はつ恋2


双魚宮から双児宮まではかなり長い道のりだ。しかし私にとって、サガの元へ行くという目的のためならそのような距離は瑣末な問題でしかなかった。瓶詰めにした手製の茶葉が入ったケースを片手に、早足で各宮を通りすぎていく。
巨蟹宮の前を通りかかった時、煙草をふかしていたデスマスクに遭遇した。軽く目配せすると彼は右手を軽く振った。健闘を祈るとでも言いたいらしい。健闘も何もあったものではないが、まぁいい。デスマスクに言われるまでもなく、私は私の知りたいことを知るまでだ。

双児宮に人のいる気配はなかった。だが彼は必ずここにいることは確かだった。教皇の間近辺を探しても彼の姿は見当たらず、残る場所といえばここだけなのだ。おそらく気配を消すことによって、誰にも会いたくないという意思表示をしているのだろう。サガの今の気持ちを鑑みれば、そう思うのも理解できる。だが私はサガに会わなければならない。

半ば強引に双児宮の主の元を訪ねると、彼は疲れた様子で私を出迎えた。「あぁ……アフロディーテか」といつものように微笑む姿にも覇気が感じられない。サガの目は赤く腫れており、昨日のうちにかなり泣いたらしいことが目元を見ただけで分かった。
「このような昼間に訪ねてくるとは珍しい。私に何か用が?」
「……はい。今年もまた新しい茶葉が出来たので、是非ともサガに」
「それは嬉しい。お前のローズティーは格別だからな」
あっさりと部屋の中へ通されたので私は少しばかり拍子抜けした。あからさまな態度ではないにしても、私の来訪はあまり歓迎されないと思っていたからだ。……断る気力もない、か。
持ってきた茶葉をティーポットに入れて湯を注ぎ、適当な時間を見計らって慎重にティーカップへと移し替える。他でもないサガに味わってもらうのだから細心の注意を払わねばならない。独特の甘い香りを嗅いで茶葉の出来を確かめる。なかなか良く仕上がっている。これで少しでもサガの心が晴れるのならいいのだが。



サガはティーカップを鼻に近づけてその香りを吸い込むと柔らかく微笑んだ。一口飲んでまた笑みを深くする。
「いつ飲んでも素晴らしい味だ。わざわざ届けてきてくれてありがとう」
「そう言っていただけて本望です、サガ」
その言葉に嘘偽りはなかった。かつて、初めて私のローズティーを飲んだサガが、美味しいと言って微笑んでくれたあの瞬間から、私はサガのためだけに毎年茶葉の精製をしているようなものなのだ。こうして今年もまたサガが喜んでくれることが何よりの幸せだった。私も自然と微笑んでいた。
サガが一杯目を飲み干し、二杯目のティーカップが空になるまで、私はサガから目が離せなかった。優雅な仕草でカップを持つ指、伏せられた睫毛。美しい、と思った。

「――サガ」
彼の指がカップから離れた時になってようやく私は口を開けた。サガを訪ねた目的は、ローズティーを味わってもらうことだけではない。デスマスクから頼まれたもうひとつの目的、それを今果たすのだ。
「ひとつ……貴方にお聞きしたいことがあります」
呼びかけられた彼はゆっくりと首をもたげて私を見つめ、また微笑んだ。まるで私に問いかけられることを最初から知っていたかのように。
「……私とアイオロスのことだろう?」
私が頷くと、サガの表情が悲しげなものに変わる。きっとサガの目元に残る泣きはらした跡は、あの人が原因なのだろう。分かっていたはずのことだったが、実際サガの悲しい顔を見るとやりきれない気持ちになる。気まずさと痛ましさから私がいつまでたってもその先を追及できないでいると、やがてサガの方から静かに語りだした。

「……アイオロスの笑顔は、私の心を照らすと同時に影を作った。心地良いはずなのにどこか苦しい……幼い頃から感じていたその感覚を、私は“恋”と取り違えたのかもしれない。私は彼に惹かれた。いや、惹かれたと思い込んだのだ。あの時もうひとつの感覚の正体に気付いていれば、このようなことにはならなかっただろうな……」
思い出せるのはほんの僅かな記憶でしかないが、幼い私はサガとアイオロスの二人を見て、幼いながらに理解していたように思う。ああ、このひとたちは惹かれあっているんだ、と。しかしサガは、あの日の純粋な思いすらも間違いだったと決め付けたいのだろうか?
「十三年前に聖域からアイオロスを追放した時、私は安堵した。もうこれであの笑顔を見なくて済むのだと思うと、自らが犯した罪への後悔よりも先に、嬉しくて涙が溢れた」
“十三年前”。よもやサガ自身の口からその言葉が出るとは思わなかった。今まで、サガは出来る限りその話題を避けようとしていた。思い出話になるとサガの口数はめっきり減ったし、話題がそこから逸れてもしばらくは暗い顔で俯いたままでいるのが常だ。しかし今のサガは取り乱すどころかむしろ落ち着いている。目が腫れるくらい泣いた後だというのに。穏やかに語る姿に痛々しささえ覚えてしまう。

「十三年もの間、闇の人格に抗えなかったのはそのせいだ。罪の意識に怯えながらも、アイオロスが消えたことで救われていた自分がいたことを否定できない。アテナより再びの命を賜ったことで、心も生まれ変わったと思おうとしていたが……結局は何も変わらなかった。ただ忘れていただけだ。今も昔も、私はアイオロスの笑顔に怯える脆弱な人間にすぎない」
微かな違和感が私の思考の海に沈殿した。サガが、アイオロスと別れるための理由付けを必死で探しているように思えたからだ。サガが影で何を思い何を感じていたのかは分からない。しかし少なくとも私には、アイオロスに見せていたあの優しい微笑みは本物だという確信がある。かつてのサガが暗澹とした感情を抱えながら笑っていたとするならば、私が美しいと思えるはずがない。サガの語る内容が本心からだったとしても、それ以上に私は私自身の目を信じていた。

私はサガを見つめて話の続きを促したが、サガにはもうそれ以上のことを語ろうという意思はないようだった。結局この時間に聞き出せたのは、サガがいかにアイオロスの笑顔を恐れていたかということだけ。それはおそらく、サガが作り出した理由にもならない理由だった。肝心なことは聞けずじまいだ。
サガが何も言わず微笑むばかりなので、私は溜息をついてそれ以上追及することを諦めた。仕方なく三杯目のローズティーをカップに注いだ。するとサガはおもむろにソファから立ち上がり、近くの文机に置いてあった小さな封筒を持って戻ってきた。
「……それは?」
「異動願いだ」
こともなげな一言に私は瞠目した。……異動願い?教皇補佐であるサガは聖域に常駐するのが普通だ。異動とはつまり、自ら“任務”に志願するということである。何故、今になってそのようなことを。

サガは私の顔を見ずに続ける。
「一週間ほど前、私の元に届けられた書類の中に、一通の手紙が紛れていたのだ」
「手紙……ですか」
「そうだ。差出人は幼い少女だった。その少女は必死で、我ら聖闘士に助けを求めていた。自分たちの住む村では数年前からずっと、太陽の光が当たらないという現象が続いている。そのせいで種を蒔いても作物は実らず、家畜は飢え、生まれ育った村を捨てて出て行ってしまう村人も出てきている。原因究明と支援を国に求めても、小さな村の訴えは聞き入れられず、このままでは村に誰もいなくなってしまう……手紙にはそのようなことが書かれてあった。拙い文章ではあったが、一生懸命さが伝わってくる内容で……手紙を読んだだけでも、少女が自分の村を心から愛しているのが分かった。実を言うと、私はその手紙を読んで感動のあまり泣いてしまったのだ。そして助けたいと思った」
「だから異動願いを?」
「ああ。……通常、普通の郵便物は聖域に届かない。だが何かの拍子でこの手紙は聖域まで至り、ついには私の元へと届けられた。偶然か、それとも運命か……私はこれを良い機会なのではないかと捉えた。ちょうど息抜きをしたいと思っていたところでもあったしな」

サガは笑い、カップに注がれたローズティーを優雅に味わった。私が疑いの目で彼を凝視しているにも関わらず、だ。サガは私の言いたいことに気付いている。だがあえて知らない振りを続けるつもりらしい。“手紙”についての話は真実なのだろう。問題はサガの心だ。サガはアイオロスとの別離を望んでいる。それも確かに真実だったが、しかしそれ以外の“もうひとつ”の心もサガの中にはあるはずだった。しかし彼は穏やかに微笑む一方で、その心について語ることを頑なに拒んでいる。

「……貴方は何故、そうまでして自分の気持ちを隠そうとするのですか?」
私は思わずそう言ってしまっていた。ずっとサガに対して抱いていた疑問だった。
けれども彼は、少しも感情を揺らがせることなく、完璧な微笑を湛えたまま答えた。
「何も隠してなどいないよ、アフロディーテ。――私はただ、アイオロスから逃げたいだけだ」
その言葉を前にして、誰が彼を引き止めることなど出来ただろう?私は項垂れることしか出来なかった。







<2010.01.07>


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