春のセンバツが終わってから、降谷くんのまわりにはよく人が集まる。野球部の沢村くんや金丸くん、春乃ちゃんはもちろんだけど、一年生の頃には見向きもしなかった人たちも、甲子園フィーバー? とでも言うのだろうか、とにかくよく集まるようになった。廊下にも先輩や後輩が休み時間の度に見に来たりして、とにかく今、降谷くんのまわりはとても忙しない。当の本人はまわりをよそに居眠りをしているみたいだけど。

 遠くに行っちゃったなあ。

 一年生の頃から同じクラスの降谷くんとは、ひょんなことからお喋りをする仲になった。入学してすぐ、自己紹介で「飼育員になりたいです」と言ったところ、次の休み時間にはさっそく降谷くんにつかまって、「飼育員って水族館?」なんて聞かれてしまった。どうやら降谷くんは白クマを尊敬しているようで(好きではなく尊敬、らしい)、それからたまに動物の話をする仲になった。と言っても喋るのはわたしばかりで、降谷くんは聞き役。時々飽きてはいないかと、降谷くんの顔を伺うと、意外にも真剣そうな顔で聞いていてくれて、そういう何気ないところにどきっとさせられたりもした。
 小さな頃は生き物が苦手だった。でも初めて行った水族館、飼育員のお兄さんがいろいろなことを教えてくれた。生き物が苦手なら、今すぐ好きにならなくていいよ、って。でも、もしもいつか好きになった時のために、いろんなことを知っておこう、って。それからわたしはまず苦手なものを「知る」ことから始めた。そうしたら苦手じゃなくなるものも多かった。そして、わたしも誰かのために、飼育員になりたいと思うようになった。
 親にも反対されていた飼育員の話を、真剣に聞いてくれるのは降谷くんだけだった。やりがいばかりが先行して、実入りも少ない。生きものを相手にするのだから当然だが、多忙で身体を壊す人も少なくない業界で、どうしてわざわざ、と言われてしまった。それに言い返すだけの自信もなくて、親の前ではつぐんだ口。でも降谷くんだけは、「すごいね、かっこいい」と言葉少なだったがわたしのちっぽけな夢を応援してくれた。

 そんな小さな日々のやり取りで、わたしは少しずつ降谷くんに惹かれた。もちろん野球をしている降谷くんも好きだけれど、なにより教室で過ごす二人の時間がたまらなく愛おしかった。
 だけど、今はどうだろう。降谷くんのまわりは人で溢れかえって、わたしが付け入る隙もない。沢村くんが大きな声で「冬眠中だ!」と叫んで人を散らしてはいるものの、休み時間の度にこれじゃあ、いつもみたいにお喋りをするどころか、近付くこともできない。どこかから漏れ聞こえる「降谷くん、なんだかんだ顔いいもんね」という言葉が、脳裏をちらついて離れない。別にわたしのものでもない癖に、子供みたいに途方に暮れた。


 ある日の放課後、日誌を提出して教室に戻ろうとすると、女の子たちが集まって話している声が廊下に聞こえた。どうやらクラスの子たちだけではなく、他のクラスからも集まっているらしいその声は、わたしの心臓を一瞬で凍らせた。

「降谷くんさー、やっぱり狙った方がいいと思うんだよねー」
「センバツ? からすごい人気だもんね」
「女子と話してるの見たことないけど」

 降谷くんの話をしている。やましいことはなにもないのに、わたしの足は廊下に縫い止められたように離れなくなった。なんでもないフリをして、教室へ入ればいい。「何の話してたの?」と言って誤魔化してわたしだけ帰ればいい。それなのに、続きを聞きたくなんてないのに、わたしの足は動かない。

「でもみょうじさん? と仲良くない?」
「いや、でもないでしょ。」

 「ない」と言い切ったその声が、リフレインする。かあっと熱くなったはずの頭が、冷水をかけられたみたいにサッと冷えた。……そうだよね、そうだ。だって降谷くんは有名人で、野球部のエースだもん。もう荷物なんてどうでもよかった。足音を立てないように踵を返す。今すぐにでもここから逃げ出したい気分だった。何を勘違いしていたんだろう。泣きそうになるのをグッと堪えながら、歩く。だんだんとその足は駆け足になって、いつしか全力で走っていた。階段に差し掛かる、革靴が滑る。でも足元は覚束なくて、階段を踏みしめているはずの足に感覚はなかった。

「……わ、みょうじさん?」
「……っごめん、なさい!」

 出会い頭にばったりと降谷くんに会ってしまった。練習着を着ている姿は学校生活ではなかなか見かけない。忘れ物でも取りに来たのだろうか。わたしはさっきのみんなの会話が頭にこびりついて離れなくて、思わず降谷くんから逃げ出した。「みょうじさん……!」と降谷くんにしては大きな声が背中から聞こえた気がしたけど、振り向くことは出来なかった。好きが勝手に涙になって溢れる。廊下の先の先を目指して走ったけど、後ろから追いかけてくる足音。肺が痛い、運動不足だ。降谷くん、足も早いんだ、なんて、わたしの足が遅いだけ。廊下の突き当たり、腕を掴まれて、無理矢理に向き合わされる。こんなに強引な降谷くん、初めてだった。

「どうして、泣いてるの」

 こんなところを見せても、困らせるだけなのに。何でもないって、大丈夫だよって言わなくちゃ。掴まれた腕も、わたしの目の奥もじんと熱い。

「ごめっ……、違うの」

 違う違うと言っても涙はどうにも止まらなくて、降谷くんの視線から隠れるみたいに顔を下げた。つま先が見える。降谷くんのつま先。背も大きいけど、足も大きいんだなあ、なんて場違いなことを考えて、なんとか涙を止めようとしても、上手くいかないなあ。
 こんなぐずぐずと湿っぽい女なんて、降谷くんにふさわしくない。降谷くんはこの学校の、いやそれどころじゃない、高校野球界の有名人になってしまった。「なってしまった」なんて、本当は春休みから知ってた。いや、その前からずっと。いろんなスポーツニュースで降谷くんの名前を聞いて、いろんな新聞で降谷くんの姿を見た。そんなひとを好きになってしまった。好きだった。今だって。
 世界中の海水を集めて枯らすよりも、降谷くんに好きだということのほうがずっとずっと難しい。一歩の勇気が出せない。だって、降谷くんがわたしのことを好きになるわけがない。有名人の降谷くんが「うん」って言ってくれる姿なんて、未来なんて想像できない。

 ある日突然遠くに行ったんじゃない、元々遠かったのにわたしが勘違いしていただけだ。

「なんでも、ないの」

 困らせてごめんね、と。顔は上げられなかったけど、精一杯いつも通りの声を出した。まだ目の奥は熱い、自分を誤魔化すことしか出来ないわたしがあまりにも滑稽で、涙は止まらなかった。取り繕うみたいに口元だけで笑うと、グッと腕を引かれる。ぎゅう、と音が鳴ったんじゃないかと思ってしまうくらい、強く抱きしめられた。土と汗の匂いの中に、少しだけ降谷くんの匂いがして、たったそれだけなのにまた涙が溢れそうだった。席に座っているときには感じられないほど降谷くんは大きくて、思ったよりもずっと高い位置から、静かで、でも凛とした声が降ってくる。

「僕は、みょうじさんが泣いてるのを見るのは嫌だと、思う」

 顔を上げようと身じろぎすると、離さないと言わんばかりに、背中に回る腕が強くなった。降谷くんの匂いが強くなる。「苦しいよ」と言うと「ごめん」の声と共に少しだけ力が緩んだけど、回された腕は解けなかった。頭の上から、ぽつりぽつりと言葉が零れる。わたしは降谷くんの腕の隙間から、反射して鈍く光るリノリウムの廊下を見つめることしかできなかった。

「センバツが終わって……少し息苦しかった」
「……どうして?」

 ねえ、それって、どういう意味?

「みょうじさんと、喋る時間がなくなったから」
「え……」
「泣いてる顔じゃなくて、いつもみたいに笑っているところが見たいし、僕の話ももっと聞いて欲しいと思う」

 それに、と続ける降谷くんの顔を見上げる。今度はちゃんと視線が絡まる。声色からは想像がつかないくらい、降谷くんの目は熱っぽい色をしていた。いつになく饒舌な降谷くんの言葉が、どんどんとこぼれ落ちていく。わたしは愛おしいそれをひとつずつ拾って、掌に集めていく。

「いつも楽しそうにはなしてくれるのに、今は僕のせいでそれができないから」
「みょうじさんが泣いていたら、僕も悲しくなる」
「動物の話だけじゃなくて、みょうじさんのことをもっと知りたいと思う」
「好きな子が泣いていたら悲しいし、好きな子のことはもっと知りたい」

 まさか。そんな、冗談。でも、この瞳の奥を見て、見せられて、冗談なんて、そんなこと言えない。
 なんて言ってくれるのかな。わたしが「うん。」と言える未来を、想像してもいいのかな。わたしに世界中の海水を集めて枯らすことができなくても、降谷くんにはできるのかな。

「みょうじさんのことが好きだから、傍にいてくれないと困る」 



「うん。」と
言って
くれますか。


貴方の背に腕をまわす資格が、わたしにありますか?

++++++++++
20200424




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -