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 1.パッカの穴に落ちて



すこしせわしなくなった息を整えようと椿は足を止めた。
本当はクールダウンをするべきだが、この時期にしては暖かい風が通り抜け、
そのあまりの心地良さに椿はぼんやりと座りこんでしまった。
ざあざあと風の音だけが聞こえる静かな夜だった。
椿以外は誰もいない、その椿が黙り込んでしまえばそうなるのは当たり前で
椿はその静けさも好きだった。

「・・・・?」

いつまでそうしていたのだろうか。
ふと、風の音以外の、例えば誰かがピッチを駆けるような、そんな音がして
椿は我に返った。

急いで立ちあがり辺りを見渡す。
芝生と、ネットと、ゴールと、ボール。
それはいつも椿が見ている物だ。
今度は後ろを向こうと振り返った、その時だ。

椿の後ろを何かが通り過ぎた。

あわてて、椿が振り向く。
そして、そこにいたもののあまりのへんてこぶりに椿は目を疑った。

大きいけれど、何かを主張するぎょろっとした目。
芝生の色をすこしだけ薄くしたような肌の色。
見覚えある姿ではあるが(ただし、スタジアムであれば、だが。)

それに様子がおかしいあきらかにいつもと違っていた。
椿たちとおそろいの赤と黒のユニフォームではなく、上等のベストとジャケットを身に着けていたし、
彼のトレードマークの筈のお皿が無く、そこには、長く伸びた耳らしきものが二本存在していたのだ。

とりあえず正面から顔を見たくて、足を動かした。
彼は(パッカと呼んでいいのか、椿は迷ったのだ。)ジャケットのポケットに手を入れると
中から丸い何かを取り出してボタンを押し、見えた針の場所に渋い顔をした。
さっきからピクリとも表情を変えてはいないのだけど、何故だか椿にはそう見えたのだ。

今の時計だよな、待ち合わせでもしてるのだろうか、遅刻でもしたのだろうか?

椿がそんな事を考えてるうちにパッカのようなものは、どんどんどこかに向かって歩き始めてしまう。
なんとなく椿も気になって足を動かし、ついていった。
そうしてもうすぐグラウンドを出ようという所で突然、彼は消えてしまった。

「えええっ!?」

椿がさけぶ。
駆け寄ると彼の足元には人が一人、いやそれ以上でもすっぽり落ちてしまえる穴が存在していた。
そんな馬鹿な、だってさっきまで無かったのに、そんな物は!

あわてて椿が屈み、足元を覗きこんだが、ここは夜のグラウンド。
十分な明るさなんて得られず筈が無く、穴の様子なんてわからない。
底がどれくらいの深さなのかもわからなかった。
パッカはこの穴に落ちてしまったようなのだ。


「だ、大丈夫なのかな?」

椿は心配そうな顔を浮かべた。
とりあえず誰かを呼ぼう、引き上げるにしても俺一人じゃ無理だ。
そう考え、立ちあがり、そしてグラウンドの出口を見て、しゅんとした。
なぜならグラウンドの出口はこの穴の先、一ヶ所しかないからだ。



ここは、もう飛び越えるしかないのかもしれない。


勇気を振り絞って覚悟を決めると、椿は助走の為に後ろ歩きを始める。
じゅうぶんな距離を確保して、彼は颯爽と走り始めた!
穴の傍まで来ると、タ、タン。と力強く跳躍する。


そして。

「う、ああああああああああああああああああああああああああああ」



穴の中に飲み込まれてしまった。

あと十センチほど、足りなかったのだ、飛距離が。









どんどんどんどん、椿は落ちていく。

最初は驚きと恐怖で叫ぶしか無かったけれど息が苦しくなって叫ぶのを止めた。
それでもまだ、着地しそうにないようだ、なにせ見上げても、見下ろしても、
待ってたのはただの黒い闇しかない。
そのうちにだんだん思考が落ち着いてきて、ああ、これは覚えがあるぞという事に気がついた。
椿は辺り一面をぐるりと見渡す、闇に慣れた目が本棚に囲まれている事をとらえて
やっぱりなと確信した。

「これ、不思議の国のアリスそっくりだ。」

姉が持ってたから読書感想文の為に借りた事を思い出した。
アリスが変わったウサギを追いかけて、不思議な生き物に出会って、裁判に巻き込まれて・・
そんな話だった。
結局椿はその本で感想を書くのを諦めたのだ。
なぜなら、「よく分かりませんでした。」これで感想が終わってしまうからだ。

その本は子供向けに作られている筈なのだが
状況が分かりにくく、問題は何も解決されず、ただただ話ばかりが進んでいく。
その上難しい言葉も結構入ってるから、読んでるだけで眠たくなってしまうのだ。
薄いからこそ選んだのに、最後まで読むのに椿は3日かかってしまった。

「つまり、さっきのパッカ君は時計うさぎだったんだな」
これなら皿が無くなった事も、へんな格好も理解できる。
緑色のうさぎは明らかに変だったが、まあ、こんなへんてこな状況にはお似合いかもしれない。

「って事は俺は・・・アリス?」

それは、やだな。
そう考えながら椿は落ちていく。


更に時間が過ぎたがまだ床につかない。
ついつい眠たくなって、うたたねをしてしまったのだが、目が覚めてもまだ椿は落ちていた。
だが、そんな状況も終わりを迎えたらしい。
急に景色が目まぐるしく変わり、真っ暗だった視界に光が差し込む。
そのあまりの眩しさに、椿は目を閉じた。


僅かな衝撃を感じて椿が目を開けると、そこには別世界が広がっていた。
赤、白、橙、桃色。
様々な花が咲き乱れ、草木がのびのびと背を伸ばしている。
ふかふかとしたわらの上に落ちた椿は、立ち上がり、体中にくっついたわらを払い落した。
本と同じく怪我はどこもしていないらしい。

「・・・・・花畑?」

そんな場面、あっただろうかと不思議に思いながら辺りを見渡す。
何処までも続く、花と草の大群。
アリスのような女の子なら喜ぶだろう、夢と美しさで溢れるような景色だ。

「とりあえず、歩いてみるか。」

ひざ丈くらいの草花の中を目的も無く歩く。
最初は退屈だった穴の中とは違い不思議な景色を楽しめていたのだが
穏やかにただよう雲に青空に、今はどうしようもない焦りを感じる。
だって俺は星空の下にさっきまでいたのだ。
なぜか今こんな所をさまよっているが、そんな場合じゃない、明日も練習だ。
早く帰らなければ、帰らな・・帰る?

あれ?

ぴたり、と椿は足を止めた。
そう言えば、アリスはどうやって帰ったのだろうか?
はっきり覚えてない。
なんだ、そんな事だったのか。そう思ったのは確かだ。




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