕がなまえとの距離を置き始めたのは。連絡は必要最低限、向こうから来たときにだけ返して、「自主練が忙しいから」と逃げることさえあった。それなのに、兄貴を介して時折連絡が来るから、渋々連絡することもあった。その頃にはもう、兄貴は青道に進学していて「最近なまえ、元気にやってる?」なんて連絡してくるものだから、もういっそ二人がさっさとくっついてくれればいいのに、とさえ思った。


 ある時のロードワーク中、塾帰りらしいなまえの後ろ姿が目に入った。人通りの少ないこの道は、一人走るには走りやすくて丁度良いけれど、女の子が一人で歩くにはあまりにも街灯が少なくて危ない。相変わらず危なっかしくて、見かねて後ろから声をかける。

「なまえ」
「わあ! 春ちゃん! びっくりした!」
「この道危ないから、家まで送るよ」

 心底驚いた、という表情を見せたあと、なまえの顔は嬉しそうにほころんだ。その顔は、本当は兄貴に見せるべきじゃないの? なんて、捻くれた僕の心は、もう彼女の一挙一動を素直に受け取れなくなっていた。
 直接話すのも久しぶりだったからか、なまえの口からはぽんぽんと話題が止まらない。時折余所見をして自転車を引くものだから、ハンドルを引っ張って軌道修正してやると、なまえは大げさなくらいに驚いて、小さく「ありがと」と漏らす。そのありがとうがなんだか照れくさくて、「別に」とだけ返した。街灯が自転車のベルに反射して眩しい。模試の結果が振るわないと言う彼女は、「進路どうしよう……」とため息をついた後、こちらをそっと見やる。

「春ちゃんも青道に行くのかあ、寂しくなるね」
「なまえも進路、ちゃんと考えなよ。一年なんてあっという間だからね」
「わたしも青道行こうかな……」
「……なんとなくで決めると後悔するよ」

 なまえが高校生になる頃、兄貴はもう卒業していない。それでも兄貴を追いかけたいという気持ちが強いのかと思えば思うほど、鉛を飲んだみたいに身体が重くなっていくのを感じて、ついつい厳しい言葉が出た。「……なんとなくなんかじゃない」と拗ねたように言うなまえの目は見られずに、「どうだか」と返した。彼女の目の奥にいるであろう、兄貴と目があってしまったらと思うと、夜道に光る鈍い星たちに目を凝らすことしかできなかった。

「わたしが青道に行きたいのは、ずっと……春ちゃんを」
「僕は」


 遮るように言う、もう十分だ。


「僕は兄貴の代わりになんてならないから」


 時が止まる。はらりとなまえの目から涙が零れる。「……もういい」そう言う声は震えていたけれど、彼女の目線は合わないままで、まっすぐと前だけを見ていた。泣きたいのはこっちの方なのに。罪悪感で胸が締め付けられるのは、惚れた弱みってやつなのかな。「……行くよ」と半歩先を歩くと、なまえはもうそれ以上何も言わなくて、小さく軋む車輪の音だけが狭い夜の空に響いた。


 それから僕は青道へ進学し、実家を出た。入学してすぐこそ母親から『なまえちゃん寂しがってるわよ』なんて連絡も来たけれど、しばらくするとそれもなくなった。ますます野球漬けの日々を送り、兄貴に食らいつき、その差に打ちひしがれそうになりながらも必死になって過ごした一年。年の瀬に兄貴から「なまえ、地元の女子高だって」と知らされ、ホッとしたのやら、連絡とり合ってるのかという黒い気持ちとが渦巻いて、心臓はひどく乱れたりもした。まだ煮え切らない気持ちを抱えた自分が、女々しくて笑った。
 そしてそんな思いを抱えたまま季節はめぐり、二年目の冬合宿をまた迎えた。一年の頃に、先輩たちに言われたことを思い出す。「二年目の方が逆にキツイ」まさにその通りで、急に最終日になってくれないかと祈るほどだった。そんな合宿もなんとか最終日を迎え、各々実家へと帰っていく。三が日が明けたら戻るはずの寮なのに、寮生が帰った寮はひどく物悲しかった。




「二年目の冬合宿はどうだった?」

 意地悪く訊く兄貴。まだ大学の合宿が終わらないらしい兄貴からの着信。第一声がこれとは……と自分の兄ながら性格の悪さに舌を巻く。帰ってきたばかりの実家では、また今年も母親が張り切って料理を作っている音がする。兄貴が帰ってきてからまとめてで良いよ、とは言ったものの、料理が生きがいのような母は二度、豪勢な料理を作るのだろうと思うと、苦笑が漏れるやら頭が上がらないやら。実家の温かさを享受しつつリビングのソファに腰を下ろし、荷物を整理しながら兄貴に返事をする。

「もう二度とやりたくない、って感じかな」
「そうだろうね。……それよりなまえは? 元気にしてる?」

 またこの話題だ。耳に焼き付いて離れない、兄貴が『なまえ』と呼ぶ声。少し投げやりになって「さぁ、会ってないから」と返すと、今度はため息が返ってくる。

「いつまでグズグズしてるわけ? なまえもなまえだけどさあ」
「……兄貴こそ僕を介して、もうやめてよ」
「それ、俺の台詞なんだけど」

 母親に聞かれるのが憚られて、リビングを出て自室へ戻る。混乱してドアノブを持つ手が震える。

「だってなまえは兄貴のことが……!」
「バカなの?」
「は……?」
「二言目には『春ちゃんは?』って耳にタコが出来るほど聞かされたよ」


 嘘だ。そんなわけない。だってなまえは、兄貴が。


「いつも春市の情報を俺から聞き出そうとしたり。あ、中二の時なんて『春ちゃんにフラれた! ずっと好きだったのに!』って二時間も電話で泣かれたよ」
「……」
「お前らの『片思いごっこ』にずっと付き合わされてたこっちの身にもなれ」


 兄貴が、好きだったんだから。

 でも、まだ、まだ間に合うのなら。それが僕の勘違いだったとしたら。チャンスはまだあるだろうか。


「ごめん、僕……、」そう言っただけで察しのいい兄貴は「さっさと行ってこい」と笑う。電話を切る直前、「頑張れよ」と聞こえた気がした。
 キッチンにいる母親に「夕飯までには戻る!」と告げて家を飛び出る。母の驚いたような声が聞こえたが、走り出す足は止められなかった。合宿終わりでパンパンの脚。もうこれ以上走れないと思っていたつい数時間前が嘘のように、必死で走る。なまえに電話をかける。長い呼び出し音がまるで永遠のように感じて柄にもなく舌打ちをした。コール音が途切れる。なまえの声がするより先に、上がった息のまま叫ぶように言う。

「なまえ! 今どこ!?」
「えっ、春ちゃん? い、今は学校の帰り道の公園らへん……」
「そこで待ってて!」

 返事も待たずに電話を切る。さんざん待たせたくせに更に待っててなんて、我ながら自己中心的で、なんでこんな僕なんかを好きでいてくれたんだろうと自嘲的になる。そう遠くないはずの公園を頭の中で思い浮かべる。小さな頃さんざん通ったあの公園だ。結局最初から最後まで、幼い頃に囚われたままなんだ。僕のせいで拗れたこの初恋を、叶えることはできるのだろうか。逸る気持ちばかりが先行して、足が縺れそうになる。このときばかりは洋さんの脚がほしいと思った。

「春ちゃん! どうしたの……?」
「……っ、はあ」

 心配そうになまえが公園から駆け寄ってくる。息が上がってひどく苦しいけれど、久しぶりの彼女の姿を目に焼き付けたくて膝に付けたい手を我慢する。会わないうちに伸びた髪は背中をくすぐるくらいにまでなっていて、でも柔らかいくせ毛は相変わらず、僕の知っているなまえで妙に安心した。不安を灯した目をするようになったのはいつ頃からだろうか。あの日、あの帰り道からどれだけの間こんな顔をさせたんだろう。

「ずっと……、言えなかったことがあって……」
「……うん」

 そう頷くなまえの顔が強張る。それはそうだ、あんなひどい物言いで、僕は彼女の心を傷付けたのだから。『僕は兄貴の代わりになんてならないから』あのときああ言って、彼女の話を真剣に受け止めなかったバカな自分を殴ってやりたい。

「本当はずっと、なまえのことが好きだった」
「うそ……」
「嘘じゃないよ」

 ずっと、兄貴に嫉妬して、子供みたいなことして君を傷付けた。ぽつりぽつりと零した僕の言葉に呼応するように、なまえの瞳から涙が溢れて零れる。その涙は、ねえ、どういう意味だか訊いてもいい?

「ずっと待たせてごめん、傷付けてごめん」
「わたし……っわたしだって、ずっと春ちゃんだけ見てたよ……!」

 我慢ができなくて、公園の脇の道だということも忘れてなまえを抱きしめる。引いた手はひどく冷えていて、それはきっと冬の寒さのせいだけじゃない。その肩は震えていて、僕よりずっと小さくて、あぁ、ずっとこうしたかったんだ、と思った。大切な僕たちの宝物を、僕が笑顔にしたかった。僕こそが守りたかった。あの日、理不尽に付けてしまった傷痕は、二人で磨けばまたきれいに光るだろうか。チャンスはもうこれっきり。次は二度と手放さないと、腕の中で涙を零すなまえを、きつくきつく抱きしめた。




さあ終わりを始めようか





 スマホが震える。メッセージを開くと兄貴から「報告」とだけ送られてきた。なんだかんだと世話焼きな兄に苦笑いしながら「おかげさまで」とだけ返した。




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20200524




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