肌に馴染んだ潮の香りがした。紺碧というには些か昏い海沿いを佐伯と並んで歩く。最初は学校の場所がわからないからという理由で始まった幼馴染の佐伯との登下校も、もう三年目を迎えようといていた。男子テニス部と女子テニス部の朝練の開始時間が同じだったのは私にとって嬉しい誤算だった。佐伯は人当たりの良い笑顔で、飽きもせず大会が近いのだという部活の話をしている。そっちも来週大会だよね。尋ねてくる佐伯に頷きながら、それでも私は自分がレギュラーになれないことを知っている。
私と佐伯は、もともとそんなに仲がいい訳ではない。靴箱で別れてしまえば、次に話をするのは放課後、校門を出てすぐのところにある看板の下で合流してからだ。
校内でだって私を見かければ手くらいは振ってくれるかもしれないが、それ以上のことは何もないだろう。よく邪推されるが、私と佐伯は断じてそういう関係ではない。おそらく彼は集団での登下校の延長で毎朝私を迎えに来ているのだろう。佐伯は底無しに優しい。私の気持ちに気付かないふりを続けてくれる程度には。


「お前らってさ、変だよな」
「藪から棒になに?」
「だってアイツ彼女いんだろ?」
「関係ないじゃん別に」


友達なんだから、と素っ気なく言ってやっても、黒羽は腑に落ちない顔で首を捻っている。佐伯の彼女は青学の娘で、卒業式で彼女のほうから告白して以来ずっと付き合っている。遠距離恋愛は辛いよ。今朝の佐伯はまったく辛そうにない調子でそう言って笑っていた。


「なんだか人魚姫みたいなのね」


多分この三年間一番近くで私たちを見守っていたであろう樹が、しみじみとそんなことを呟いた。ロマンチックだねって嘲笑う私は、きっとお伽噺のヒロインには相応しくないだろう。王子様よりも非の打ち所がない佐伯を思って、ついでにお姫様みたいに愛くるしい佐伯の恋人を思い出して、私はどんどん惨めになっていく。


「昨日電話で不二がさぁ…」


うんうん、って佐伯のくだらない話に頷く私は結局今日も佐伯と並んで歩いてしまう。学校の場所はもう覚えたし、夕闇をこわいと思うほど子供ではない。本当は登下校くらい一人で大丈夫なのに、それでも佐伯と二人でいたくて、私は彼に大丈夫だと言えずにいる。一層この声が奪われてしまえば、どれだけ楽になれるだろう。


「佐伯、今日は待っててくれなくていいよ」
「え?」
「部活、ないから…」
「そっか」


部活がない、という表現はまったく正しくなかったけれど、まるっきり嘘という訳でもなかった。おそらく最後になるであろう大会に出場しない私にとって、部活に参加する必要性はもうない。こういう言い方をすれば三年間部活に全力で取り組んできた人たちは怒るだろうが、残念ながらパッとした成績もなく、受験のためにとテニス部に籍を置いていた私にとって、部活そのものの優先順位はとても低い。


「じゃあ気を付けて帰るんだよ」


まだ学校についたばかりだというのに、佐伯がそんなことを言う。変な響きだった。あの娘がいなくても、佐伯は私を好きにはならないのだろうと、悟らせてしまうような。
恋をしてしまった人魚姫。王子様に愛されることのなかった人魚姫。人間の足を手に入れた彼女には人魚に戻る方法が一つだけあった。何故彼女はそうしなかったのだろうか。王子様を殺せば海の底に帰れたのに。人魚に戻るという確固たる目的のために王子様を殺せたのに。


「殺せばよかったのに…」


私だったら絶対にそうする。部活をサボって、いつもは見下ろしているだけの砂浜に一人で降りてみた。靴も脱がずに海の中に入っていく。その行為自体に意味はないから、私はすぐに途方に暮れて立ち止まる。濡れて足にはりついた靴下を波が撫でていく。


「物騒だなぁ…」


私の暗い気持ちと午後のさみしい海にはおよそ相応しくない爽やかな声がした。振り返れば、いつの間にか制服姿の砂浜に佐伯が立っていた。絶対に濡れないところから私を見ている佐伯と踝までとはいえ海に入私の間には一定の距離がある。今更近づこうとは思わなかった。


「佐伯…」
「泳ぐにはまだ少し早いんじゃない?…君がどうしても水遊びがしたいっていうなら止めないけど」
「部活はどうしたの?」
「さぁ、どうしたんだろう?」


男テニも休みだったりして、なんておどけてみせる佐伯の言葉が嘘だってことくらい私にもわかる。わからないのは佐伯の真意だ。貴重な部活の時間を削って、彼は何をしにここに来たのだろうか。少なくとも自主練という訳ではなさそうだ。


「君が心配だったから来たんだよ」


足元から潮の香りがした。穏やかに吐き出される佐伯のセリフは嘘か真かどんどんわからなくなって、そのまま海に溶けた。彼に伝えたいことがある。それだけは確かなのに、都合のいいときだけ失声の呪いにかかる私の喉。帰ろう、と佐伯が囁く。私は人魚姫じゃないから、どう足掻いても海には帰れない。それでも必死で佐伯を殺す理由を探していたけれど、どうやらみつかりそうになかった。





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