金曜に久しぶりに飲みに行くかと倉持に誘われたのが今週頭の月曜日。かつてのチームメイトでもあり、クラスメイトでもある倉持と会うのも久しぶりだけど、飲み会自体が久しぶりだったわたしは二つ返事でOKとメッセージを返した。
 そして約束の金曜日、楽しみな気持ちで仕事を終えて待ち合わせの駅へ行けば、そこにいたのは今一番会いたくない人だった。……いや、今なんかじゃない、ずっと会いたくなかった人だった。遠くから見たってすぐにわかる、その背中をいつだって追いかけていたんだから。またその背中は広くなったように感じる。会いたくないと言う心に反して、わたしの脚はどんどんとその背中へと近付いていく。どうして、言うことを聞かないの。

 駅の時計を見ようとしたのか、振り向いた彼の目線が上がって、視線が絡み合う。驚いたように見開いたその瞳は、あの頃と変わらないあの茶色っぽい光だった。これがドラマだったら、雑踏の音など消え失せ、なんなら周りもスローモーションになって、挙句ドラマチックな挿入歌でも流れるのだろうが、わたしの口から出たのはまるで可愛げのない不機嫌そうな声だった。

「なんでここに?」
「それ、俺のセリフなんだけど」

 ……やられた。スマホを取り出して即、倉持にコールする。何度コール音がなっても一向に出る気配はない。そのくせメッセージは飛んできて『お前らもうめんどくせーんだわ』なんて、余計なお世話だバカヤロー。届きもしない心の叫びはわたしのお腹のなかでぐるぐると暴れたあと、わたしの機嫌をより一層酷くさせた。

「……わたし、倉持に飲みに誘われたんだけど」
「俺も」

 わたしの行動の一部始終を見てすべてを察したらしく、少し皺の寄った眉間に手を当てるこの男は、学生時代に付き合っていた元カレだ。実に五年ぶりとなる会話がこれである。なんということだ。わたしだって頭を抱えたい。『まあ腹くくれや』と、これ以上動きのない倉持とのメッセージ画面を見つめながらどうしてやろうか考えていると、頭の少し高い位置から声が降ってくる。その音も距離も、何もかもがあまりにも懐かしくて、心臓が痛いくらいに動いた。

「どうする? 店予約してるみたいだけど」
「は? 店のこととか聞いてないよ」
「なるほどな」
「なにが?」

 一人納得したような素振りで、「じゃあ、とりあえず行く?」と言うこの男は、一体どういう神経をしているのだろうか。別れた元カノと、実に五年ぶりの再会をしたばかりで、しかもこの間互いに連絡も取らなかったにもかかわらず、サシで飲もうとしている? 心臓に毛どころか杭が生えていてもおかしくない。打者を弄ぶような強気のリードをしてはよく周囲をヒリつかせていたものだったが、わたし相手にそんな強気に出られても困る。

「かず、……御幸選手はこんなとこで油売ってていいんですかぁ?」
「今日デイゲームだったし、明日はナイター。時間はまあ、普通にある」

 危ない。あの頃とは違うのに、懐かしさばかりが先行してしまって夜だというのに目が眩む。呼びかけた名前を、簡単に呼べる立場にはもういないのに。からかうように、いや、誤魔化すように「御幸選手」と呼んだ。
 元カレである御幸一也は、昨年度から一軍正捕手としてスタメンマスクを被り、盗塁阻止率ナンバーワンの呼び声も高い名捕手となった。御幸くんはついに、自分の人生のすべてと言ってもおかしくはない野球で、確固たる地位を手に入れたのだ。わたしとは何もかもが違う。なんとなく進学した大学で、なんとなく過ごして卒業し、可もなく不可もない企業で営業事務をやっている、わたしなんかと、住む世界が変わってしまったのだ。

「こっからそんな遠くねえから、とりあえず話はそこで」

 そう、住む世界が違うから、気軽に立ち話も出来ないのね。御幸くんの後を追うようにしか歩けないわたしが、悲しかった。今更なのにね。



「ここ」

 通された店、席はほぼすべて個室で、仄暗い照明がムードを演出する。メニュー表をボーイさんから差し出されたが、メニューに値段は書いてない。なるほど倉持がわたしに店の連絡をしなかったのも頷ける。こんなところに予約したなんて言われたら、流石のわたしでもなんの企みだと問い詰めるだろう。とんでもないところに来てしまったと、目を白黒させていると、向かいの席へ座った御幸くんの「はっはっは」と笑う声がする。

「心配しなくてもなまえには払わせねえよ、安心しろって」

 なまえ。わたしの名前を呼ぶ懐かしい声。さらっとボーイに注文を通して、御幸くんの意識はもうこちらに向いて、「倉持」と何か話題に出しているようだけれど、わたしの頭の中ではさっきの御幸くんの声がリフレインする。そしてそれが、記憶の中の、まだわたしと付き合っていた頃の『一也』の声と重なっていく。

 別れたのは大学二年の秋、一也の誕生日の近くだった気がする。さよならは自分からした。「もう隣にいてくれなくていいよ」って。無理してわたしのことを考えたり、連絡を返したり、そんなのもういいよって。だって一也、そんなに器用じゃないから、いつかきっとわたしのこと見えなくなっちゃうじゃない。そうしたら一也は「なまえはそれでいいの」と一言だけ返してきて、わたしもそれに「いいよ」と返してわたしたちの二年半は終わった。二人の関係に違わず、あっさりした幕切れだった。
 一也の最後の夏を見届けてから、付き合い始めたわたしたち。あまりにも長い間、チームメイトとして一緒にいすぎたのかな、二人の間に流れる空気は恋人同士のそれと言うには程遠くて、でもそれをなんとか埋めようと必死だった。必死になれたのは、一也がまだ手の届くところにいてくれたから。

 わたしは大学進学。一也はプロ野球へ。わたしたち二人の進路が離れた途端、埋めようにも埋められない溝ばかりになって。思っていたよりもずっとずっと、わたしは子供のままで、一也はずうっと大人だった。ただただひたむきに野球と向き合い、野球を愛し、そして愛された。二軍だった一也がついに一軍に上がるかもしれないと風のうわさで聞いたのは、赤く火照り焼けた肌が落ち着き始める秋のことだった。そしてそれを受けて、わたしは一也との別れを選んだ。わたしが選ばれる立場にあるとは、到底思えなかったから。
 最低な恋だったと思おうとした。連絡も来ない、滅多に会えない、そしてそれを気にすることもない、最低な彼氏だって。わたしは悪くないって。
 でも考えれば考えるほどに、最低だったのはわたしの方で、どこにも辿り着けなくてみっともなく泣くことしかできなかった。だって、滅多に会えないのも、連絡が来ないのも、一也が大好きな野球を頑張っている証だった。

「アイツこういうトコ敏いんだよな昔っから……なまえ?」
「あっ、ごめん。何? 御幸くん」
「…………もう、名前で呼んでくれねぇんだ」

 だって、そんなの、別れたのに。五年も前に終わった恋を引きずってる馬鹿な女みたいじゃない。ましてや相手は御幸一也。そんな権利、わたしには残されていない。曖昧に笑うことしかできないわたしに、御幸くんは少し悲しそうに、そして自嘲気味に笑って遠い目をした。

「あの時、なまえに何も言ってやれなかったこと、ずっと後悔してた」
「…………なんで?」

 だってあの時、あんなにあっさりしてたじゃない。「いいよ」って言ったわたしのこと、引き止めることだってしなかった。その後連絡が来ることもなかった。
 あの時、わたしは本当は止めてほしかったのかもしれない。「俺は隣にいたいよ」って言ってほしかったのかもしれない。わたし、いつまで経ってもわがままなくせにほしいものを伝えられない子供のままだったの。

「だってお前、俺といて楽しかった?」
「……そん、なの」
「なまえに背伸びして欲しかったわけでも、自分を卑下してまで俺を持ち上げて欲しかったわけじゃないんだよ」
「……っ」
「俺は隣にいてほしかったけど、俺の隣にいて辛くなるなら、別れたほうがいいと思った」

 だから、と続ける声を、聴き続ける権利がわたしにまだあるだろうか。

「何も言わずに別れた……けど、馬鹿だよな俺。なまえのこと気になりすぎて、まだ、好きで。倉持に連絡して探り入れたりして」
「……ほんと?」
「だから今日こんなことになってんだわ……『テメーの目で確かめろ』だとよ」

 光るスマホの画面、見覚えのあるはずの倉持のアイコンが、何故だか滲んで上手に見えない。はらり、はらりと光の粒が落ちる。


この涙を、愛に変えるにはまだ間に合いますか?


 言えなかった、本当はずっと言いたかったあの五文字は、ずっと胸に刻んで生きてきた。今なら、ねえ、今ならば。君に伝える意味があると思うのです。

「自然体のなまえで、俺のそばにいてくれよ」
「……っ、なんで、先に、言っちゃうかなあっ……」

 泣き笑いするしかないわたしの額に、濡れた瞼に、少し赤くなった鼻先に一也の唇が落ちてくる。流されそうになるけれど、これだけは伝えなきゃ。子供みたいに待ってるだけじゃあ、何も伝わらないんだから。

「……一也も」
「うん」
「わたしのそばに、いてくれる?」
「もちろん」

 いつもの得意気な笑みを浮かべた一也が、親指でわたしの涙を拭う。こういうときの一也は、いつも有言実行だったなあ、なんて学生時代を思い出す。思い出すたびに痛かったあの記憶たちは、いつの間にか愛おしいひだまりになった。

「本当はね、」
「ん?」
「今日がデイゲームなことも、明日がナイターなことも、……一昨日ホームラン打ったことも、全部全部知ってたよ」
「……なにそれ」

 可愛すぎ。そう言った一也に抱きしめられる。抱きしめる腕は五年前と比べるとだいぶ逞しくなったけど、一也の野球が少しでも見て取れるようでいっそう愛おしくなった。ああ、また涙が出ちゃう。本人の前では涙ひとつ見せずに別れてみせたのに、わたしも五年の間にこんなにも、変わった、弱くなった。でも、その弱さを認められるようになった。わたしの涙は一也のシャツにどんどん吸い込まれていって、肩口から「泣きすぎ」なんて声が落ちてくる。目じりの涙をキスで拭って、次はもう、影がぴったり重なった。



遅れて届いた
「そばにいて」



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20200514




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