汗が垂れて目に沁みる。朝から十分に温めた身体には、過ぎるほどの熱気。体育館のドアを開け放っても、どうにもこの熱気だけは逃げない。シューズとマットが擦れる音が、耳に心地良いと思うのは何故だろうか。そんなのもう、わかりきっている。この音を、この熱気を、二ヶ月間ずっと求めていたのです。
 ヘアバンドで流れ落ちる汗を止めて、タンブリングの練習へと合流する。朝練は軽い練習、なんてよく言ったものだ、と鬼コーチをジト目で見たところで、練習メニューが変わるでもない。今年の新入生は何人入るのかな、まあそれも、ゴールデンウィークを過ぎる頃には半分近くいなくなっているのだろうけれど。なんて思っているとわたしの順番が来る。ブランクがあろうが体重が増えようが、言い訳なんて聞いてくれるコーチではない。改めて気を引き締めて、ロンダートからのバク転二連続。

「菅原ー! 腕に力入りすぎ!」
「っ、はい!」

 バク転への繋ぎが若干汚くなったのはわたし自身でもわかった。心の中で舌打ちをする。まだ身体が重いな。リハビリ中に減らしきれなかった体重を呪う。これは今日の午後練厳しくなるぞ、なんて独りごちる。力みを取るように、肩や首を回しながらチームメイトの列に並ぶ。

「結夏、まだ本調子じゃない?」
「いやー……どうだろう、自分ではあんまり感じないけど」
「やった場所が場所だからね、気をつけて」
「ありがとう」

 年明けは最悪のスタートだった。一月に行われた世界大会への予選会で、わたしはスタンツからの落下事故を起こした。鎖骨骨折と肩鎖関節損傷。一緒に靱帯も傷付けて、全治二ヶ月。事故の直後は一瞬意識も失って、演技続行不可能で棄権。怪我をしたことが最悪だったんじゃない。もう少しで手が届きかけた世界大会への切符が、わたしのミスで帳消しになったことが最悪だった。入部してすぐからレギュラーメンバーに起用され、期待された中で、わたしの事故による棄権。一年生の新人を即レギュラーとしたことにはだいぶ反発も多かった。それでも信じて、わたしをトップとしてくれたコーチやメンバーを怪我で裏切った。
 今でもまだ夢に見る。あんなにもいた観客が静まりかえり、息を呑む声だけが響くホール。動かない身体が、演技はまだ終わっていないのにマットの外に引きずり出される感触。手先が信じられないくらい冷たいのに、どっと出た汗が背中を伝う嫌な感覚。試合後のチームメイトの泣き顔とぎこちない対話。
 同じ過ちは二度と犯さない。勝つために、このチームへ入った。地元から一人出て、親元を離れてまで憧れたチームに入ったんだ。「Phoenix」の名に恥じぬ自分であるために、雑音は全てシャットアウトしたかった。

 なのに。




「……おはよう」
「はよ。菅原、もう取れたんだな」



 アレ。そう言ってわたしの腕を指さした褐色の指。ざわつく朝の教室で嫌に落ち着いた低い声。おおかた春休み前まで吊っていたわたしの腕のサポーターを指しているのだろう。「おかげさまで」と言いながら自席に着き、机の中身を整理する。今日は始業式だけだから、カバンの中身なんてたかが知れてるのに、あまり目を合わせないようにとカバンを漁るフリをする。「つれねぇな」なんてぼやきながら自らも席に着くこの男。嫌でも意識する、同じ背番号。なんで今年も同じクラスなの。ていうか隣の席。
 神谷カルロス俊樹。うちの野球部の八番、つまりセンター。二年連続同じクラスのこの男は、純ちゃんと同じポジション。
 青道高校野球部三年の、伊佐敷純はわたしの幼馴染だ。幼い頃は一つ年上の彼の後ろをよくついて回った。何をするにも純ちゃん、純ちゃんと言うことしかできなかった幼いわたし。線が細くて小さくて、よくそれでいじめられることも多かったけど、それを全部庇ってくれたのは純ちゃん。そんな優しい純ちゃんのために、何かできることはないかとチアリーディングを始めたのは小学生のいつ頃だっただろうか。彼が野球を始めたから、今のわたしがいる、と言っても過言ではない。
 それが皮肉なことに、今わたしがいるのは彼らのライバル校とも言える稲城実業高校。少しでも純ちゃんを近くで応援したかった。でも、いつしか純粋な「競技」としてのチアリーディングに魅せられた。わたしもあんなふうに、誰よりも高く跳んでみたい。そう思わせたのがこの、稲実チアリーディング部だった。稲実を選ぶかどうかは、人生で一番悩んだ瞬間だった。私の人生、勝手にずっと純ちゃんと一緒だと思ってた。それが崩れたのが、稲実との出会いだった。純ちゃんについていくのは一番簡単な選択だったかもしれない。でももしも、青道に進学して、わたしが純ちゃんの傍にいられなくなったとき、わたしに何が残るのだろう。チアリーディングの夢を諦めて、純ちゃんまで失ったら、わたしの人生はからっぽになってしまう。
 答え合わせをするのが怖かった。純ちゃんの傍にいてもいい? なんて身勝手なことは言えなかった。優しい純ちゃんだから、たぶん、きっと返ってくる答えはYES。でもそれって、妹みたいなわたしでしょう?

「一応、今年もよろしく」
「おう、よろしく」

 「一応って」とからりと笑う神谷くんに罪はない。そうだ、わたしが勝手に意識しているだけ。必要ない物は神奈川に全部置いてきたはずなのに、十年以上秘めたこの想いだけは、置いてくることが出来なかった。





焦がれたのは幻想


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