彼女は祈るように、サッカーを見る人だった。



大学の通りからひとつ裏に入ったこの通りは、表通りの騒がしさは感じられない。寂れた商店街は、営業している店の方が少ないが、ジャズがかかり、静かな時間の流れがあるこの喫茶店と、その向かいにある小さな電器屋は、辛抱強く営業を続けていた。大学のレポート、課題を落ち着いた空間で済ませようと考える学生が、かなりの長時間粘っているこの喫茶店は、マスターが苦学生だったらしく、コーヒーだけで粘ろうとする俺たちに、嫌な顔ひとつせず、時にはちょっとしたサービスまでしてくれた。マスターは大抵、学生だと解ればボックス席に案内してくれる。集中して広いスペースを使えるように。それが例え一人であろうと。


その日は珍しく店内が混み合っていた。混み合っていると言っても、普段と比べて、だ。栄えた街では大したことはないのだろう。ボックス席は空きがあとひとつしかなく、それもきっと学生で埋まるのだろう、と見ていた。



――カランッ



喫茶店のドアが開いた。見知った顔が入ってくる。あまり話したことはないが、同じゼミの、どちらかと言ったら活発な俺とは反対の性格のヤツだった。ヤツも俺に気付いたのか、軽く手を上げ挨拶をしてきた。「おう、」俺の声にマスターも学生だと気付き、ボックス席に案内をしようとした。だがマスターの動きは一瞬止まって、なにやらヤツに話しかけている。



「申し訳御座いませんが、カウンター席か相席になってしまうのですが……」
「あぁ、大丈夫ッスよ。あ、アイツ知り合いなんで、あそこで」



アイツとは俺の事だろうか。きっとそうに違いない。仕方ないと思いながら、テーブルの半分をあけるべく片付けを始めた。



「よう」
「喫茶店なんて来るキャラだったかお前」



どちらかと言ったら騒がしいファミレスの方が似合う、そんなキャラをしている学友に問う。



「それがさー、課題のことで……」
「俺に教わろうってか」
「正解!ゼミのみんなに聞いたらここだーって」
「……はぁ」
「相席になってラッキーだったわ」



ヤツに言われて思い出した、俺の向かいのボックス席は、何故人を通さないのだろうか。



「なーんであそこ明けてんだろ」
「さぁ?」
「あ!お前以上の常連さんとかいるんじゃね?」



指定席ー、みたいな?そんな声をよそに考える。俺も常連と言うほど常連ではないが……、普段あのテーブルに着いている(であろう)常連を思い出そうとしたが、そこだけ靄がかかったかのように思い出せなかった。


「てかそんなことより!課題!!」
「で、何が解らないんだ?」
「何すりゃいいのかわかんねぇ」



ため息を吐きながら課題の本を差し出す。



「……はぁ、"Le Roman de la Rose"」
「えぇ?」
「薔薇物語の意訳と歴史的背景」
「薔薇物語って……長くね!?」
「(……、第一章のさわりだけだけど。てかなんでコイツうちの専攻にいるんだ)」



そんな学友の嘆きを聞き流し、目線をマスターに送る。マスターは一見何も変わらないようにカップとソーサーを磨いていたが、その目がチラチラと入り口のドアを見ているのを、俺は見逃さなかった。


結局その日は、あのボックス席が埋まることはなかった。





木枯らしが、道に積もった落ち葉を絡めて舞い遊ぶ。土曜の講義は二コマだけ、一限と三限に入れていたが、三限のゼミの教授が、学会に出席するらしく、休講になった。本当に急な話で、朝にたまたま掲示板を見て知った。バイトの時間までまだ時間があるが、家に帰ってなにかするでもない。きっと大学の図書館は同じゼミのヤツらが集まっていて騒がしいだろう、と勝手に決め付け、俺はいつもの喫茶店に向かった。


裏通りを歩くと、寂れた商店街の中でも、ショーウィンドウに薄型テレビを置いた電器屋が目を惹く。"スポーツに最適!背番号までクッキリ!"と謳い文句が書かれたプラズマテレビでは、サッカーの試合が流れていた。日本のブラジル、サッカーの聖地とまで言われるこの県で、人気を二分するチームのうちのひとつの試合だった。どうやら今日はホームらしい。木枯らしに追われるように、俺は喫茶店へ入った。



――カランッ「いらっしゃい、」



いつもの通りボックス席へと案内しようとするマスターを遮って、今日はカウンター席で、と告げ、なるべく人気の少ない席に着いた。不意に、あの日のボックス席が目に入った。そこには一人の女性が座っていた。


「珍しいね、こんな時間に」
「休講になって、それより……あそこの席って……」



あの女性、と言うのに少し、ほんの少し気恥ずかしさを感じて、あそこの席、と言葉を濁した。だがマスターにはちゃんと伝わったらしく、あぁ、と少し目を細めた。



「もう十年くらいになるかな、ウチのお得意さんだよ」
「十年……」
「いつもあそこの席で、見てるんだよ」



サッカー、とマスターは言った。カップを緩く包み込むように持つ彼女は、向かいの電器屋のショーウィンドウに釘付けだった。彼女の周りは静寂を保っていて、一見、サッカーを見ているなんて感じさせなかった。



「わざわざ……家で見ればいいのに」



ぼそりと呟いた俺の一言を、マスターは聞き逃さなかった。チラリと彼女を見てから少し微笑んで、言った。



「一人で見てると気が滅入るんだと、」



それってどういう……、マスターに訊ねようとした時、



――カチャンッ、



あのボックス席から物音がした。そんなに大きな音ではないのに、人の少ないこの喫茶店では、やけに大きく響いた。彼女の方を窺うと、前のめりであのショーウィンドウに食い入っていた、正確にはショーウィンドウのテレビ画面に。画面の中では一人の選手が足首を押さえてうずくまっていて、主審らしき人やチームメイトが彼を取り囲んで心配そうな目線を注いでいた。


彼は、この街が地元の選手だ。サッカーをしている少年が一度は憧れを抱いた、そんなMFだ。



山口圭介。



彼は、ここ静岡でサッカーをしている人間に、昔から多大な影響を与えてきた選手だ。かく言う俺自身も、彼に憧れを抱いてサッカーを始めた人間の一人だった、結局高校時代に膝を壊して、サッカーはそれきりになってしまったが。


彼女は祈るように両手を握り締めていた、手の甲に爪が食い込むのも厭わずに。彼女の肩は、震えていた。
「信じてあげなさい、圭介くんを。今までここに戻ってこなかった事があったかい?」



君をおいたまま、マスターがそう言って微笑む。……そう言うことか。



「そう、ですね」



まだ肩は震えていたが、いくらか安堵の表情を浮かべ、握り締めていた手をほどいた。




本当は解っていた。指定席のようになったボックス席の意味も。そこに誰が座っていて、いつも何をしているのかも。何故毎週末しかここに来ないのかも。彼女が誰を待っているのかも、そして必ず迎えに来る誰かの存在も。


ただ、認めたくなかった。


自分が話したこともない人に惹かれていることも、その人を想っている人がいることも、想われている人がいることも。それが自分が幼い頃から憧れていた人だということも。


でも、こんな彼女を見てしまったら。認めざるを得なかった。自分が惹かれていることも、そしてそれと同時に、彼には敵わないと思ったことも。




俺は今日、恋を自覚して、そして恋を失った。






(僕の恋心)




:)20101114




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