中天のラケシス


少年が生まれた場所は、あたり一面に死が咲き乱れる寂れた街でした。生きている人間よりも死体のほうが多いのではないかと疑うほどです。死は彼にとって、命あるもの以上に身近な存在でした。
彼には母がひとり居ました。父は、息子が生まれるより前に母を捨てていなくなったそうです。
街には貧しい人間がひしめいていましたが、少年とその母は最下層の貧しさでした。一日一日を生き延びていられることに感謝する日が続きました。少年の母は息子を心の底から愛していました。ほんの僅かしか得られない食料も、息子の方により多く分け与えてくれました。少年は母に対して申し訳ない気持ちになって何度も遠慮しようとするのですが、空腹には逆らえず、母の分の食料を黙って受け取りました。固くなったパンをがつがつと貪る息子を、母は優しく微笑みながら慈愛の目で見つめました。母にとっては、息子が生きてくれることだけが何よりの幸せだったのです。

しかし、非力な女と幼い子供が容易に生きていけるほど、世界は甘くはありません。貧しく働き口の無い女が就ける職業は自然と限られてきます。母は自分の身体を売って生活費を稼ぎました。時には謂れの無い暴力を振るわれることもありましたが、母は唇を噛んで耐え凌ぎました。すべては愛する息子のためです。
母が花を売る間、残された少年は路地裏の濡れていない地面を選んでそこに座り込み、一睡もしないで母の帰りを待ち続けました。



そんな生活が何年も続いたある日のことです。少年はいつものように膝を抱えて宵闇の暗さと寒さに耐えていました。路地裏に吹き込む風が体温を奪います。母はまだ帰ってきません。どこからか聞こえる、ごうごうという不気味な風の音が耳の奥で反響しました。唇がかさかさに乾いています。寒さと恐怖のどちらに対して震えているのか分からなくなりました。
自分で自分の身体を包み込むようにしながら、少年は路地裏に転がる死体をじっと見つめていました。死体の目や口や鼻や耳、ありとあらゆる穴から赤黒い奇妙な液体が流れ出ています。どろどろに溶けて窪んでしまった目の穴の濁った光が少年を見ていました。鼻を突く強烈な異臭に、思わず眉を顰めてしまいます。
きっと少年もこの死体と同じように、泥にまみれて醜態を晒しながら死んでいくのでしょう。人として生まれてきた以上、遅かれ早かれ皆死ぬのです。生まれてから死ぬまでの時間の長さ、どれだけ惨めな最期を迎えるかどうかが違うだけで、死という事実は覆しようがないのです。

刻一刻と迫る死を前にして、少年は恐怖を抱きもせず、また悲しくもありませんでした。生と死の境界など、あってないようなものだったからです。死によってこの寒さから解放されるのならばそれでもいいとさえ思いました。
けれども少年は、決して自らの命を絶つことはしませんでした。このまま自分が死ねば、残された母はきっと悲しむでしょう。彼は自分の命に執着はありませんでしたが、この世で唯一母だけは愛していたからこそ、今まで生きてきたのです。

少年はひたすら母の帰りを待ち続けました。夜の闇がますます深まってきます。やがて朝になり、帰ると言っていた時間が過ぎ、昼を通り越して再び宵闇が路地裏を包み込む頃になっても、とうとう母は姿を現しませんでした。
自分の母であったあの人は死んでしまったのだ、と理解するまでにそれほど多くの時間は必要としませんでした。たぶん殺されたのでしょう。ああいう仕事に身を置く人間は、いつ死んでもおかしくないのです。客の機嫌を損ねればすぐさま銃で撃ち殺される、それが現実でした。抵抗などできません。娼婦の死など、なかったことのように扱われるはずです。遺体を見ることなく死を悟りました。
少年は心の中でだけ深く深く悲しみましたが、頭の中は冴え冴えとしていました。母への情愛と「死」はまったく次元の違う話です。生れ落ちた時から死と親しかった彼は、母の死というものを驚くほど冷静に受け止めていたのです。
母はこの世で最も少年に近い「生きた」人間でした。その母がいなくなった今、少年の隣には死が佇んでいました。



立ち上がり、地面に転がる誰かの死体に目を向けました。死体の濁った眼がじっと少年を見つめます。冷たく暗い夜の闇が、少年に決断を迫っていました。風が止み、静けさが深まります。
今の少年は、「こちら側」と「あちら側」、すなわち生と死の境目に立っていました。境界線はひどく曖昧であったはずなのに、どちらかを選んだ瞬間に全てが変わるのだという予感があります。「こちら側」に留まるか、「あちら側」に向かうか。それを選択する時が訪れたのです。
少年は星の光の下へ一歩を踏み出し、ごく自然に、何の迷いも無く「こちら側」の領域に入りました。あれほど近くに死を感じても、生きることを選んだのです。何故そうしたのか、少年自身にも分かりませんでした。なにか大きな力に引き寄せられるようにして、生きるための道が星の光に照らされました。

自分は生きながらにして死の淵に立っているのだと自覚した瞬間、不意に目の前の死体から青白い靄のようなものが立ち上ってきました。ゆらり、ゆらり、それはまるで生きているもののように少年の身体に纏わりつきます。少年は何の感慨もなく、青白い光を眺めました。これは霊魂と呼ぶものなのだろうと、なんとなく思いました。人の魂を見ることができるようになって疑問を持つことはありませんでした。どうしてだとか、どうやってだとか、そんなことは考えても意味は無いのです。見えるものは見える、少年にとってはただそれだけのことでした。

少年は身を翻し、街を去っていきました。路地裏に取り残された死体のまっくらな眼が、その後ろ姿を見送りました。
暗い闇から抜け出して微かに輝く星の光の下を進みます。何の為に生きるのかを教えてくれる者はいません。少年はたった独りです。けれど、向かうべき場所は星々が教えてくれるでしょう。



少年は、亡き母が残した美しい顔を剥ぎ取り、代わりに死の仮面をつけました。「あちら側」へ行った母を振り払って「こちら側」に留まることを選んだあの時から、この醜い仮面と共に道化として生きる以外に道は無いのです。
彼は道行く先々で多くの人間の死に立ち会い、彼等の魂を引き連れて旅を続けました。魂を抜き取る度に仮面の数は増えていきます。どの仮面にも泣き化粧が施され、本物の涙はいつしか、偽りの表情の奥深くに閉じ込められてしまいました。
やがて、旅の果て――聖域へと辿り着いた時には既に、少年は道化を完璧に演じ切ることができるようになっていました。

彼は道化の仮面をつけて死地へ向かいます。そして巨蟹宮に取り残された死の欠片たちは、泣けぬ彼の代わりに、今日も嘆きの涙を流すのです。



(生まれた瞬間からゆっくり死んでいくのさ)





2010/03/26

ラケシス:運命の三女神モイライの一柱。紡ぐ者クロト、割り当てる者ラケシス、断ち切る者アトロポス。

【BGM】Vant/より子


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