懐かしい夢を見た。
 まだ高校時代、しかも一年生の頃の夢。

 夢の中の僕は、はげかけてきた右手の爪のマニキュアを気にしているみたいで、ぼーっと右手を見つめながら手を握ったり開いたりしていた。時間はどうやら昼休みのようで、ざわつくクラスメイトの声が少しだけ遠巻きに聞こえた。昔から何を考えているかわからないとはよく言われたものだけど、改めて思い返すとこれじゃあクラスで誰も話しかけてこないのも頷ける。

「降谷くん」

 記憶の中よりもほんの少しだけ高くて、遠慮がちななまえの声がした。なまえは僕のことを「降谷くん」と呼んでいて、それが妙にくすぐったくて、ああ、これは夢だとすぐに気付いた。窓際の席。いつ頃座ってたんだっけ、そこまで覚えてないや。話しかけて来たなまえの頬は少し日に焼けているように思えて、なんとなく夏休み明けのような気がした。

「……何?」

 なまえへ返事をする僕の声も、今よりもずっとよそよそしくて、声をかけられた理由を探すように、頭の中を回転させているようにも思えた(さすがに彼女の名前が思い出せなくて考えているとは思いたくなかった)。こんな感じで返事してたんだっけ。よくこんな僕と会話を続けてくれたなあ、とひっそりとなまえへ感謝した。

「先週の金曜に出た古文のプリント、明後日までに提出だから気を付けてね」
「あぁ……」

 今日が提出日じゃなくてよかった。そう思うと返事の気も抜けた。そして目下の気になることといえば、古文のプリントをどこにしまったかよりもずっと、このはげかけた右手のマニキュアなのだ。「教科係わたしだから」と言うなまえをよそに、人差し指の爪を弾くみたいに持て余していると、その様子に気付いたのか、手元をのぞき込んで来た。なまえの髪の毛がさらさらと風に泳いで、なんの匂いなのかはよくわからないけど、とにかくいい匂いがした。

「どうかしたの?」

 マニキュアがはげかけてきているのは一目瞭然だったけど、マニキュアを塗っている理由を話したほうがいいのか、はたまた僕が野球部に所属してるところから話したほうがいいのか、女子とこんな距離で話したのなんて、マネージャー以外では初めてでどうしたら良いのかわからなかった。

「……爪の保護で、マニキュア塗ってて」
「うん」
「あ、僕、野球部だから……」
「! あはは……!」

 急に笑われて驚いたのか、夢の中の僕の頭にはまるではてなが浮かんでいるようで、それがさらに彼女を面白くさせたらしい。笑いすぎて溢れた目元の涙を指先ですくい上げながら続けた。泣くほど笑うのは流石に失礼すぎやしないか、なんて思いながら楽しそうに笑うなまえの、次の言葉を待った。

「降谷くんが野球部なんてみんな知ってるよ! 夏も頑張ってたもんね」
「あ……、えっと」
「そっか、ピッチャーさんは爪が割れたら大変だもんね」
「そう、なんだけど、マニキュアがはげそうで……」

 ピッチャーさん。なまえの独特の言い回しに首を傾げながらも、僕のポジションのことまで知っていてくれたことに「嬉しいな」と思っていた。思えばこれが、始まりだったんだろう。

「塗り直す? 除光液あるよ?」
「え……?」
「わたしも、保護用に塗ってるからさ」

 ピアノ弾くんだよね。時々割れちゃうの、と溢してから、僕の返事も待たずにロッカーへと向かい、除光液を持ってきた彼女は、今の手際の良さの片鱗がすでに見えていたようだった。

「はい、これ使っていいよ」
「あ、ありがとう……」

 コットンに除光液を染み込ませて、右手のはげかけた爪を拭う。何度か押し当てて拭き取ると、そこはすぐに素の爪に変わった。あとはここにマニキュアを塗り直すだけ。だけ、なんだけど。

「ねえ」
「ん? なあに」

 そう言ったなまえの声を、心地いいと思ったのは何故だろう。もう少し、もう少しだけこの声を聞いていたいと思った。

「マニキュア、塗ってくれない?」
「えっ?」

 思いがけず出てしまった一言。ごまかしのきかないそれを、引っ込めることもできず、かと言ってごまかさないわけにもいかず。さすがの僕でも距離の取り方を間違えてることくらいはわかって、なまえの次の一言を待たずに言う。

「あの、……いつも上手くいかなくて、利き手じゃないから。それで」
「……しょうがないなあ」

 困ったように笑いながら、僕の手からマニキュアを受け取ると、僕が思っていたよりひと回りもふた回りも小さな手が、僕の指先を捉えた。触れた指先が熱くて、それは夏のせいだけじゃなかった。

「利き手じゃない方、難しいもんね」
「うん」
「わたしもよくはみ出しちゃう」
「……そうなんだ」
「降谷くんの手、大きいねえ」

 「頑張ってる人の手だね」そう言ったなまえが見せてくれた笑顔は、今と変わらず愛おしい。その無邪気さも、ほしい言葉を真っ直ぐにくれる優しさも、何もかも変わらない。

 それから僕たちはよく、他愛もない話をしながら、時折保護用のマニキュアを塗ってもらったり、塗ってあげたりした。なまえのピアノの話を聞いたり、僕の拙い、野球の話をしたり。それから、どうしたんだっけ。それから、それから――。


「ん……」
「暁くん? ごめんね、起こしちゃった?」
「僕、寝てたの?」
「ちょっとだけね」

 「寝違えたら大変だからベッドで寝なきゃ」そう言って笑うなまえの手元にはキラキラと光るマニキュアたちが揃っていて、なるほどあんな夢を見たわけだと一人納得する。
 あの頃とは違って、透明だけじゃなくなったなまえの爪は、今ではもうはみ出すことなくきれいに塗られている。でも。

「ねぇ」
「なあに」
「最後の、僕に塗らせて」
「え? マニキュア?」

 驚いたように返事を待つなまえに、「僕が塗りたい」と返すと、困ったように笑いながら「しょうがないなあ」と、あの頃と変わらない笑顔で透明なマニキュアを寄越した。

「それで、」
「うん?」
「僕にも、塗って」

 あの頃みたいに。お互いに塗りっ子したら、乾くまでしばらくは寝られないから、さっき見ていた夢の話をしよう。夢の中のなまえは僕のことを「降谷くん」なんて呼んでたよ、って。あの頃のなまえの近すぎるほどの距離感にどぎまぎしていた自分は棚に上げて、久しぶりに呼んでみてよって言ったら、なまえはどんな顔をするだろうか。見たことのないなまえの顔があったら、全部全部見てみたいと思うのはワガママだろうか。御幸センパイや栄純から「ワガママ言うな!」と散々言われてきたことを思い出す。

 そうだよ、僕、ワガママだから。
 夢の中の僕にだって嫉妬するし、大切な思い出は何度だって繰り返したい。


シュガーバターの夢を泳ぐ


「暁くんの手、やっぱり大きいねえ」
「うん」
「でもきれいにしてるもんね、頑張ってる人の手だあ」
「うん、ピッチャーさんだから」
「なにそれ」
「なまえが言ってたんだよ、高校のとき」
「じゃあ御幸先輩はキャッチャーさん?」
「……だめ、僕だけにして」


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20200414



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