過ぎた日々を、

「・・・寒いと思ったら、」

膝に置いた手に舞い落ちた、ひとひらの雪。
淡くとけたそれは、冷たい熱を残して消えた。

この季節に雪だなんて。
思わず視線を上げれば、七分咲きの桜の向こうには、鈍色の空が広がっている。もし、この季節を・・・。

その時、庭の垣根越しに聴き慣れない声が響く。

「ごめんください」

わたしは浮かびかけた光景をかき消すように、頭を軽く振ってから立ち上がった。

履物を足にひっかけ、庭先に出ると一人の青年が佇んでいた。
青年は隙のない洋装に包んだ身体をぴしりと伸ばし、敬礼をした。

「申し訳ありません、玄関からお声をかけさせていただいたのですが、お出にならなかったので」
「す、すみません、ボーっとしちゃってて・・・あの、どちらさまでしょう?」

青年は、そんなわたしをじいっと見ると、

「私のことを、憶えておられますか」
「え?」

わたしは見上げた。
確かに風貌は多少変わっていたけど、その面差しは眠っていた記憶を呼び醒ました。






『過ぎた日々を、』





「高杉さんはあの時、ご存知だったんですね」

・・・労咳の、ことを。
その青年はお茶を手に取りながら、呟いた。

葬儀から半年以上経ち、最近ではめっきり人が訪れることもなくなったこの家を訪ねてきたのは、長州出身の青年だった。
本当はもっと早くお伺いしようと思っていたのですが、と丁重にお悔やみの言葉を述べる彼を、わたしはどこかボンヤリと眺めていた。

「お恥ずかしい限りです」

その青年は俯きながらそう言った。

「あの時の私は、桂さんや高杉さんの言葉の重みを分かっていなかった。高杉さんがどのような心境でおられたかも」

きっと、本当のところは誰も分からない。
晋作さんがどんな気持ちで、日々を過ごし言葉を紡いでいたか。
桂さんが、どんなふうにその背中を見守っていたか。

私も、奇兵隊の一員だった彼も、大して変わりはない。


その青年とわたしの間には、京都の長州藩邸に居た頃、ひとかたならぬ縁があった。

晋作さんが冗談半分で奇兵隊の訓練に、わたしを付き合わせた時のこと。
桂さんを責めたその青年の言葉に腹を立てたわたしは、その青年と「ある勝負」をすることになったのだった。

その時の光景を思い出し、わたしはそっと目を閉じた。

「ふふ、滅茶苦茶でしたね、あの頃」
「ですが、楽しかった」
「・・・今は、何をされてるんですか?」

わたしの問いかけに、一拍置いた後、青年は答えた。

「木戸さん、いえ、桂さんの下に、置いて貰っています」
「ああ・・・」

わたしは、すぐには言葉を続けられなかった。

「それで、その、桂さんは、今日のことは・・・?」
「ご存知ありませんよ。黙って休暇をいただきました」
「そうですか」

少しホッとしたのも束の間、問いかけられる。

「どうかされたのですか」
「え」
「桂さんはずっと、あなたのことを気にしておられます。けれど、決してここを訪ねようとはしません」

桂さんが気にしてくれてることは、知ってる。
今のわたしが何一つ不自由せず、暮らしていられるのは桂さんのおかげだ。
だけど。

「さあ、たまたまだと思います。忙しいでしょうし」

わたしは、嘘をついた。




・・・あれは、庭の紅葉が色鮮やかだった季節。

その頃の桂さんは、忙しさをおくびにも出さず、何週間に一度かは必ず私に会いに来てくれていた。
その日、わたしがお茶を出そうとした時、桂さんはすっと立ち上がった。

「詩乃さん」

桂さんは柔らかい笑みを浮かべ、わたしの手から、そっとお盆を取り上げた。

「座っていてください。お茶なら私が淹れますよ」
「でも、」

そう言いかけたわたしは、何気なく視線を落とし、はっと息をのんだ。

盆の上には、湯呑が三つ、並んでいた。
それはいつものように、当たり前のように。

その湯呑は、わたしと、桂さんと・・・。

無意識の行動の意味に気付いた時、体がすうっと冷たくなっていくような気がした。
わたしは、震えそうになる手を押さえながら呟いた。

「・・・桂さん、」
「はい」
「御免なさい、もう、ここへは来ないでください」

わたしの口からこぼれた言葉に、桂さんは銀の月より綺麗に微笑み、頷いた。

その日以来、わたしは桂さんと会っていない。

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