カタストロフィーはまだ早い


昨日起こった出来事が嘘のように、空は綺麗に澄み渡っていた。明るい日差しが目を刺す。柔らかな鳥のさえずりは平和そのものだった。
自分だけがこの世界に馴染んでいない。
光も影もないはずだというのなら、今の自分は影以外の何だというのだろう?

デフテロスは空っぽになった双児宮の部屋の中で立ち尽くしていた。
二人で使った揃いの食器、兄から貰った分厚い本、会えない日が続いた時、密かに書き綴った手紙――兄に纏わるものはすべて捨てた。自らの手で燃やした。
思い出の分だけ炎は大きくなりデフテロスの目を焼いた。兄がここにいたという痕跡を葬ろうとするたびに指先は震え、炎の中に投じることを拒んだ。
いやだ、消すな、消さないでくれ、せめてただ一つだけでも残してくれ……兄を慕う心が、記憶の抹消に恐怖する。デフテロスは敢えてその悲鳴が聞こえない振りをした。

最後の品が燃え尽きて灰となるまで、燃え盛る炎から目を逸らそうとはしなかった。火が消え、天から降る雨が灰を押し流していってもその場所に留まっていた。
……これは儀式なのだ。記憶の亡骸を葬るための。
とうとう儀式の始まりから終わりまで、デフテロスはただの一度も涙を流さなかった。

あの時の炎が脳裏をよぎり、深く息をついた。まだ心の片隅で名残惜しく思ってしまう。未練がましいと分かっていても、かつて二人が過ごした双児宮を見ると胸がきりきりと痛んだ。ここから早く離れたいと思う一方で、いつまでも留まっていたいと願う気持ちもあった。あれほど、過去の記憶と決別することを誓ったというのに。

一切の家具が取り払われて広く甦った部屋を見回した。二人きりの閉じられた世界にいた頃は、この部屋がデフテロスの中心だった。光が差し込まない薄暗さの中で、兄と自分は身を寄せ合っていた。その部屋は今、驚くほど明るく、そして空虚だった。部屋の主が一人欠けたというだけで。
デフテロスは耐え切れず唇を噛み締めた。……もう行こう。ここにいては何も始まらない。
未だ胸の中に残留する痛みを抱え、デフテロスは双児宮を後にした。





別れを告げるべき人間はあまり多くない。もとより隔離されて育ったのだ。デフテロスは数少ない友人の一人と会うべく人馬宮を訪れた。
「……デフテロス!?」
シジフォスは驚きと共にデフテロスを出迎えた。仮面を外した素顔、右手に持つ双子座の聖衣が入ったパンドラボックス、そして何よりデフテロスの疲れきった目――シジフォスは瞬時にそれらへと視線を走らせ、すべてを悟ってしまった。自分がデフテロスと会わずにいた期間に何が起こったのか、そして彼がこれから何をしようとしているのかも。
「……デフテロス……」
再び名を呼ぶ声には嘆きが入り混じっていた。
デフテロスはひどく頼りなげにシジフォスを見るだけだった。別れを告げるとはいっても、実際にどんな表情で何を言えばいいのか分からない。
両者はしばらく見詰め合っていたが、先にシジフォスの方から視線を逸らした。ぎゅっと目を閉じ、溢れ出そうとする感情を押さえ込む。そうしてやっと、「……すまない」と搾り出すように言った。

「何もしてやれなくて、すまない」
「……どうしてお前が謝るんだ」
「すまない」
「なあ」
「すまない」
「シジフォス、」
「……すまない」
「………………」

デフテロスは顔を歪めた。この優しい男は、自身に何一つ落ち度がないのに謝り倒す気なのだ。他者の悲しみを自分のことのように感じ、当人以上に嘆く。シジフォスはそういう人間だった。あまりに優しすぎる。
自分のために嘆いてくれていることに対して、嬉しいよりも先に申し訳なく思った。これは自分と兄だけの問題で、シジフォスが謝るべきことなど一つもないのだ。そう言おうとしても言葉にできなかった。



数十分後、デフテロスとシジフォスは人馬宮脇の階段に並んで腰掛けていた。頬を撫でる風は恨めしいくらいに穏やかだ。
「……これから、どうするんだ?」
「カノン島に行こうと思う」
デフテロスは遥か遠く、海の向こうに目をやった。聖域に留まることはできなかった。ここは良くも悪くも思い出が多すぎる。嫌でも過去と向き合わなければならない。この場所を出て行くということはデフテロスにとって逃避以外の何物でもなかった。自我を強くするという大義名分の下、人々の視線や重圧から逃げるのだ。
おそらくシジフォスはそのことも全部分かっていたのだろうが、何も問い詰めてこなかった。デフテロスが自分自身で選んだ道こそが最善であると思おうとしたからだった。ただ悲しげに「……また、独りになるんだな」と言った。
デフテロスにはシジフォスの言葉が理解できなかった。兄が死んだことで、二人が一人になっただけの話だ。なぜ今更孤独になることを悲しむ必要があるのだろう。デフテロスは常に孤独を選択させられてきた。孤独にはもう慣れている――はずだった。

自分の掌に目を落とした。傷だらけの無骨な手。
この手が兄の命を奪った。返り血をいくら洗い流しても、兄の小宇宙がいつまでも絡みついてくるように思えた。胸を抉り心臓を貫いた感覚はいまだ鮮明に焼きついている。生温かい赤色の血、急速に熱を失っていく身体。あれが死だ。あれが命を奪うということだ。
……忘れない、忘れられるわけがない。
痛みをいつまでも刻み付けるように、掌をきつく握り締めた。

デフテロスは立ち上がった。もう行くのか、というシジフォスの問いに頷くことで答える。
「今まで色々と世話になった。礼を言う」
二人はもう一度向き直った。同じ高さにある視線が交じり合う。シジフォスがデフテロスの素顔を見るのは今日が初めてだったが、いっそ仮面をつけたままの方が良いと思った。仮面は悲しみの感情もうまく覆い隠してくれていた。その覆いがなくなった今、デフテロスの悲しみに真正面から向き合うことはとても苦しかった。言葉が出ない。
デフテロスが背を向け、シジフォスの前から去ろうとする時にも、シジフォスは彼の手に触れて引き止めることすらできなかった。





「行くのかね」
処女宮の主は開口一番そう尋ねてきたので、「おまえは何も変わらないな、アスミタ」と少しだけ苦笑する。
「私が動揺して何かが変わるとでも?」
「いや」
昨日あんなことがあった後でもいつもどおり接してくれるアスミタの態度に少し安堵した。双児宮以外で「居場所」と呼べるような場所はここだけだった。シジフォスは確かに優しい男だが、その輝きが眩しすぎて居心地が悪い。今のデフテロスにとって必要なのは同情などではなく、ただそこにいることを許してくれる人間だった。
デフテロスは沈黙した。これから自分がどんな道を歩もうとするのかについて語ることは無意味であるように思われた。デフテロスの心を覗いたアスミタは、きっと何もかも分かっているのだろう。

「デフテロスよ。私はひとつ予言をしよう。……君はそう遠くは無い未来、必ず君の兄ともう一度相対することになる」
「……ああ」
死の間際、兄が発したあの呪いのような言葉を忘れたわけではなかった。自分と兄は再び殺し合うだろう。それも、片方は聖闘士、もう片方は冥闘士として。予感ではなく確信だ。

「聖戦が本格的に始動すれば、君も私も無事では済まない。それ故今のうちに言っておく。――死に場所を、誤るな」

死に場所。アスミタの口からそのような単語が出るとは思わず瞠目した。……考えないわけではなかった。デフテロスが死を想う時、「その場所」には必ず兄の姿があった。
「……分かっているさ」
手を握り締める。分かっている、分かっているとも。
脳裏に浮かぶ優しい兄の面影を打ち消した。今までずっと見つめ続けてきたあの背中はもう失われてしまったのだ。向き合うべきは過去ではない。未来の中に待ち受ける運命こそが見据えるべき対象だった。だが、実際にそのような場面になった時に自分は何をするべきなのかを思い描くことは困難だった。薄く霧がかかったようにイメージがはっきりしない。口ではいくらでも見栄を張れても、本当はまだ覚悟が出来ていないということだった。

「その覚悟を決めるために、君はカノン島へ行くのだろう?」

はっとデフテロスは顔を上げた。視線の先のアスミタは涼しげな顔をしている。「人の心を読むな」と苦々しく言えば、「おや、心外だな。わざわざ心を読まずとも、君の考えていることくらい容易に想像がつく」とさも当たり前のように返されてデフテロスは押し黙るしかなかった。
まったくこの男には敵わない。魔拳を解除する時だってそうだ。人の心の中に土足でずかずかと入り込んできて強引すぎるほどに呪縛をねじ伏せた。結果的にはそれが功を奏したものの、あのようなことを何度もやられたのでは精神的にもたない。デフテロスは嫌な記憶を思い出して渋面を浮かべた。
「そう不機嫌になるなデフテロス。これくらいのことで気を荒立たせていては、自我を鍛えるどころの話ではないぞ」
アスミタの物言いはいちいち鼻につくが、言い分はもっともだ。小さく溜息をついて、デフテロスは肩の力を抜いた。

兄と再び対面するのがいつになるのかは分からない。だが「その時」が来るまで自分自身と戦い続けると固く胸に誓った。デフテロスの中であの時の炎がゆらゆらと音もなく揺らめいている。
今の自分に、過去の記憶をすべて葬ることができるほどの強さは無い。未だ兄を慕うこの心を切り捨てる潔さも、無い。片割れを殺した瞬間から、「完全」となる道は捨てた。だが「不完全」なままでもせめて、迷いの無い自分で在りたいと思う。
……そうだ。そのために俺は、「あの場所」へ行く。

「アスミタ」
瞬きを数度繰り返し、アスミタへ向き直る。そして言葉を発することなしにただ深々と頭を下げることで、デフテロスは友人に最後の別れを告げるのだった。



(俺は未だ、死に損ないのまま生きていく)





2009/12/14

カタストロフィー(catastrophe):悲劇的な結末


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