凍蝶12/涙珠


「紫龍は今、幸せ?」

紫龍が余命短いことを告げても、春麗は取り乱したり泣いたりする素振りを見せなかった。「そう」と小さく呟いて、深く頷いただけだった。黒目がちの瞳は、湖水のように揺らめきながら紫龍の痩身を捉えていた。
言葉少なに交わされる挨拶と、取り留めの無い会話。彼女がひどく落ち着いているものだから、逆に紫龍のほうが反応に困るほどだった。

そして春麗が不意に放った言葉。幸せであるか、と。紫龍はその問いに淀みなく答えた。
「幸せだ、もちろん」
たとえ病で死ぬという結末がすぐ先の未来に迫っていても、紫龍は幸せだった。
五老峰の大瀑布に守られながら過ごした年月。兄弟たちと共に戦った日々。生き急ぎすぎたその一瞬一瞬に後悔はない。
生きるということが、これほどに苦しいと思わなかった。とてもとても苦しくて、幸せで、愛おしい。

「……それなら、よかった」
まばたきを繰り返し、病室の窓の向こう側を見た。
穏やかで美しい春。これが、紫龍や彼の仲間たちが命を賭して守り抜いた景色だった。

「わたし、ずっと勘違いしていたみたい」
春麗は紫龍の左手を両手で包み込んだ。壊れ物を扱うように優しく。
「傷ができれば痛いでしょう? 痛みを嬉しいと思う人なんていないでしょう?
だからわたしは、戦って傷つくことは、誰にとっても不幸なことだって……あなたが戦いに赴かず、何の恐れもなく平穏に暮らすことだけが幸福の条件だと思っていたの。……でも、違ったわ」

平穏の中でしか生きたことのない自分には分からなかった。
紫龍の死というものに臨み、改めて幸福の意味を自問した時になってやっと、曇天が澄み渡っていくように理解した。彼が戦いながらも優しく微笑むのは、誰かに強制されたわけではなく、春麗に心配をかけまいと無理としていたわけでもない。彼は自分自身の意志で戦い、その先にある幸福を自力で掴み取ろうとしたのだった。

「やっと分かったの」
光のない世界でも、あなたは幸せだと微笑むから。
「戦って戦って……たくさんたくさん、傷ついて。……そうやって得る幸せも、あるのね」

春麗は笑った。悲しみや嘆きは無い。涙も無い。
それらは、彼に取りすがって留まることを願うだけの過去に置いてきた。
彼を送り出す時は、いつも泣いてばかりだった。せめて最後くらい、笑顔のままで彼を見送ってあげたくて。
ただ「笑う」という行為がこんなにも難しいということを、春麗は今日初めて知った。



(どうか、上手に笑えていますように)





2009/07/05

涙珠(るいしゅ):なみだ。


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