はなひらく


――思えばあれが、初恋というものだったのかもしれない。

「ありがとうございました!」
シジフォスは勢いよく頭を下げて、稽古を付けてくれた先輩たちに礼をする。どんな相手でも始まりと終わりの挨拶は欠かさない。聖闘士になるためには基本の礼節はしっかりと守らなければならないのだ。先輩たちが去った後になってやっと頭を上げる。今日の稽古もかなりきつかった。身体中が擦り傷だらけだ。
どこか適当な場所で休憩を取ろうと闘技場を後にする。休むのならあまり人がいない静かなところがいい。足は自然と、聖域の外れにある森の方へ向かっていた。

(……ん?)
森の奥へと歩いていくと前方に人の気配を感じた。誰だろうと訝り、足早に歩を進める。やがて見慣れた後ろ姿を発見した。確かあれは、
「アスプロス!」
以前何度か手合わせをしたことがある相手だ。同じくらいの年齢なのに相当強かったのでよく覚えていた。どうしてこんな所にとは思ったが、顔見知りなら一言くらい挨拶をしなければ。
呼び声を聞いた相手は、びくりと大きく肩を震わせた。そして恐る恐るといったように首だけを動かしてシジフォスを見る。目が合った瞬間に、あれっ、と思った。後ろ姿はアスプロスそのものだったが、肌の色が違う。それに何より、目から下が仮面に覆われている。……アスプロスじゃない。

人違いだったことにシジフォスは慌てた。しかし相手の少年は更に驚いた行動に出る。シジフォスと目が合うや否や、脱兎のごとく駆け出したのだ。駆け出したというよりむしろ、「逃げた」といったほうが近い。相手にいきなり逃げ出されたシジフォスは更に慌ててしまう。そんなに間違われたことが嫌だったのだろうか。だがその逃げ方は必死そのものだった。そもそも、なぜ逃げる必要がある?
疑問と違和感が一緒くたになって、シジフォスは考えるよりも先に走っていた。とりあえず追いかけて捕まえないことには違和感が消え去らないような気がした。必死に全速力で逃げているようだったが、シジフォスが追いつくのはさほど難しくなかった。なぜなら、少年は脚に怪我をしていたからだ。怪我を庇いながらでは速く走れるわけがない。シジフォスはすぐに追いついて、少年の腕を掴んだ。

「つか……まえ……た!」
ぜえぜえと息を切らしながら言う。相手はひどく怯えたような目でこちらを見た。しかしそれは一瞬のことで、シジフォスの呼吸が落ち着いた頃には既に鉄壁の無表情に変わっていた。
「何の用だ」
温度の無い、すべてを拒絶するような声音にシジフォスは狼狽する。
「あ、いや……」
「わざわざ殴るために追ってきたのか?なら早く殴ればいい」
「殴るって……何を」
「俺を」
「……は?」

言葉の意味がまったく汲み取れない。どんな反応をしたらいいのか迷っていると、少年は冷たく「この手を離せ」と言い放つ。だがシジフォスはそうしなかった。手を離してしまったらきっとこの少年はまた逃げてしまう。シジフォスが意に従わないのが分かると少年は軽く舌打ちをした。
「殴りたいわけじゃないなら一体何だ」
「えーと……その、」
少年はシジフォスを容赦なく睨みつける。早く言えと催促しているようだった。

「あー……さっきはアスプロスと間違えてごめん、後ろ姿がそっくりだったから。……それに、ほら!お前、怪我してるだろう?なんか放っとけなくて。よかったら手当てさせてくれないか?」

咄嗟に出てきた言い訳ではあったが本心だった。変に思われてしまっただろうか。不安げに少年を見ると、少年は目を大きく見開いて首を傾げていた。まさかそんな返答が来るとは予想もしていなかったとでもいうように。





「なるほど双子か。それなら俺が間違えたのも仕方ない」
うんうんと頷きながら包帯を相手の脚に巻きつけていく。少年は大人しく手当てされるがままになっていた。
少年は名をデフテロスと言った。「二番目」という意味の名前に少しだけ驚いた。その名付けに何らかの悪意が見え隠れしているような気がして、先ほどの違和感がまた首をもたげる。双子の弟だからという理由だけではないように思えた。
「でも……この怪我、どうしたんだ?脚だけじゃなくて全身傷だらけだ。鍛錬中だってこんなに怪我はしないし、単なる事故でもこうはならない。これは故意につけられた傷だ。……誰にやられた?」
デフテロスは押し黙った。固く口を閉ざして答えようとしない。だがシジフォスは諦めなかった。
「お前が言いたくないならアスプロスに訊いて、」
アスプロスの名が出た途端、無言を貫き通していたデフテロスの態度が一変した。
「兄さんには言うな!」
必死の形相だった。シジフォスの腕を爪が食い込むほど強く掴んだ。怒りではなく、悲痛が混じった声。まさかそんな反応が返ってくるとは思わずシジフォスは動揺する。兄には知られたくない何かがあるというのか。

「……分かった、アスプロスには言わない」
結局、必死さに押し負けてしまった。デフテロスは安心したようにシジフォスの腕から手を離す。
「その代わりお前が話してくれ。そうじゃなきゃ俺の気が済まない」
デフテロスはぎゅっと拳を握り締めた。何かに耐える仕草だった。やがて深く息を吐き出し、頷く。そしてぽつりぽつりと話し始めた。

「聖域における双子の存在については知っているだろう」
「ああ……あまり歓迎されるようなものじゃないとか、何とか」
聖闘士としての基礎知識を学ぶ講座で、そんな話が出たような気がする。双子の片割れは災いをもたらすものの象徴だ、とも。
「俺は生まれつきこんな肌の色をしていたからよけいに不吉だと言われた。殺さない代わりに仮面をつけることを強制され、人前に姿を見せることも禁じられた。そうやって影として生きる俺は、力を持て余してる奴らにとっていい獲物らしい」
「そんな理不尽な暴力、許されるわけが……!」
デフテロスは、憤慨するシジフォスの前に手をかざして怒りを宥める。
「『影』に対してだけは許されるんだ。少なくとも奴らはそう思っているし、俺も仕方ないことだと受け入れている。今更どうこうできる問題じゃない」
「でも……!」
「いいんだ、もう」
デフテロスの声は静かだった。その瞳は深い諦めに沈んでいた。長すぎる抑圧の日々は、少年に諦観することを覚えさせたのだった。どう足掻こうとも無駄であるのは分かりきっていた。ただ心を落ち着かせ、身体を暴力に慣れさせ、苦痛の時間が過ぎ去るのを待つだけだ。

「――よくない!」

だが、シジフォスは違った。
「聖域の掟には、きっと候補生の俺なんかには分からない深い事情があるのかもしれない、でも、お前が『影』であることと暴力を受けることとは何の関係もないはずだ!……お前がそうやって諦めているなら、俺がお前を守る!」
強い瞳で決意を語る。デフテロスは呆然とシジフォスを見つめた。
「……守る?」
「そうだ。俺は候補生の中でも結構強い部類に入ってるから、俺と一緒にいればそういう奴らもお前には近づけないと思う」
「でも、『影』の俺と一緒にいたら、シジフォス、お前だって」
「いいんだ。守るって決めたんだから」

デフテロスはこれ以上は無いというくらい驚いた顔をして、それから小さく呟いた。
「……変な奴」
眩しそうに目を細める。その瞳はとても優しい光を宿していた。
(……あ、)
シジフォスは心の中で声をあげた。
(笑った)
デフテロスが、笑った。仮面をつけているせいで表情の変化に乏しいデフテロスだったが、笑ったということは分かった。あれほど警戒心をむき出しにして鋭くシジフォスを射抜いた瞳は今、柔らかに、いとおしむように、笑っている。
デフテロスが笑っていると気付いた瞬間、シジフォスの顔にさっと朱が走った。胸が締め付けられる。なぜ自分にそんな変化が起こったのか分からなくて混乱してしまう。笑ってくれたという、ただそれだけで。

シジフォスの焦りをよそに、デフテロスはゆっくりと彼の手をとった。そして両手でシジフォスの右手を包み込む。
「ああ、やっぱり。温かいな、お前の手」
しどろもどろになりながら、確かに俺は人より体温高いほうだけど、などと口走る。デフテロスの突然の行為に心の準備が追いついていない。
「体温じゃない。心だ」
「心?」
「ああ。手を握ると分かるんだ、その人の心の温度が。お前の心は……とても温かくて、優しくて、綺麗だ」
影の中を生きる者には無い、光の下に立つ者だけが持つ心。……そう、アスプロスのように。けれどもその言葉は胸の内に閉まっておいた。

シジフォスは熱に浮かされたような顔でデフテロスを見つめる。
優しいとか、頼もしいとか、そういう褒め言葉は今までにいくらでも聞いてきた。そう言ってくれた人は皆シジフォスに親切だったが、それらの言葉にはどこか空虚な感覚が付きまとった。うわべだけの意味が肌の上を滑って素通りしていくような。
しかし今、デフテロスの言葉はすっと胸の中へと入っていき、身体中に染み渡っていった。そう思えるのはきっと、言葉の主がほかでもないデフテロスだからだ。光も影も知っていて、媚びや嘘偽りの無いありのままの言葉を原色で投げかけてくれる彼だからこそ、言葉は本来の意味を持って紡がれる。

「ありがとう、デフテロス」
無意識のうちにそんな感謝の言葉が口をついて出てきた。デフテロスはちょっと意外そうに首をかしげ、それからまた目を細めて笑った。
「俺からもありがとう、シジフォス」
ふたりは笑う。蕾が花開く瞬間のような、やわらかなひとときだった。



(知ってるか?俺を綺麗だと言ってくれるお前のほうが、誰よりも何よりも綺麗だってこと)





2009/10/20


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