ディアネス・ディストレス


※天界編後の捏造妄想です
※青銅たちは神に抗った罪により記憶を改変され、一般人としてばらばらに生活しているという前提があります



少年は夢の中にいた。
誰かが何かを呼ぶ夢。呼んでいるのは誰で、呼ばれているのが何かなのかも分からない。
眠りは浅く、しかし感ぜられる時間は長かった。

<……ウ……>
<リ……ウ……>


何も無い暗闇の中で唯一、聴覚だけが意味を成していた。
くらいくらい、闇の中。呼び声をただただ聞くだけの夢。

右腕が、疼いていた。





「理雨くん、大丈夫?」

名を呼ばれて、少年ははっと顔を上げた。優しい顔立ちの女性が心配そうにこちらを覗き込んでいる。彼が現在世話になっている孤児院の院長だった。
「朝起きてから顔色が悪いみたいだけど……」
「大丈夫です。少し……夢見が良くないだけで」
余計な心配をされないように笑顔を取り繕う。
院長はなおも気遣いの視線を送っていたが、少年がそれ以上のことを語ろうとしないので、諦めたように溜め息をついた。
「仕事を頑張って孤児院にお金を入れてくれるのは嬉しいけれど、もっと自分のために生きてもいいのよ?」


降りしきる雨の日、孤児院の前に捨てられていた所を拾われた赤ん坊は『理雨(りう)』と名付けられ、15年間をずっとそこで過ごしてきた。中学を卒業すると同時に就職し、住む場所と食事を提供してもらう代わりに、給料の全額を孤児院に寄付している。院長は見返りを求めて子供達の世話をしているわけではない。寄付をするのは彼自身の意志だった。

――自分の記憶に疑問を持つようになったのは、あの不可思議な夢を見てからだ。

今まで積み重ねてきたこの記憶は、何か別の大きな力によって塗り替えられてしまった、仮初めのものではないのか。自分でも気付かない本物の「記憶」が眠っているのではないのか。毎夜夢を見るごとにその問いは大きくなる。
暗闇と声しか知覚できない夢であるにもかかわらずそう思えてしまうのは、心の奥底で「記憶」を疑う自分がいるからだ。孤児として育ちながらも、院長や周りの人々の温かさに触れてきた年月を疑いたくはなかった。けれどもあの夢は、自分から何かを引きずり出そうとしているように思えてならない。

怖かった。何もかも見透かされて、いつか魂ごと内側からすべて暴かれてしまいそうだった。
自分にはそれが恐ろしかった。壊れてしまわぬよう、厳重に張り巡らされた糸が解かれていく感覚が。
怖い、怖い。このまま何も問わないでほしい。
右腕が疼いて仕方ないのだ。この痛みの正体を知ったが最後、もうこの場所には戻れないような気がして。

「…………どうして、あんな夢で」
少年は首を振った。今日も早くから仕事に出なければならないのに、たかが夢で思い悩んでいては駄目だ。
夢の違和感を断ち切るように、少年は歩みを速めた。




<…………シ…………>

まただ。またあの夢。
暗闇の中から響く、「誰か」が「何か」を呼ぶ「声」。日に日にその声は大きく鮮明になっていく。

<…………リ…………>

ぐにゃり、と闇が揺らいだ。
黒だけだった空間がゆらゆらと溶けてゆき、おぼろげな闇の塊が次第に何らかの形を成していくのが分かる。
(……怖い)
少年は得体の知れない恐怖を感じた。闇の中から生まれるそれから逃れようと思っても、身体が動かない。

<…………ウ>

ずるり。陰が這い出てきて少年の方へと迫ってきた。
(……嫌だ)
避けようとしたら逆に右腕を強く掴まれた。刹那、鋭い痛みが右腕に走る。刃で傷付けられたように激しく痛んだ。痛みと共に頭の中で火花が弾けた。突如としてフラッシュバックする。


切り裂かれた大地。
黄金色に光る鎧。
射抜くような強い瞳。
星になって消える命。
――託されたもの。



それらはまるで見に覚えのない光景だった。いや、正しく言うならば「記録」に無い「記憶」だった。「知らないはず」だけれども、「知っているはず」なのだ。
あの光景を自分は確かに見た。だが覚えていない。あんな場所に行ったことはない。だが確信している、あそこはギリシャであると。
何故……何故。相反する事象同士が互いにぶつかり合っていた。矛盾、逆説。記録と記憶。どちらを信じればいい? どちらが本物なのだ?混乱する思考。右腕の痛みは激しさを増す。

暗闇から伸びた手が更に強く掴もうとしてきた時、少年は咄嗟に身を引いた。
(――嫌だ!)
まるで最初から「記憶を拒絶しなければならない」と命じられていたかのような、反射的に起こった拒絶。本能に「埋め込まれた」拒絶。
振り払った影は、少年に明らかな拒絶の意志があると分かると、名残惜しそうに中空をしばらく彷徨い、しだいに周囲の闇と同化して姿を消した。


「――……っ!」
朝の覚醒は、声にならない悲鳴によってもたらされた。
「……っは、」
息を整えようとしても、高らかに鳴る心臓の鼓動音がそれを許さない。額だけでなく、背中にまで汗を掻いていた。あれは夢だったのだと自分に言い聞かせると、いくらか呼吸は落ち着いた。

今夜の夢は、今まで見てきたものとは明らかに異なっていた。昨日までは、ただ「呼ぶ」だけに過ぎなかった。それが今日、おぼろげながらも実体を伴ってこの右腕を掴んだのだ。……近づいて、きている。
右腕は未だ熱を持っていた。夢での焼け付くような痛みではなかったが、鈍い疼きが残留している。
あの声は、あの影は、一体。

「一体、何が言いたいんだ……っ!」

右腕を抱いて、少年は低く叫んだ。
悲鳴にも似た声は、ひとりきりの部屋に空しく響きだけだった。





「ねえ理雨おにーちゃん、ギリシャってどこー?」

突然出された『ギリシャ』という単語に、少年の肩が震えた。
あの夢に関するものに対して過敏になってしまっている節がある。何をそれほど恐れる必要があるのだと自分を戒めて、少年は声をかけてきた少女に返事する。
「ギリシャだって?」
「うん。いまテレビでやってるの」
孤児院の施設内にある広いリビングルームには、大きなテレビが一台置かれていた。夜になると子どもたちはそこに集まって同じ番組を視聴する。テレビを見ていて分からないことが出てくると、周囲の大人(これは年長者である彼も含まれる)に片っ端から尋ねるのだ。
この日の夜、少年はリビングの隅のソファーに腰掛けて本を読んでいた。
ちょうど孤児院の職員が事務所へと出て行ってしまっていたから、彼にその疑問の尋ね先が回ってきたのだろう。少女の指差した先のテレビに目を向けると、「古代ギリシャの神秘」と銘打たれた特別番組が放送されている最中だった。パルテノン神殿をはじめとした古代の遺跡の映像が流れていく。

「……ギリシャか」
ひとりごちて、紫龍はソファーから立ち上がった。
テーブルの上においてあった地球儀を手に取り、少女の元へ運ぶ。指先で地球儀をなぞりながらその国を捜した。
日本、中国、アジアを抜けて、トルコ、エーゲ海、……そしてギリシャ。

「日本からはすごく遠いんだねぇ」
「ああ。飛行機で何時間もかかる場所だ。でもそれだけの時間をかけるだけの価値はある」
「そうなの?」
「もちろん」

潮の香りを運ぶ海の風、満点に広がる星空の煌き。どことなく濁っている日本の空とは違う、遥か神話の次代から見上げられてきた星空が、そこにはあった。あの春の宵は、悲しくそして美しかった。

「理雨おにーちゃんは外国に行ったことあるの?」
「いや?俺は日本から出たことはない」
「……そんなに、ギリシャについて知ってるのに?」

少女の無邪気な質問に、彼は息を呑んだ。
……そうだ。何故自分は、これほどギリシャに関する「記憶」がある?
本で読んだ知識ではなかった。星空の美しさなど、実際にこの目で見なければ、鮮明に思い出せるようなものではないのだ。


ギリシャ、
アテネ、
神殿、
十二宮、
宮を守護する人間。



あぁ、やはり「知って」いる。「記憶」が「記録」を凌駕し始めているのを確かに感じていた。
右腕がまたじわりと痛む。……この、痛みは。「記憶」の中の痛みだ。魂に刻まれた痛みだ。

少年は地球儀を再び撫でた。
……次の夢では、もう迷わない。あの影が何を呼び、何を求めているのかを必ず突き止めてみせる。真実を知った先に、本物の「記憶」が繋がっているはずだから。





その夜の夢も、暗闇から始まった。少年は闇に身を委ねて「影」の出現を待ち続けていた。以前のように、身の覚えのない声と記憶に怯えるわけにはいかない。今の自分には決定的に「記憶」が足りないのだ。孤児院で育った15年間の「記録」に勝る「記憶」が。
闇が揺らめいた。黒一色で塗りつぶされた空間から、昨夜の夢と同じ影が生まれ出てくる。
うごめく闇色の影は、時間をかけてその姿を形成していく。

「あなたは」少年が問う。
「あなたは何ですか、――『誰』ですか」
誰か、と付け加えたのは、影が人の形になっていったからだった。
ゆらぁ、ゆら。揺らめき蠢く影。おぞましいそれが人であることは信じたくはなかったが、同時に疑いようもなかった。

<……シ……ウ……>

影から漏れる呻き声は、相変わらず同じ調子で一定の単語を紡いでいた。
ずるずると這い出した影が少年の腕を強く掴む。まるで、今度こそ離さないとでもいうかのように。
同時に右腕が鋭く痛んだ。影が近づくごとに激しさを増すこの痛みは何なのか。本能に植え付けられた理法が、影を拒んでいるようにも思えた。
だが引くわけにはいかない。本物の「記憶」の鍵を握っているのがこの影だというのならば。身体に走る痛みなどいくらでも耐えてみせる。

<……リ……ウ……>

人の形をした影は、掴んだ右腕から強引に少年の身体を引き寄せた。
ざわ、ざわ、ざわり。雑音が耳をなぜる。
少年は影によって抱きすくめられる姿勢になった。心地良くはない、むしろ不快に感ぜられるほどだ。更なる右腕の痛みが襲い掛かる。

<シ……リ……ウ……>

声が、すぐそばで響いた。背の高い影は屈みこむようにして、少年の耳元に近づく。

<シ……リ……ウ……>
<シ……リュ……ウ……>
<……シリュ……ウ>
<シリュウ>


鮮明になる言葉。ようやく聞き届けられた声。
夢の中で影がずっとずっと呼び続けていたのは、

<――紫龍>

名前、だった。

少年は大きく目を見開いた。紫龍、紫龍、紫龍。影はそればかりを繰り返す。ただただ、名を。
……違う、と理性が拒絶する。自分の名は「理雨」だ。「シリュウ」なんて名前じゃない。
……違う、と本能がその拒絶を否定する。「紫龍」とは確かに自分の名だ。「理雨」という名こそ偽り。
「記録」と「記憶」が少年の中で互いにせめぎあっている。
だが、「紫龍」と呼ばれた時、泣きたくなるほど嬉しかったのだ。懐かしさや愛しさが込み上げて止まらなかった。もっとその声でその名を呼んでほしいと願ったのは、何物にも代えがたい本当の想いだった。

確信する。自分は「紫龍」であることを。そして思い出す。自分を呼ぶ、この声の主の名を。

「――シュラ」

闇を塗り込められていた世界に光が差し込んだ。たったひとかけら手に入れた「記憶」の破片。「記憶」の掬い手。
「……シュラ、」
震える声で、もう一度呼んだ。呼ばれることしか知らなかった少年が、初めて誰かの名を呼んだ瞬間だった。
名を。かけがえのないひとの、名を。
「シュラ」
気付かなかった。気付けなかった。神の理法に逆らえず、「記憶」が「記録」に屈していた。

(あなたはずっと、俺を呼び続けていてくれたのに)

両腕を広げ、影をぎゅっと抱きしめた。記憶を呼び戻してくれたのは、彼だ。
いつのまにか右腕の痛みは消えていた。代わりに、心がひどく痛かった。新たに生まれたその痛みを、少年はとても愛おしく思った。
さらり、さらり。影がまた無へと還ってゆく。
「今度は俺が、あなたの元へ行きます。必ず迎えに行きます。だから、その時まで待っていてください。俺を信じていてください」
静かに語りかけると、影がほんの少しだけ微笑んだような気がした。
さら、り。影は消えた。だが、胸の痛みは確かに残っていた。


記憶に刻むべき、出会いがあった。強い意志と向き合った、戦いがあった。尊き想いを守るために、託されたものがあった。涙で滲む世界の中で見た、優しい微笑みがあった。
……忘れてはならない、痛みがあった。

(やっと、思い出せた)

取り戻した痛みに涙を流した。涙は重力に反することなく地面に落ちていった。
あぁ、なんて痛い。痛くて痛くてたまらない。
これが痛みだ。身体に刻まれた傷よりもずっとずっと重く深い、心の痛みだ。

この鋭い痛みが無ければ、生きていけないのだ。
この優しい痛みが自分を生かすことを、知ったのだ。
この愛おしい痛みと共に生きると、誓ったのだ。





「突然出て行ってしまう身勝手を、どうか許してください。
俺は自分がするべきことを見つけました。そのために生きていくと決めました。だから心配は要りません。
お礼というには微々たるものですが、せめてもの気持ちとして、この封筒を受け取っていただければ幸いです。孤児院の皆のことは決して忘れません。
親を知らない俺を、今まで育ててくださってありがとうございました。本当に、ありがとうございました。 理雨」

読み直して、頷いた。手にしていた手紙を封筒の中に入れ、机の上に置く。封筒には、今まで働いて貯めた給料の残りのほぼ全額が入っていた。
紫龍が持っているのは、ギリシャ行きの航空券片道分の金銭だけだ。それ以外は何一ついらなかった。
早朝、必要最低限の荷物だけを持って、住み慣れた部屋を後にする。まだ眠っているであろう子供たちを起こさないように気配を殺して階段を下りていった。
建物を出て、外の世界へ続く門を通り抜けようとしたところで足が止まる。15年間を過ごしてきた孤児院。ここで育ったという事実は「記憶」に上書きされた「記録」でしかなかったが、今の少年にとってかけがえの無いものであることは確かだった。

けれど、もう戻らないと決めたのだ。曖昧な命を生き永らえていた日々と決別するために。一度絶たれてしまった絆を、再び繋ぐために。
歩みを止めていた足を再び動かした。迷いのない瞳が、彼を前へと進ませる。
幾度となく繰り返した夢と現の狭間で、自分の居場所をやっと取り戻せたから。
向かうのは、彼がいる場所。帰るべき場所。

――聖域へ。


(あなたの手を、今度はもう離さない)





2009/07/26

distress:苦痛、苦悩


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