前夜
―――新世界、とある島。
澄み渡る青空の下、男女が向かい合って構えを取る。
先に仕掛けたのは男の方、しかし、女はそれを分かっていたかの様に華麗に躱した。
カウンターで繰り出した蹴りは、咄嗟に出された手でガードされてしまったが男の態勢を崩す事には成功した。
その隙を逃さず、腰にさしていた刀を素早く抜いた。
「……参った、おれの負けだ」
「最後、手抜いたわねペンギン?」
「勘弁してくれ、もう何回付き合ってると思ってるんだ」
やれやれ、と息をついてペンギンは言った。
両手を上げ、喉元の刀を引いてくれと伝えると、エマは大人しくそれに従い刀を鞘に収めた。
「大分使い慣れてきたな、覇気」
「そうね、でもやっぱり武装色は少し苦手みたい」
「その代わり見聞色は相当鍛えただろ?反応の速度が以前とはまるで段違いだ」
「本当?」
その声色は少し高く、期待が込められていた。
それに大きく頷いて答えれば、エマは嬉しそうに目を細めた。
「気合入ってるな」
「そりゃあそうよ。あの人の足手纏いにはなりたくないもの」
「ついて行けるのはお前だけだ。頼むぞ」
「任せて」
胸をトン、と叩いてエマは笑った。
「さァて、キャプテン達の方はどうなったかな」
「どうかしら。でもしっぽを掴んだって言っていたし、きっと大丈夫よ」
「……そうだよな」
エマがそう言えば、ペンギンは同意しながらも俯いた。
「ちょっと、ペンギン」
「なんだよ……うわっ!」
ペンギンの帽子の両端を掴み、グイっと思い切り下へ引っ張った。
いつも深めに被っている帽子は、エマの手によって更に目深になっていた。
「あはは」
「やったなエマ」
「あ、わっ、ちょっとやめ…!」
帽子を被り直し「仕返しだ!」とエマの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「ワハハハハ!!」
「あー、もう…酷いじゃない」
「先にやったのはそっちだろ」
「ペンギンが辛気臭い顔してるからよ」
エマがそう言えば、ペンギンは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
それにつられ、エマもきょとんと目を丸くした。
「……してた?」
「ええ、してた」
「まじか、そんなつもりはなかったんだが……」
「心配で仕方がないって顔」
エマがそう言えば、ペンギンは「参ったな」と天を仰いだ。
「心配っていうか、ビビってんだなァおれ」
「大丈夫。みんな一緒よ」
「これからあの七武海と四皇に喧嘩を売りに行くんだから」とエマはニヤリと笑った。
「その割には余裕だな」
「この海に入ったら、遅かれ早かれぶち当たる壁でしょ。余裕というか、開き直ってるだけ」
そう言って砂浜に腰を下ろす。
それを見て、ペンギンもその隣に「よっこらせ」とどっかりと座った。
「おじさんくさい」
「アッ!?やめろ、傷つくだろ」
「ペンギンおじさん」
「ヤメロ!!!」
隣でしくしくと泣き真似をするペンギンに、エマは面白がりながらもごめん、と一言。
そんな時だった、少し遠くの海面がブクブクと泡立つ。
そして水しぶきを上げて海上に姿を現したのは、ポーラータング号だった。
「あっ、」
「帰ってきたな」
船から降りてくる仲間達の姿を確認するや否や、エマはその元へと駆け出した。
「皆、おかえりなさい」
怪我もなく無事に帰ってきた事にほっとしていると、ふと頭から影がかかる。
見上げた先にいた人物を確認すると、エマは目を細めて微笑んだ。
「おかえり、船長」
「あァ。変わりはなかったか」
「大丈夫よ。それより、分かったの?」
エマが問えば、ローは返事の代わりに口角を上げた。
「ログのとれねェ島だが、大体の位置はな」
「いよいよなのね」
「目的地が決まった以上、ここに長居する必要はない。明日出るぞ、準備しておけ」
「ええ、分かった」
ついに、この時がきた。
無意識に握ってしまった拳は、爪が食い込むほどに力が入っていた。
・
・
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「エマ、いるか」
夜、軽く荷造りを済ませ、イッカクと部屋で談笑していた時だった。
「ええ、いるわ。どうぞ」
しっかりと返事を待ってから、ローは扉を開いた。
「少しいいか」と部屋を出るように言われ、イッカクに顔を向ければ「行っておいで」と短い返事が返ってくる。
「悪いな」
「いいえ、私もそろそろ休もうと思ってたところでしたし」
「じゃあ、少し行ってくるわね」
「ええ?少しですむの?」
「っ、もう、ちょっと…!」
「すまねェな。朝まで借りる」
「乗らなくていいの!」
「どうぞどうぞ」
「あぁ、もう!何か用があるんでしょう?バカやってないで行くわよ」
ぐいぐいとローの背中を押し、エマはそのまま廊下へと押し出した。
手を振りながらイッカクを見れば、それはそれは暖かい目で見送られてしまった。
前を歩く長身を見上げながらついて行けば、予想通り船長室へと案内される。
中に足を踏み入れ、ローはベッドへと腰を下ろし、エマはその前で足を止め今度は彼を見下ろした。
「何かあった?」
「いや、何もねェ」
「え、じゃあなんで私は呼び出されたの?」
「恋人を夜な夜な部屋に呼んだんだ。理由は一つしかねェだろ」
「なん…、」
「エマ、抱きてェ」
ぶらりと下がっていた手を取られた。
触れられた指先が一気に熱を帯びる。
「エマ」
その声に引き寄せられるかのように、エマの足が一歩また一歩と歩を進める。
見上げてくる熱の籠った瞳を見つめ、ローの両肩にそっと手を添えた。
「本当は、」
「なんだ」
「いつ来てくれるかなって、待ってた」
「期待に応えられたようで何よりだ」
ニヤリと笑って、触れるだけのキスを一つ落とした。
離れて、もう一度触れて、今度は深いものに変わった。
腰を掴まれて引き寄せられ、ローの膝の上に跨った。
両頬を優しく包み込み今度は自分から唇を寄せるが、すぐに主導権はローに奪われてしまう。
シャツを割って入ってきた手のひらに背中をなぞられ、くすぐったさと快感に思わず声が出た。
「相変わらず弱ェな、背中」
「んっ、だって……」
人並より体温の低い指先に触れられ、ぞわぞわと身体が疼く。
ローの肩口に顔を埋め、徐々に甘ったるい声が漏れていった。
背中に回っていた手は、やがて腰を通って胸へと移動する。
やわやわと揉まれ、時に乳首を擦り、時に爪でピンとはじかれた。
吸い付かれた時は思わず甲高い声が漏れてしまい、咄嗟に手で口を塞いだ。
しかしその手はすぐに、ローによって取り払われてしまう。
「抑えんな」
「う、ん……っ、」
甘い吐息が漏れる中、ふいに視界が反転する。
背中に柔らかい感触がしたと思えば、すぐに口を塞がれた。
段々と下半身へと下がっていく指先に、おのずと身体がこわばってしまう。
「おい、力抜け」
「わ、分かってるけど、こればっかりは仕方ないでしょう…!」
「いい加減慣れただろ」
「な、慣れない!」
「あァ?」
身体を起こしてまで否定したエマに、ローは至極不思議そうに首を傾げた。
「いつだって、ドキドキするのよあなたに触れられるの。嬉しいけど、どこか切なくて…き、緊張するの。触ってほしいけど、いっつも、自分が自分じゃなくなるみたいな感じがして……」
ころん、と身体が横に倒れ、羞恥心から顔を両手で覆う。
「……ロー…?」
何も言わないローを、エマは不安そうに指の間から覗き見た。
彼はぽかんとした表情をしてから、フッ、と口元を緩めて笑っていた。
「ちょ、わらっ…!笑わないでよ!」
「ふ、くく……あァ、悪ィ」
「最悪、言わなきゃよかった」
「なんでそうなる」
いまだに喉を震わせながら、ローはエマの両手首を掴んだ。
そのまま顔から引きはがそうとしても、エマは拒まない。
「可愛いな、エマ」
真っ赤に染まったその顔を、ローは目を細めて見下ろした。
「……そんな事、普段は言わないくせに」
「そんな顔してたら、言ってやりたくなるんだよ」
そう言って華奢な身体を強く引き寄せた。
口内に入ってきた舌にいい様に弄ばれ、こわばった身体は簡単に解けてしまった。
「ひっ、あ」
「濡れてるな」
「い、わなくて、いいからぁ…!」
ローの長い指が陰部に触れた。
指が動くたびに、くちゅくちゅといやらしい水音が響く。
「あっ、や…音、たてないで……」
「こんだけ濡れてんだ、無理だろ」
彼の長い指の腹がゆっくりと行き来する。
そのなんとも言えないもどかしさに、自然と腰が動いてしまうのは仕方がなかった。
「ロー、今日、は…そんなに慣らさなくてもいいから……」
「バカ言え、つらいのはお前だぞ」
「んっ、大丈夫だから……分かってよ、ふっ、ぅ…早く、欲しいの」
「駄目だ」
「や、ぁっ、なんで…!あっ!」
完全に油断していた、とエマの身体が大きく跳ねる。
くぷり、と侵入してきた指が体内をかき乱す。
二本の指によって、すでにローに知られてしまっている自分の弱い部分を徹底的に刺激された。
「あ、あっ……」
「我慢するな、一度イっておけ」
「ひゃ、ぁ…!」
ぐっ、とひと際強く腹側を押されてしまえば、あっけなく達してしまった。
くたりとローの身体に体重を預け、短い呼吸が静かな室内に響いた。
なかなか顔を上げられずにいると、風呂上りのサラサラの髪の毛を大きな手が梳いた。
そのまま首をなぞって、指先が顎にかかり掬い、端正な顔立ちと至近距離で目が合う。
合わさった唇から伝わる熱はとても心地が良かった。
「ロー」
「……なんだ、」
「余計な事、考えてるでしょ?」
行為の時、ローはいつも優しい。
エマが本当に嫌がる事はしないし、激しい夜も逐一身体の心配をしてくれる。
今日だってそうだ、気持ちが逸るエマを彼女が良いと言っているにも関わらず、彼女の身を案じて慣らす事を選んだ。
ゆっくりと視線を落とせば、ローの下半身は、ジーンズをきつそうに押し上げている。
本当は早く入りたくてたまらないはずだ、それなのに、彼はそうしようとはしない。
まるでこの夜を、この時を、少しでも長く感じていたいとでもいうように。
「最後になんてさせないわよ」
「なんの話だ」
「はぐらかさないで」
ぴしゃり、とエマは言い切った。
出会って数年、思いが通じ合ってからもそう短くない時間を過ごした。
ローが今何を考えているかくらい、彼にエマの考えが分かるのと同じくらい、分かるのだ。
「あなたを死なせないわ」
瞬間、ローの瞳が大きく見開かれた。
「皆と約束してるの、必ず連れて帰るって。だから、絶対に死なせない」
「ッ、ばかお前…そんな簡単な相手じゃ…!」
「分かってる。あなたがどれだけの覚悟で、命をかけてこの作戦に挑むのか、分かってるわ。だけど、だからって死にに行こうとしているあなたを、はいそうですかって黙って見てるわけがないでしょう?バカなの?」
「おい、言わせておけば…もう一度言ってみろ」
「バカよ、バカ。大バカ」
「この…!」
「私だっているんだから。一人で背負わないで、一緒に、戦うんだから」
「ッ!おま、えは……ったく………ハァ………」
「ちょっと、そのため息は傷つくわ」
片手で顔を覆ったローを、頬を膨らませながら覗き込む。
ヒラヒラとその前で手を振ってみても、ローからの反応はない。
「とにかく、私はあなたを死なせるつもりは毛頭ないから。死ぬのは諦めてね。もしかして、私を置いていく気なの?怒るわよ………っ!?」
ぶつぶつと文句を垂れていると、ヌッと腕が伸びてきて強い力で引き寄せられた。
厚い胸板に顔を思い切りぶつけると、「ぶっ!」となんとも色気のない声が出てしまった。
「い、いたい…!いきなり何するの!」
「お前はよく、バカみてェに難しい事をさも簡単な事のように言うよな」
「突然嫌味?違うわよ。ちゃんと出来ると思って言ってる」
「でもそのバカみてェな言葉に、救われた事もあったな」
「…………どうしたの、急に」
静かに言葉を紡ぐローを、エマは不安そうに見上げた。
どこか泣きそうに見えたその表情に、一瞬だけ、ふいを突かれた。
「好きだ」
時が、止まったのではないかと思った。
「好きだ、エマ」
ぎゅう、と締め付けられた心臓。
その後、先に零れたのは言葉ではなく涙だった。
ふは、と目の前の男の顔が破綻する。
今までに見た事がないくらい、優しい瞳を向けられていた。
「泣き虫は二年経っても直らなかったな」
「ばか、っ、こんなの…泣かないわけないじゃない……」
ローはボロボロと零れる雫を指で掬い、口付ける。
泣き止まそうとしたその行為は逆効果で、大きな瞳からは涙が流れ続けた。
「お前を死なせたくねェ」
「それは、私だって同じ」
「何度も置いて行こうと思った」
「そんな事したら、すぐに追いかけて平手打ちね」
「怖ェ女だな」
「でも、好きなんでしょう?」
顔を見合わせ、ふと笑い合う。
「ねぇ、ロー」
「なんだ」
「私の勝ち」
にっこりと微笑んでエマは言う。
あれは、いつの事だっただろうか。
「いつか、私の事が好きだって、船長の口から言わせてやるんだから!」
今でもあの時の事は鮮明に覚えていた。
まさか、本当に自分から言うハメになるとは。
「おれも丸くなったもんだな」
「いいじゃない。素直に言ってくれた方が嬉しいわ」
「お前は言ってくれねェのか?」
ニヤニヤと笑って、ローは言った。
いつもの調子が戻ったな、さっきまではあんなにしおらしかったくせに。
内心エマはそう思ったが、今はそれ以上に機嫌が良かった。
「私も、好き」
二つの手が強く絡まり合う。
ローはその手を唇に持って行くと、軽く、キスを落とした。
「また、帰ってこよう、ここに。ちゃんと、二人で」
「……あァ、そうだな」
そう誓い合った。
日が昇るまでもう何時間もない、深夜の出来事だった。
***
「調子は?」
「いいわ」
「忘れ物ないですか?」
「あァ、」
「ビブルカードは……」
「「持った」」
声を揃えた二人の指の間に挟まれているのは、航海士ベポのビブルカードだ。
「これがねェと、お前等との合流は不可能だからな」
「そうだよ!だから絶対に失くさないでよ!」
「ふふ、分かってるわ。大切に持ってる」
ここでエマとロー、その他のクルー達は別々の航路となる。
クルー達は作戦を遂行する二人とは別に、"ゾウ"という島を目指し、待機する事が目的だ。
ただ、その"ゾウ"という島は本当の島ではなく、千年以上も海を渡り歩く"象"なのだそうだ。
信じられない様な話に、エマも最初は疑っていたが、それがベポ達ミンク族の故郷だというのだから信じるほかなかった。
"ゾウ"はログでは辿れない。
向かうには、"ゾウ"にいるミンク族のビブルカードが無ければ上陸は不可能だった。
「大事を起こした後、身を隠すにはこれ以上の場所はない。頼んだぞ、お前等」
「アイアイ!」
「任せてくれ、キャプテン!!」
「エマ。キャプテンの事、」
「分かってる。ちゃんと無茶しないように見張ってるわ」
「人を問題児みてェに……トラブルメーカーが何ほざいてる」
「それは!この二年で大分よくなったでしょう!?」
「掘り返さないで!」と言い合う二人は、いつも通りだ。
「じゃあ、キャプテン…お気をつけて…!」
「あァ、お前等もな」
「エマ!きっと、無事で帰ってくるのよ!」
「ええ!イッカクも、少しの間だけど、元気でね!!」
船から手を降るクルー達に背を向け、二人は歩き出す。
今生の別れではない、分かってはいるはずなのに、涙が零れそうになるのを必死に我慢した。
そんなエマの心情を察したのか、ローはそっとその背中に手を添える。
一文字に縛っていた口元は緩み、小さく「ありがとう」と笑みを浮かべた。
「というか、こんなに寒いなんて聞いてない……やっぱり止めとけばよかったかしら」
「なんつー緩々な覚悟だ。もう遅ェよ……あァ、これだな」
「早く中に入りましょ…!」
しばし歩いた先に、見上げる程の大きな建物を見つけた。
これが今回の目的の一人、シーザー・クラウンの根城である。
「ッ!何者だ!」
見張りの男が声を上げ、銃を構えるがもう遅い。
すでにサークルを展開していたローの手により、男の身体は二つに分かれて積もった雪の上に落ちた。
「七武海、トラファルガー・ローだ!扉を開けろ、シーザー!」
扉の前に立ったローが大きな声で叫んだ。
建物内全体がざわ、と騒がしくなったのはきっと勘違いではない。
少しして、目の前の重たい扉がゆっくりと開いた。
「中でマスターがお待ちです」
ああ、いよいよだ。
エマは思っていたよりも自分が冷静な事に驚いた。
「行くぞ」
「ええ」
一歩、慎重に中へと足を踏み入れた。
なんとなく、中の空気は重苦しく感じた。
今思い浮かぶのは、憎きあの男の姿。
「高みの見物でいられるのも今の内よ」
蹴落としてやる、そう呟いてエマは歩を進めた。
群青に還る 第二章 完