はるもよう


何事もない平和な春の昼下がり、鳥のさえずりすらも入りこまない処女宮は静まり返っていた。宮内部は白檀の清浄な香りで満ちており、侵しがたい雰囲気すら醸し出している。その場に人間がふたりもいるとは思えないほどの静けさだった。
ふたりの人間――アスミタとデフテロスは、互いに一定の距離を保ったままそれぞれの作業に集中していた。アスミタはひたすら瞑想にふけり、デフテロスは兄が聖域の図書館から借りてきてくれた本を読むのに没頭中だ。かれこれ二時間ほど経っているが、ふたりの間に会話はなかった。しかしどちらも気まずい思いをしてなどいない。アスミタにとっては隣に誰がいようと、瞑想の邪魔にさえならなければ一向に意に介さずの態度だし、デフテロスはデフテロスでこの静寂が気に入っていた。

処女宮は主の変人ぶりもあってあまり人が近寄ろうとしない。教皇の間への用事などで人が通ることはあっても、あまり長居はしたくないらしくそそくさと走り去ってしまうことがほとんどだ。姿を見られると途端に嫌な顔をされる人間が多い聖域において、処女宮はデフテロスにとって格好の避難所だった。

分厚い本を残り数ページほどまで読み進めた時、デフテロスは処女宮を目指して進んでくる足音を耳に入れた。ぱたぱたぱたと聞こえてくる軽やかな足取り。デフテロスにはひとりだけ心当たりがあった。
「アスミタ、デフテロス!久しぶりね!」
そこには、予想通りの人物――幼い女神アテナだった。デフテロスは慌てて本を床に置きアテナに跪くが、アスミタは座禅を解こうともしない。まるでその来訪を見通していたかのように余裕の表情でアテナを出迎える。アテナの聖闘士としてあるまじき態度だったが、当のアテナが気に留めている様子もなかったのでデフテロスは黙っていた。

「こちらこそお久しぶりですアテナ。そのご様子から察するに、今日はデフテロスに用があると見えますが」
「そうなの。私、一度でいいからデフテロスとお散歩に行ってみたくて。でもどこにいるのか分からないから、お誘いにいけないなと思っていたんだけど……もしかしたらアスミタと一緒にいるのかもしれないって予想、当たっちゃった」
そしてデフテロスの方へ向き直り、満面の笑みで言う。
「ねえ、行きましょう、お散歩!」



――結局、アテナの「お願い」には逆らえなかった。
アスミタは処女急の脇にある沙羅双樹の園を散歩場所として提供し、自らは宮に留まることを望んだのだが、デフテロスとアテナがそれを許さなかった。デフテロスは、女神とふたりきりという特殊な状況に慣れていないためアスミタの仲介を必要とし、アテナは「三人のほうがもっと楽しいわ!」とあくまでも三人で行くことの大切さを説いた。
かくして、アテナを中心に、右にデフテロス、左にアスミタが並んで手を繋ぐという奇妙な構図が完成した。大人ふたりと子供ひとり、さながら仲の良い親子のようにも見えることにデフテロスは気付いていない。
手を繋ぎながらふたりを引き連れるアテナは大変ご機嫌だった。デフテロスは並んで歩くことに意味を見出せなかったが、アテナの楽しそうな鼻歌を聞いていると、散歩というのも良いものかもしれないと思えた。左側に目を向けると、アスミタも満更でもない様子で笑っている。つくづく奇妙な光景だった。

「あそこでちょっと休憩ね」
アテナは大きな沙羅双樹の元へ駆け寄り、勢いよく腰を下ろした。デフテロスとアスミタもそれに倣う。アテナは相変わらず笑顔を絶やさぬまま、おもむろに足元に咲く花を摘み取り始めた。
「また何を始めるのです?」とアスミタが尋ねると、「花の冠を作るの」と答える。
「デフテロスも一緒に作りましょう!」
にこ、と笑いかけられてデフテロスは驚いた。アテナの笑顔は眩しすぎる。その眩しさは、彼の兄にも通じるものがあった。

アテナに作り方を教えてもらいながら、色とりどりの野花を束ねて編み込んでいく。
「腕輪と違って作るのは難しいし時間もかかるんだけどね、その分すごく綺麗なの」
アスミタは花冠作りには参加せず、興味深げにこちらに顔を向けている。空気の揺らぎで手元の微細な動きも感じ取ることができるらしい。時々「デフテロス、君は意外と器用なのだな」などと余計な口を挟んでくる。そんな邪魔も無視して黙々と作業を進める。
アテナがうまく茎を編み込めずに苦戦していると、自分の作業を中断してアテナを手伝ってやった。「こんな短い時間でも、デフテロスはもう私より上手になっちゃったのね」と少しだけ悔しそうだ。基本的な作り方さえ覚えてしまえば、後はそれを繰り返すだけでいいのだから、デフテロスのほうが作業速度や完成度が高いのは当たり前といえば当たり前だった。
いくら摘み取っても、沙羅双樹の園に咲き乱れる花々には限りがない。名も知らぬ野花ばかりではあっても、教皇に捧げられるような豪奢な花束よりずっと好ましく思えた。



「――できた!」
アテナが歓喜の声を上げたのは、デフテロスが二つ目の花冠の仕上げに入ったところだった。
デフテロスが作ったものよりも一回り小さく華奢な花冠が、掌の上で可憐な美しさを放っている。人が作ったものは作者に似るようだ。
「これ、デフテロスにあげる!あなたが幸せになれますようにって、お祈りしながら作ったの」
花冠がデフテロスの目の前に差し出される。てっきりアテナはアテナ自身のために作っているのだとばかり考えていたデフテロスは戸惑った。まさか自分に進呈されるとは思いもしなかったのだ。受け取ろうかどうかと逡巡している間に、アテナは「そうだわ」と声を上げた。

「それとね……この花冠をあげる代わりに、今だけでいいから仮面を外して欲しいの」

再びデフテロスは驚いた。以前は問答無用で「取って」と強請ったアテナが、なぜか今回は一応ではあるが譲歩の形を取っている。
咄嗟に、隣に座るアスミタに視線を投げた。デフテロスが仮面をしなければならないのかという理由を、アスミタがアテナに教えたのではないかと疑ったからだ。アスミタは素知らぬふりをしている。……教えたんだな、お前。余計なことを。そもそもアテナは、影の存在など知るべきではないというのに。
「その、嫌なら嫌って言っても大丈夫だからね?私が、ただ素顔のあなたのほうが好きだっていうだけだから……」
もとより女神の命には従わざるを得ないのだ。しかしこの少女は、決して「命令」しようとはしない。あくまでも「お願い」なのだ。それはアテナの無意識の気遣いなのだろうが、デフテロスは何か救われた気がした。

「……誰が嫌と言えましょう。……喜んで受け取らせていただきます、アテナ」
目蓋の裏側に滲む熱いものを押しやって、デフテロスは仮面を外した。春の風が、仮面の縛めから解き放たれた彼の頬を撫ぜる。
アテナは笑顔の花をぱっと咲かせ、嬉しそうに頷いて立ち上がった。そして、跪き首を垂れるデフテロスの頭の上へ、静かに花冠を載せた。
ふたりのやり取りを静観していたアスミタは、その光景をまるで王の戴冠式のようだと思った。

「フッ、似合うではないかデフテロス。予想以上に可愛らしいぞ」
「……見えないくせに知ったような口を利くな」
「あら、私も可愛いと思ったわ!」
アテナにそう言われては反論のしようがなかった。
「ではアテナ、代わりにこれを」
デフテロスは手の中にある二つの花冠のうち、完成させてあるほうを差し出した。するとアテナは頭上に花冠を載せてもらうと、ありがとう!と再び破顔した。幼さを残すアテナには、野花の素朴な美しさが良く似合う。

アスミタはふと、デフテロスの手の中に花冠がもう一つあることに気付いた。アテナがデフテロスのための花冠を一つ作っている間に、既に二つ目を作成していたのだ。ふむ、と頷くと、アスミタはデフテロスが持っていた花冠を光速で取り上げ、自らの頭上に載せた。
「どうだ、似合うかね」
「おいこら、アスミタ……!」
「何か問題でも?君が花冠を二つ作っていたということは、当然これは私の分なのであろう?」
元々誰かにやるつもりで作っていたわけではなかったが、アスミタがさも当然のことのように言い切り、しかも妙に嬉しそうな声音であったから、まあいいかと思ってしまった。それにアテナも「これで私たち、三人お揃いね!」と笑うのだ。つくづく自分は女神に弱い。
大人ふたりと少女ひとり、三人揃って頭上に花冠を載せながら笑いあう。その状況を、デフテロスは驚くほど自然に受け入れていた。



アテナが去った後、沙羅双樹の園に取り残された大人ふたりは、何とはなしに春の風に吹かれていた。アテナがいないと途端に寂しくなってしまうものだ。
デフテロスは花冠を頭の上から下ろして、アテナお手製のそれを見つめた。祈りと優しさに満ちた小宇宙を感じる。幸せになれますように、という祈り。アテナがそうやって祈ってくれるということが、デフテロスにとって何よりの幸せだった。

「しかし……よりによって女神になつかれるとは、お前も随分と変わっているな」
「はて。私には、アテナは君のほうがお気に入りのように思えたが」
それに、とアスミタは続ける。
「――そんな『変わり者』の私に好かれる君も、相当なものだろう?」
「は」
それはどういう意味だ、と問おうとしたデフテロスの言葉は、アスミタによって遮られた。唇と唇を重ねるという行為によって。
手にしていた花冠が地面に落ちる。
目の前にアスミタの顔があった。今までになく顔が近い。金色に透ける長い睫毛の本数まで数えられるくらいだった。デフテロスはしばらくの間何が起こったのか理解できず思考停止に追い込まれた。ああ、この男は本当に綺麗な顔をしているなとか、一日中処女宮に引きこもって瞑想などしているからこんな不健康そうな肌の白さになるんだとか、とりとめのないことをぼんやりと考えた。実際は一秒か二秒、いや一瞬ほどの出来事だったのかもしれないが、デフテロスには永遠に近い時間のように思えた。
やっと我に返ったのは、ちゅ、という軽いリップ音を聞いてからだった。

目の焦点が合い、正気に戻るや否やデフテロスは瞬時に後方へ飛びのいてアスミタから離れた。たった今触れ合った唇を手で覆い隠してアスミタを凝視する。
「つまりは、こういう意味だ」
……なぜそんな楽しげに笑うんだ、お前は。
抗議の言葉を発しなければと思うのに、まるで酸素を求める魚のように口を開閉させるだけで、肝心の言葉が出てこない。顔が見る見るうちに火照っていくのがわかる。
そんなデフテロスの様子を気配で察したのか、アスミタは愉快そうに笑った。
「やはりアテナのおっしゃられた通り、君は仮面を外しているほうがいいな。仮面をつけたままだと、『こういうこと』をする時に都合が悪い」
いきなり唇を重ね合わせてきたかと思えばこの発言だ。ますます開いた口が塞がらない。アスミタは更なる追い討ちをかけるがごとく、平然と言い放った。

「それと、たった今発見したことだが……君の唇は、思いのほか柔らかい」

ぴしり。デフテロスの中で「何か」が音を立てて罅割れた。怒りであったり呆れであったり、また羞恥心であったり男としてのプライドだったり、とにかくデフテロスにとって大切な「何か」だ。それがアスミタの一言であっというまに瓦解していく。当のアスミタは何も悪びれていないだけに余計たちが悪い。
デフテロスは頭を抱えて深い深い溜息をつきながら、「名は体を表す」という言葉を噛み締めることになる。

――「アスミタ」。それは「利己主義」を意味する名だった。



(俺は、友とするべき人間を見誤ったのかもしれない……)





2009/11/03


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