※プロ設定


 わたしの生活パターンはほぼ二種類と言っても過言ではない。その一、仕事に行って、帰ってきてごはんを食べて、シャワーを浴びて寝る。その二、仕事に行って、帰りにごはんを食べて、帰ってシャワーを浴びて寝る。
 仕事が忙しくて、コレと言った趣味もなく、旅行に行きたくても長期休暇もなかなかもらえない。そんなOLの生活なんて、だいたいこんなものではなかろうか。なんて言ったら、世に羽ばたくキラキラ女子たちに怒られてしまいそうだけど、それくらいわたしの生活には、色がなかった。

 今日も帰って即化粧を落とす。社会で負けないようにと入念にした化粧は、落とすのだって酷く面倒だ。でも、ここまでサボってしまったら、いよいよ終わりだぞ、と自分を励ましながらクレンジングを手に取った。化粧を落とすと高校の頃と変わらない、と友人に言われたことを思い出す。あの時は「そんなことない」と笑ったけれど、洗面台の鏡の中、わたしは疲れて顔色も悪くて、心の底から「そんなことない」と思った。高校時代、何があんなに楽しかったのか、何がそんなに幸せだったのかと思うほど、わたしは彼の隣で笑っていた。なんでこんな風になってしまったんだろうと思うと、少しだけ涙が零れた。そういえば、最近会ってないな。こんな状態で会いたくもない、なんて嘘。
 わたしがまだ大学生だった頃には、なんとかスケジュールを調整して会えていた一也は、日本代表にも選ばれて、今や球界を代表する有名選手となった。スポーツニュースでその名前を聞かない日なんてないくらい。いや、スポーツニュースだけじゃない、気まぐれに買ってみた雑誌にだって時折顔を出す。『将来有望なイケメンキャッチャー』なんて、そりゃあ世間様が放っておくわけもないのだ。だからと言ってわたしが大声で「彼女です」なんて言うわけにもいかず、デートなんて数えるほどもしていない。と、それは高校時代もか。会う時は家でだけ、でも今はお互いに忙しくて気付けばすれ違いの生活。最後に会ったの、いつだっけ。そんな風に脳の片隅を探さなきゃいけないほど、一也には会えていなかった。

 どうしたんだろうな、今日はなんだか感傷に浸りやすい。いつも連絡は一也から。連絡が来ないと言うことは忙しいから。いつもはそれで納得できていたのに、何故だかわたしが必要ではない証明みたいで泣きたくなった。鏡に映るわたしがぼやける。睫毛に乗った涙の粒が反射して、わたしはどんどんとばらばらになる。まるで体中の水分を余計なものだとでも言うかのように、一度決壊したらもう止まらなかった。
 出逢った頃は、傍にいられるだけで幸せで、ただひたむきに野球に向き合う一也のまなざしが好きだった。そのくせ野球以外はてんで鈍感で、等身大の同級生で、そんなところが妙に可愛く思えた。でもそのうちに一也は野球部のキャプテンになったり、甲子園に出場したり、東京選抜に選ばれたり、とにかくどんどん有名になっていった。その忙しさに比例するように、わたしは思っていることを一也に言えなくなった。「無理しないで」も「頑張って」も、全部全部、一也に伝えるには無責任過ぎるような気がして。わたしの我が儘になるんじゃないかって、そんな気がして。

 ああ、もうダメな気がする。付き合うことになって、沢山後悔したことはある。細々とした、でもいろいろな後悔。そもそもわたしみたいな女が、一也に釣り合うわけもなく、最初の後悔と言ったら、やっぱり一也と付き合ったことだろうか。それでもずるずるとここまで来てしまったのは、何より一也のことが好きだったから。そして一也から「さよなら」を言われることなく、この関係が続いているから。そのさよならが何よりも怖くて、会えない夜も一人で枕を濡らした。ここで「さみしい」と泣きついて見せれば少しは可愛いものだったのだろうか。泣きはらした目を完璧に誤魔化せる自分が嫌だった。その一言が言えなくて、そのくせうじうじと悩んで。そんな思考回路のわたしには、脳内から出ていって欲しいのに、「出て行って」とは言えないのはやっぱり、それも自分の一部だから。

 今日、もしも今日一也が来たら、わたしからさよならしよう。今日、来なかったらもう少し頑張ろう。

 早く明日が来ますようにと祈りながら、いつもよりずっと早くベッドに入る。身体は疲れ切っているはずなのに、ばらばらになった思考回路がわたしを眠らせてくれない。結局わたしは、会えもしない一也のことを責めることも出来ず、消化することも出来ないまま、いつまで経っても酷い顔で眠ることしか出来ないんだ。だって、だって。「会えなくてさみしい」なんて言う女、一也は嫌いでしょう? 一也の人生では、野球は最優先事項。そんなこと高校時代からわかっているの。付き合うことになったとき、自分の中で決めたルールがあった。一也の野球の邪魔になることは、何があっても絶対にしないこと。野球の邪魔になるものを徹底して排除してきた一也。常にそれを意識していたからこそ、わたしは一也の隣にいられたんだから。それこそわたしが恐れた最悪の、一也からの「さよなら」が待っているじゃないか。そう思うともう、わたしに出来ることなんてなにもなかった。

 眠りに就こうとして、どれくらい経っただろうか。頭の中にぼうっと靄がかかったみたいで、ああもうすぐ眠れる、と思った。このまま眠れば、明日になれば、わたしはまだ一也の彼女。どんどん遠くなる意識の中で、間延びしたインターフォンの音が聞こえた気がした。今日、誰かと約束した覚えはない。宅配便も頼んでない。でももう頭が上手く働かなくて、なんでもいいやと確認もせずにドアを開けた。

「なんで……」
「来ちゃいけねえの? もしかして寝てた?」

 なんでもないように一也が言う。なんで今日、来てしまったの。あんなにも会いたかったのに、会いたくなかった、今日は。自分で決めたことなのに、いたずらが成功した子供みたいに笑う一也の顔を見ると、どうしても決意が揺らぐ。そんな顔、テレビでも雑誌でも見せないじゃない。久しぶりに見た笑顔が、わたしにしか見せない顔だとわかって、胸に染みる。絆される。

「そんなこと……ないけど」
「なんか顔見ておきたいと思って」

 「てかインターフォン確認しろよ、俺じゃなかったらどうすんだ」なんて小言を言いながら、当たり前の様に部屋へと入ってくる。どうしてそうやって、わたしの中へ入ってくるの。どうしてそうやって、わたしの心に色を灯すの。「顔見ておきたい」なんて、今まで言ったことないじゃない。
 泣いた上にすっぴんの顔を見られたくなくて、一也の方を余り見ずに部屋へと招き入れる。わたしの顔、ぎこちなくなかったかな、不自然じゃないだろうか。なんて今更、今日言うって決めたのに。取り繕ったところで、明日から他人に戻るのに。それでも最後くらい、出来た彼女のままで終わりにしたかった。一也の中のわたしが、変わらないように。「さみしいと泣く面倒な彼女」じゃだめなのだ。

「まじで寝てた? すっぴん久しぶりに見たわ」

 なんの気なしに一也が振り向く。まじまじと見つめられたら、もうわたしの涙の跡もバレてしまう。一也の目を見ないように、目線は足元に。「そうかな、」なんて誤魔化して飲み物を取りにキッチンへ向かう。冷蔵庫の影に隠れて目でも冷やそう。少しはましになるだろう。「何か飲む?」とわざとらしい空元気で問いかけながら動き出した足は、それ以上進むことはなかった。一也に掴まれた腕が熱い。久しぶりに触れたその手は、肉刺ができていて硬い。野球に真っ直ぐな一也の手。節くれ立った男っぽい指。こんな些細なことで泣きたくなる。泣いちゃ、ダメだ。

「なんでこっち見ねえの」
「え、と……すっぴん恥ずかしい、し……」
「……泣いてた?」

 どうしてこんな時だけ、いつもの鈍感な一也でいてくれないの。すべて白紙に戻そうと決意したのだ。思えばずっと片想いをしているみたいな恋だった。スコアブックを眺める隣でずっと一也を見ていた。放課後、練習が終わるのを目立たないところで待った。毎試合足を運んで、その結果に一喜一憂した。一也がホームランを打てば何よりも嬉しかったし、怪我をしたときは目の前が真っ暗になるほどつらかった。一也のために動く感情ひとつひとつ。わたしはそれだけで幸せだったけど、一也はどう思ってた?

「っ、一也の人生に」
「ん?」
「わたしって……必要?」

 火照った頭ではもう「冷静な彼女」ではいられなくて、言うつもりがなかったことまでどんどん溢れてしまう。言葉と一緒に涙も零れる。ああ、嫌な女になってしまう。止まって欲しいのに溢れ出る言葉は止めどなく溢れて、もう、限界だった。

「頑張っても無理しないでも、……っさみしい、も、もう何を言ったら正解なのかわかんなくて……。一也の必要の外側に出たら、わたしはもう一也の隣にはいられなくなっちゃうって……!」
「は? なまえ? ちょっと待って」
「今日もし一也が来たら、わたしからさよならしようって決めてたのに……、なんで」

 なんで今日来ちゃったの。ぐずぐずとわたしが泣く声だけが響く部屋。ああ、もうなんでこうなってしまったんだろう。綺麗に別れようと思っていたのになあ。楽しかった思い出だけ残して、綺麗さっぱり別れられたらどんなに幸せだっただろうか。でもきっと、もう一也以上に好きになるひとがいるとも思えないから、わたしは別れた後も湿っぽく涙を流すのだろう。

「ちょっと落ち着けって、なんでそうなるワケ?」

 焦ったような一也の声が頭の上から降ってくる。いつのまにか抱きすくめられた身体。すっぽりと腕の中に収まってしまって、会えない間にまた身体が大きくなったような気がする。全身が一也の匂いに包まれて、またひとつ涙が落ちた。心臓の音がばかみたいにうるさい。

「だって、もう必要ないから、連絡くれないんでしょう……?」
「必要ない、って……あー、それは、なまえも忙しそうだったから……ってこれは言い訳か」

 困った時に頭をガシガシと掻く癖は昔から変わらない。「あー」とか「その」とかひとしきり唸った後、一也はぽつりぽつりと話し出す。聴き慣れているはずの声なのに、ああなんでこんなに愛しいの。テレビを通して聴く一也の声より、やっぱりこうしてこぼれ落ちてくる一也の声が一番好きだった。

「ごめん。お前に、甘えてたんだ。なまえなら多少連絡できなくても、待っててくれるって思って」

 「そんなわけないのにな」と自嘲気味に笑う。でも、だってそんなの、昔からじゃない。高校時代から、いつだって連絡は一也から。そういうひとだとわかっていたのに、なのに欲を出したのはわたしの方。

「昔からホント、お前に我慢させてばっかで、……かっこわりい」

 なんでそんな風に、つらそうに笑うの。つらいのはわたしだけじゃないの? 勘違いしても良いの?

「俺のこと、嫌いになった?」
「そんな……そんなわけない」
「ずるい言い方したな。こんな俺でも好きでいてくれるか?」

 好きにきまってる。だって、そんなところも含めて、好きだったんだもん。野球のことしか頭にないくせに、わたしのことを彼女にしてくれて、「余裕なくてゴメン」なんて困ったように謝ってくれるところも好きだった。野球が一番な一也が好き。それでもわたしのことを手放そうとしない一也が好き。ありきたりで陳腐だけど言わせて、貴方をかたちづくる全部が好きなのです。

「わたしっ……まだ、一也の彼女でいていいの……?」
「彼女でいてくれなきゃ困る……。それにもう、『今日』じゃねえだろ」

 時計を見る余裕もなく招き入れた部屋。一也の肩口から見えた掛け時計は、もう0時をゆうに回っていた。わたしが待ち望んだ『明日』はとうに来ていた。どうしていつもこうやって、わたしを幸せにしてくれるの。わたしのこの片想いは、一也が最後の片想いにしてくれる。宙ぶらりんだったわたしの腕を、そっと一也の背中にまわす。やっぱり、身体、大きくなった。一也が頑張っているのを感じられて、嬉しくなってしまうわたしは単純なばかだ。

「我が儘言っても、いい?」
「俺としてはもうちょっと、我慢せず我が儘言って欲しいんですケド」
「もっと……ぎゅっとして」
「……おう」
「あと、もっとわたしのこと、考えて、」
「それはもう、考えてる」

 酷い泣き顔のわたしをぎゅうと抱きしめたまま、昔と変わらない顔で一也は笑った。涙でぼやけた視界、一也の無骨な指がそれをすくい上げてクリアにする。わたしの涙で濡れた心には、一也が一滴インクを落としてくれる。一気に色付くわたしの心。心臓がうるさいのは一也も一緒だった。

明日を愛に変えるのは貴方


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20200426






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