ぶくぶくぶく。
泡がはじけて消える度に、肌から身体が弾けるように痛んだ。指先から始まって、だんだんと心臓に向かうように泡ははじけていく。どこかでは冷たい海にいる心地好さを感じ、別のどこかでは泡が弾けるのと同時に生じる痛みを感じていた。それを頭で理解しているから、わたしの頭はぐちゃぐちゃになってしまった。太陽の光の筋が降りてくる。わたしは初めて、天国というものを見た気がした。あの場所が天国ならは、わたしの身体が向かおうとしているそこは地獄だ。わたしは、あったはずの、あるはずの右手を天国へ伸ばした。身体は自分の意思に反し、ゆっくりと、確実に下へ下へと沈み、地獄への距離を縮めていく。遠くなる光の筋を何かが遮った。黒くて、わたしなんかよりもずっと大きな何か。海の沈黙は重たく、耳に刺さるようで痛かった。自分に見えているものが本当なのか、むしろ本当に見えているのかよくわからなくなる。どうして海の中で目が開けられて、しかも息が出来るのか。わかる事は、あるような、ないような。
相変わらず頭はぐちゃぐちゃ、中に釘が数本入っているような痛みは、だんだんと強くなっていった。ごおっ。空気を揺らす低い音が響く。わたしは、あの影が鯨である事に気がつくのだった。

誰かがわたしの名前を呼ぶ前、わたしは一度死んだのかもしれない。叫び声に近いそれを、ぴりぴりと痛む耳で微かに聞き取る。その声の奴は、わたしを探していた。声に気がついて目を開けた時、わたしは人工的な四角い海にのまれていた。息も出来ず、反射的に目を開ける事も叶わない。痛みを感じる身体は確かにその場所にあって、わたしをこの海に縛り付ける。先ほどの海と違うのは、上を見上げても光がない事、弾ける泡はわたしを傷つけない事、そして鯨がいない事と、塩素の鼻につく匂いがする事、わたしを呼ぶ声がする事だった。ここはわたしのいた海じゃない。
身体はいつの間にかゆっくり上昇して、わたしは水面から顔を出す。冷たい風が、濡れた顔に容赦なく吹きつけた。顔の水を払ってからあたりを見て、ようやく、今いる場所が学校のプールである事に気がつく。制服は水を吸って重たい。なんとかプールサイドに上がる。指先は冷えて感覚がなかった。
わたしはじっと、灰色の水面を見る。海とは違って、そこには生命というものがない。あぁそうか。だから鯨は行ってしまったんだ。
もう一度、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。今度こそ、その声はわたしの耳にダイレクトに届いた。ばたばたと忙しい足音が聞こえて、プールの入り口を見つめる。そこから顔を出したのは、息を切らした一氏だった。誰がわたしを呼んでいるのかなんて考えていなかったけれど、まさか一氏だとは思っていなかったから、少し驚く。わたしの心は凍ったままで、動きを見せない。一氏は怖い顔をして少しずつ近づいてきた。


「おはよう」


何だか晴れ晴れしい気持ちだった。わたしが思いついて口にした言葉に、彼の唇は固く結ばれ、目はきゅっと釣り上がる。恐る恐るというような足取りが大きくなって、一氏はすぐにわたしの正面に立った。わたしを真っ直ぐ睨むように見つめる目は正直で、わたしは彼の目に引き込まれていくようだった。海みたいに澄んだ目だ。しかし一氏がすぐに目を逸らした所為で、見続けられなくなってしまう。海はあんなに綺麗だったのに。空は灰色なのに、水が青く見えるのはどうも馴染まない。じっとプールを見つめていると、一氏がわたしを呼んだ。視線を一氏にうつす。彼は相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。

「は?」
「ブレザーとセーター。濡れたままやったら寒いし重いやろ」
「あぁ」


納得して、わたしは脱ぐ作業にかかる。顎で後ろを向くよう言われてその通りにすると、一氏は襟を持って脱ぐのを手伝ってくれた。ブレザーの水を絞ってくれる一氏を見て、あっと思い出す。そういえばポケットにはいくらか物が入っていた気がする。慌てて一氏を止め中を確認すると、案の定ケータイやリップやらが入っていた。何度か試してみたが、ケータイの電源はつかない。


「壊れちゃった」
「アホ、当たり前じゃ」


せめてもの救いは、この間新調したウォークマンを入れていなかった事だ。ケータイは、買い替えたいと思っていた所だし、ちょうど良かったのかもしれない。面倒なのはアドレス帳の入れ直しぐらいだろうか。今度は何色にしようか、真っ黒なケータイの画面を見つめる。


「にこにこしとらんと行くで」

「あ、うん」


何も言わず肩に一氏が着ていた学ランをかけられる。直前まで彼が袖を通していたからか、学ランには人の温もりがあった。少し先を歩く一氏の背中を見つめながら、わたしはそれを追いかける。冷たくてうまく動かない脚の所為で何度か立ち止まったけど、その度に一氏は待ってくれた。声をかけず、深い瞳にわたしを閉じ込めながら。
一氏の目を見ていると、魔法にかけられてしまいそう。自分、プールに脳みそ落っことしてきたんちゃうか。もしかして、本当にそうかも。

わたしの脳みそは、泡と一緒に弾けて消えちゃったのかもね。窓の外の空は、相変わらずのっぺりとしたつまらない灰色だった。
保健室につく。部活をやっている時間帯だからか、校内には人影が全くなくて、それでいて聞こえてくる、吹奏楽の楽器の音や野球のボールを打つ音や掛け声は、なんだか少し不気味だった。保健室に人はいない。そういえば今まで、全くお世話になる機会がなかったなぁ。何がどこにあるかとか、どうやって使うかとか、全くわかんないや。ぼーっとあたりを見ていると、ストーブをつけた一氏に、その目の前ソファーに座っておけと言われる。ソファーに目をやると、その上にはバスタオルがいくつかかけられていた。すぐ横にある小さいテーブルの上にはフェイスタオルも置いてある。



「はよ座れ」
「ウン」
「着替え。俺のジャージやけど、綺麗やから」
「ウン、ありがとう、一氏」


一氏の荷物の中から、言葉の通り綺麗にたたまれたジャージを出して手渡される。先ほど教室によって荷物を取ったのはこの為だったのか。一氏は回転イスを持って、わたしが座っているソファーから離れた所にある、窓の目の前に腰をおろした。回転イスからは錆び付いた嫌な音が聞こえてくる。見ないでね、なんて言葉を言う必要はなさそうだ。
当たり前だけど、一氏のジャージは、わたしにはだいぶぶかぶかだった。腰回りはそんなにゆるくないのが何とも言えない。着替え終わったわたしを見た一氏は、声を上げて笑うのだった。


「あんたのジャージでしょ」
「自分が着とるからなぁ、しゃあないわ」
「むかつく」


大笑いしているはずなのに、目の前にいる一氏の笑いはどこかスマートだった。皆の前でやってる豪快な笑いとはえらい違いだ。
一氏はときどき思い出したように笑いながら、ストーブの上に置いていたやかんのお湯を洗面器に入れた。あしをつけておけと言われて、その通りにする。お湯はほどよくあったまっていて、そのあたたかさに、わたしはふぅと息を吐いた。オレンジ色の洗面器から伸びる不健康な色のあしを見ていたら、無言で湯たんぽを渡された。至れり尽くせりだ。


「一氏部活は?」
「今日は、ナシ。サボリ」
「珍しいね」
「自分の所為じゃボケェ」


寒、と短く呟いた一氏は、回転イスを持ってストーブの近くにやってきた。暖房が効き始めたから震えてしまうほどではないが、ワイシャツの中に着ているにしても(開いているワイシャツの胸元から、黒いシャツが少し見えている)、一氏には寒そうだった。ブレザーはわたしに貸して濡れてしまったし、ジャージもウィンドブレーカーも、わたしが着ていて駄目だ。申し訳なくてごめんね謝ると、嫌な顔をした一氏は、言う事ちゃう、と言って、わたしから湯たんぽを取り上げた。一氏は、後ろ向きな言葉が嫌いだ。
窓の外の灰色を見つめた。木はひょろひょろになって寂しいし、学校には鮮やかな花も植えられていないから、最近は窓の外に飽き飽きしていた。わたしが溺れた海を思い出す。海は、大きなカメレオンみたいだ。空の真似をして青くなったり、寂しくなったり。いっそ海が空になってしまえばいい。そうしたら灰色になっても色とりどりの魚たちがいるから、飽きる事はない。そうしたら、わたしが海に溺れる事もないのに。
ふと、視界の端に一氏がうつる。彼は、じっとわたしを見つめていた。深い海のような瞳に、わたしを溺れさせる。一氏が小さく唇を動かす。彼はわたしの名前を呼んだ。


「なに」
「なんで、あないな事したん」


思考に波が押し寄せる。どこからか海の音が聞こえていた。耳元で泡が弾ける。
わたしは、ある男を思い出した。太陽の光の中に、彼は立っている。彼は笑顔で立っている。明るい色をした髪の毛は、光に反射してきらきらと輝いていた。彼の笑顔は、わたしの知っているいちばんの笑顔だ。彼以上に幸せな笑顔を、わたしは今までに見た事がない。彼はわたしに、とびきりの笑顔を向ける。とびきりの笑顔で、わたしに手を伸ばすのだ。彼の方へ向かおうとしたわたしのあしは波にのまれてしまう。
海は、わたしが大嫌いだった。わたしは彼に焦がれていた。心臓は張り裂けるように痛い。この感情は、嘘ではなかった。
息が出来なくなるかと思った。まるで、また海に溺れたみたい。けれど痛むのは頭でも指先でもなく、この体に血を送り続ける心臓だった。
一氏がわたしの肩を掴む。そこからじわりとした痛みのようなものが広がって、体が麻痺していく。荒くなっていた呼吸が整ったのは、一氏から酸素を送り込まれてからだった。
すぐ近くに、小さな海がふたつある。少し熱を持ったようなそれは、確かにわたしを映していた。


「俺に、そうしてほしい?」
「一氏は、あいつの代わりは、出来ないよ」


返した言葉は、残酷ではなかった。
わたしは静かに目を閉じる。瞼の向こうで、鯨は息をしていた。







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