イミテーション・チャイルド


Attention
・名無しの男(複数)×幼少期デフテロス の要素が含まれます
・“そういうこと”を匂わせるような描写があります
・何があっても受け入れられる方のみどうぞ



逃げる、逃げる、逃げる。
……何から? 嘲笑いながら追いかけてくる男たちの足音から。闇の深淵から伸びてくる無数の腕から。
月が厚い雲に隠れる夜のことだった。走って走って走って、足は縺れ息は上がる。立ち止まる暇などなかった。逃げなければならないのだ。少年はただひたすらに走った。夜の闇は辺りを黒一色で染め上げている。どこに向かっているのかさえ分からない。できるだけ遠くへ逃げたかった。あの優しい兄が探して来られないような遠くへ。
気がつくと少年は人気のない森の中へと入っていた。追ってくる足音は消えた。少しずつ走る速度を落とし、やがて立ち止まった。どうやらうまく撒けたらしい。荒い息を整えようと深呼吸する。

「はぁっ、はぁっ、は、」
……いったい、今回で何度目だろうか。毎夜のように繰り返されるこの逃走。数えることも止めてしまった。
優秀な人間を妬む者というのは、どのような社会集団の中でも必ず一定数は存在する。それは聖域の聖闘士候補生でも同じことだった。才能を認められず、聖闘士になる夢を絶たれた者もそうだ。彼らの嫉妬心は憎悪と変化し、暴力を振りかざすようになる。だが優秀な人間には力で適うはずもない。憎悪の矛先は、抵抗する術を持たない弱者に向けられるのだ。
そして今、少年―――デフテロスはまさに格好の標的だった。

最初のうちは発覚するのを恐れていたのか、脇腹など目に付きにくい場所を殴られた。だがデフテロスがいっこうに兄に泣きつかなかったため、暴行は更にエスカレートしていった。顔に大きな青痣ができるようになるのも遅くはなかった。
毎夜、兄が眠りについた頃になって外に呼び出されては、男たちの気が済むまで暴行を受けた。デフテロスは一切の抵抗をしない。いや、抵抗できないのだ。
もし夜の間じゅう双児宮に篭って出てこないのならば、お前の兄に全てを打ち明けると言われていた。それはデフテロスにとって最も効果のある脅迫だった。
兄に心配をかけたくないという一心だった。兄はとても眩しくて綺麗な人間だ。弟の自分がこのような仕打ちを受けていると知れば、優しい兄は心を痛めるだろう。それを止めさせようと動くだろう。そうなってしまえば聖域での立場が悪くなる。自分は「災いの星の下に生まれた者」であり、忌み嫌われて当然の存在なのだから。



やっと胸の動悸が落ち着いてきた。今夜は双児宮には戻らないほうがいいと判断した。夜の闇はまだ深い。誰にも見つからない静かな場所を探すため踵を返そうとしたその時、
「――――見つけたぞ」
嘲りを含んだぞっとするような声が、背後から響いた。声のした方を振り返る間もなく、複数の腕が闇から伸びてきてデフテロスを捕らえた。悲鳴は闇に掻き消される。細かな砂利が背中に当たる感触。デフテロスはあっというまに冷たい地面に押し倒されていた。
「あ……」
恐怖で身体が強張る。相手は3人の男だった。手と脚を押さえつけられて身動きができない。男たちは愉快そうにデフテロスを見下ろす。
「手こずらせやがって。逃げようなんて考え自体無駄なんだよ。玩具は大人しくしてろ」
は、ははは、はははははははははは。嘲笑が耳の奥で反響する。もう終わりだ。逃げられない。今夜も目覚めの悪夢が始まってしまう。いつもはただ殴る蹴るの暴行を受けるだけだった。だが今日は何かが違う。たとえようのない恐怖が全身を支配していた。

下卑た笑みを浮かべた男のひとりが、デフテロスの仮面に手をかけた。
「や、やめ……っ!」
止める声は空しかった。仮面は強引に引き剥がされ素顔が露わになる。男たちは揃って声を立てた。
「ハッ!本当に双子ってのは似るもんだな!あの『完璧』なアスプロスにそっくりだ」
「顔は同じでも兄と弟じゃ決定的に違うんだから笑える!必要とされてないのはお前だけだ……なぁ、『二番目』?」
デフテロスの顔がみるみる青ざめていく。暴力よりも何よりも、突き刺さるその視線が怖かった。
男たちの手は休むことなくデフテロスの服を引き裂いた。身を捩って逃げようとしても、手足の拘束は固く外れそうにない。デフテロスがもがく度に、無駄な抵抗を嘲笑う男たちの唇は弧を描いた。
指がデフテロスの首筋から鎖骨、そして胸をなぞっていく。爪を立てながらゆっくりと。人の体温とは思えないほど冷たい指だった。全身が粟立つ。これから何が始まるのかが理解できてしまった。

「怖いか?怖いよなぁ、そりゃあ。だが生憎と、助けてくれる奴はいない。お前は大人しく抱かれればいいんだよ。元々『いらない子供』なんだ、俺らの性欲処理に役立てるだけありがたいと思ってもらわねえと」
あははははははははははははははははははは。笑い声が闇に溶けて全身に絡みつく。
……もう、終わりだ。助けを求める声は届かない。デフテロスにとって唯一の光である兄は来てくれない。誰も、いない。
デフテロスはぎゅっと目を閉じた。
どうか叶うのならば、優しい兄がこの惨状に気付かぬよう。





腰の痛みで目が覚めた。薄く開けた目蓋の裏に僅かながら光を感じた。
なぜ自分はこんな場所にいるのだろうと顔を上げると、遠くの空が白んでいた。もうすぐ朝が来る。
ゆっくりと体を起こそうとしたら腰に鋭い痛みが走った。腰だけではなく全身が悲鳴を上げている。ようやく自分の身体に変調が起こったことに気付いた。全身が痣と傷だらけだった。それにほとんど全裸の状態だった。引き裂かれた服が周りの地面に散らばっている。
視線を腕から胸、そして下半身へと向けた瞬間、大きく目が見開かれた。

脚を伝い流れる液体。血の赤と、白濁色が混ざった、『それ』。生臭い臭いが鼻をつく。デフテロスは咄嗟に地面に両手を付いて嘔吐した。
……気持ち悪い。吐き気が止まらない。しかし胃の中は空っぽで、吐くべきものすら無かった。酸い胃液だけが唾液と共に吐き出された。
目覚めから次第にはっきりしていく頭は、昨夜の悪夢のような光景を嫌でも再生していく。声を嗄らしながら泣き叫び、来るはずの無い助けを求める自分の声。それを聞く男たちの笑い声。ぐちゃりぐちゃりと交じり合う水音。涙で滲む死界の中で、音だけが鮮明だった。



痛む身体を引きずって、デフテロスは水辺へと辿り着いた。早くこの穢れを洗い流したくてたまらなかったのだ。空っぽだった身体に醜い欲望と暗い闇がなみなみと注がれ溢れ出していた。
唇を噛み締めながら、身体の中に溜まった白濁液を掻き出す。途中で何度も気持ち悪くなって吐きかけた。嫌で嫌で仕方が無かった。殴られたり蹴られたりする身体的苦痛はもはや日常のことで慣れてはいても、この行為には言いようのない嫌悪感が伴った。うわべだけ水で流したとしても、もう元には戻らない何かがある。それでも必死で身体を洗った。

やっと全身を洗い流した時には、随分と時間が経っていた。空が明るい。
これからのことをぼんやりと考える。何もかもがどうでもよかった。生きることに何の意味も見出せない。昨夜、男に言われた「必要とされていないのはお前だけだ」という言葉が頭の中で幾度と無く反芻される。必要とされていないのなら、いっそ死んでしまえばいいのだ。そうすれば兄にも迷惑をかけずに済む。

不意に、背後からガサガサと音が聞こえた。誰かがやって来たのだろうか。しかし逃げようとも隠れようとも思えなかった。もうどうにでもなれと半ば自暴自棄になって、生気の無い目で音のした方へ視線を向ける。そこには、
「―――デフテロス!?」
自分が今一番会いたくて、けれど同時に一番会いたくない人物がいた。兄のアスプロスだった。
「朝起きたらお前が隣にいなかったから、急いで探しに来たんだ―――どうしたんだ一体、全身傷だらけじゃないか!」
アスプロスは心配を顔に張り付けてデフテロスの元へ駆け寄る。問いただそうとする兄の視線から逃れようとデフテロスは顔を背けた。……言いたくない。他でもない兄に、惨めな自分の姿を打ち明けられるわけがない。首を横に振り続けた。
アスプロスはそんなデフテロスを見かねて、痛々しい青痣ができた頬に触れようと手を伸ばす。

「―――触るなっ!」

デフテロスは反射的に兄の手を払い除けていた。明確な拒絶。
直後、デフテロスは拒絶したことを激しく後悔した。兄がひどく傷ついたような表情をしていたからだ。
……違う、違うんだ、俺は兄さんが嫌いだから拒絶したんじゃない。兄さんはとても綺麗だから、俺みたいな醜い人間に触れてはいけないんだ。
そうやって言い訳をしたいと思うのに、声が掠れて出てこなかった。拒絶の理由を説明しようとすれば、どうしても昨夜の出来事に触れなければならない。それだけは避けたかった。兄には綺麗なままでいてほしいから。アスプロスの目を見ることはできなかった。どうかそこのまま、俺のことなど見捨てて去ってくれとさえ思った。こんな惨めな姿を晒して、兄の目を汚したくない。

だが、アスプロスは去らなかった。ぎゅっと唇を噛み、デフテロスを見つめる。
手に持っていた白い大きな布をデフテロスに掛けてやると、その布ごと弟の身体を強く抱き締めた。言葉は無い。だが、抱き締めるという行為は言葉よりも雄弁に、デフテロスに対する優しさを語っていた。
アスプロスの腕の中はとても温かかった。まるで数年ぶりに人肌に触れたかのように感じる。昨夜デフテロスに触れてきた男たちの手の冷たさとは正反対の、いたわりに満ちた温かさだった。
これが、兄の優しさだ。何も言わずに抱き締めてくれることが。
デフテロスは兄の腕の中、耐え切れずただただ涙を流すだけだった。



イミテーション・チャイルド
(兄の存在こそが、この命を世界に繋ぎとめる楔)





<2009.10.18>


[ index > top > menu ]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -