男性は海辺に花を差し出す。此処で男性の後輩が亡くなったのだそうだ。擦り減った神経は己の衝動を止められず、錯乱し、海に沈んで行ったらしい。
「夕陽が奇麗だね」
「嗚呼」
あまり毎日この海を訪ねて来るものだから、話し掛けずには居られなかった。砂浜が見える所に家がある私は、この男性が何故此処に来るのか、知ろうとしたのが、出会いの契機。
「君は、リアリストを知らないか」
「捜しておく、うん」
私に尋ね、彼は口を閉ざした。この質問を、何度彼にされたか分からない。質問しっぱなしで彼は、思案する様子も無く、後輩を哀悼しているそぶりも見せず、ただ、静かに佇む。
「どうも俺は、理想論ばかり錯綜して、いけない。理想論に現実的思考を以って水を差す者が必要だ」
そう言って、また口を閉ざした。彼の足元に波が押し寄せる。
夕陽は空だけでなく海も橙に染め上げ、堂々とフィナーレを演出する。藍色の緞帳がひとりでに下りるまで。そして花が、波に少しずつさらわれてゆく。一輪、また一輪と、それは波に色を差して消え入る。
「退廃は嫌いではない」
「そうだね」
程無くして花は、花弁の一つさえ残さず、全て海に呑まれて消えた。彼は笑みを湛えて、花を愛おしんだ。
「俺も直ぐに行くからな、赤也」
「アカヤっていうんだ、その方」
黙したまま、瞼を伏せた彼は、上着をはらりと脱ぎ、砂浜に落とした。
「リアリストは、何処に居るのだろう」
「分からないよ、捜しておくね」
またこの質問。
彼は何を捜しているんだろう。
「それでは、君との話も之で終いだ」
彼は、海に一歩、また一歩と、静かに這入り始めた。私は漸く、彼の異常を察知した。
「何してるの」
「赤也を捜しに行くんだ」
「2年前に亡くなったんでしょ…?」
「赤也が泣いている…!」
「波の音しかしないよ!」
「赤也は淋しがり屋なんだ!」
「そんな事しても、誰も喜ばない!ねえ…!!」
「俺には赤也の声が聴こえるんだ!」
ざぶざぶ、ざぶざぶ。ざぶざぶざぶ。水を掻き掻き、深みに進む。私は彼を止めようと、必死で彼にしがみつき、引っ張った。
「アカヤさんだって…喜ばないよ、貴方のそれは、幻聴」
「赤也が…喜ばない…?幻聴…?」
眼を見開いて、私を凝視した。まるで私の方がおかしいような口ぶりだったが、動揺ははっきりと見て取れる。
私はアカヤさんを知らない。この男性の事だって、リアリスト捜しの見舞い人という認識しかない。でも、目の前で死のうとしている人を止める事は、人間なら誰にでも課せられた義務だ。
「リアリストを捜してるんでしょ、ねえ、ほんとは止めて欲しいんでしょ!」
「赤也の元に行くのに…止めて…欲しいなどと…そんな…」
戸惑っている。やはりそうだ。彼に自己犠牲を払う勇気など在りはしない。彼はとんだ意気地無しだ。美化した責任感を自殺で彩ろうとする自分を止めて欲しい願望を、リアリスト捜しという目的で隠している。
「馬鹿じゃないの…?死にたくないのって、普通でしょ!なんでそんなに思い詰めてるか知らないけどさ、私は、あんたはアカヤさんの分まで生きてやれば良いと思う」
「赤也は俺が殺したも同然なんだ!俺は赤也のSOSに、気が付いてやれなかった」
悲痛な声。なればこそ、私は。
「貴方の、リアリストになるよ、私」
海水に濡れ、重くなった服は、体力を消耗させる。躯の芯まで冷えてきて、血の気が引いていくのが分かる。もうこれ以上此処には居られまい。私はただ、彼を助けるのに必死だった。
「もう、良いんだよ」
「…あああ…赤也…あっ…赤也…あああ、ああああ、あぁぁあぁあああぁあぁああぁあああぁあ…」
彼は堰を切ったように咆哮した。沖に上がらず、だがもう二度と深みに足を伸ばす事は無く、その場から動かない。
「分かってるくせに…アカヤさんが戻らない事も、死んではいけない事も。貴方は頭が良いから、分かってるはず。…疲れてるんだよ」
「…分かっているさ」
ゆっくりと砂浜を目指して、漸く彼は歩き始めた。私も後に続く。青ざめた彼の手が震えている。
潮が満ち、水位が上がっている。彼の上着が波に乗って、前方から流れてきた。驚いて私は、その上着を掴もうと手を伸ばす。
「良いんだ」
右手で制した彼は、振り返る事は無い。
砂浜に上がり、彼は膝を折った。塩水が躯に纏わり付き、酷い有様だ。
彼は、静かに呟いた。
「すまない、赤也…俺はもう、二度と此処には来ないだろう」
別れの言葉より、未来を見据えていた過去。今改めて、忘れかけていたその時に立ち返るべきなのかも知れないと、彼は言う。充分過ぎる追悼は、奴の重荷になりかねない、と。
私に背を向けて口を開かず、彼は私の前から消えようとした。
「待って!…ね、名前は…?」
「…柳、蓮二だ」
「奇麗な名前」
踵をかえし、砂嵐と共に、彼は彼方に消え去った。柳の葉の如く風にたゆたい、玉響の刻の如く、人の世を廻る蓮の花のような清らかな人間。夢か現か、しかし、確かに彼はそこに居た。