いのり と きせき


沙織は静かに瞳を閉じた。瞼の裏には、声もなく泣き崩れた紫龍の姿が焼きついている。覚束ない足取りで神殿を後にした彼を見送るしかできなかった。哀しみに暮れる背中に掛けられる言葉など見当たらなくて。
紫龍の心を救えるのは『彼』しかいない。しかし、肉体が滅び、魂だけの存在となった者を完全に甦らせることは不可能だった。死を掌握するハーデスですら、人間に不死を与えることができなかったように。神であっても、無力であることには変わりないのだ。

「……シュラ」
沙織は『彼』の魂に向かって呼びかける。この声が相手に届いているかは問題ではなかった。沙織の言葉は、『彼』への問い掛けであると同時に、沙織自身の決意を確認する意味もあった。
「あなたは、良いのですか。あの子がこれほどに深く嘆いているのを見ても」
あの子の本当の望みを、知らないあなたではないでしょう。右腕に魂を宿らせ、ずっと見守り続けていたあなたなら。分かるはず。理解しているはず。
あのままでは、紫龍の心が折れてしまう。どこまでも真っ直ぐに生きてきたあの子は、曲がることも歪むことも知らない。重圧に耐え切れなくなったその瞬間、辿り着くのは「折れる」という終末だけ。一度折れてしまった心は、永遠に嘆きの淵を彷徨う。

「まだ、『このまま』で良いと言うのですか」
自分の伝えたいことは、すべて伝えきってしまったから。もう未練はない。後悔もない。満足である、と。
「それはあなたの自己満足に過ぎないのではありませんか」
問う。問い続ける。『彼』の幸せが、あの子の望む未来とは異なる事実。
死んで見守り続けることと、生きて共に在ること。あの子が真に望む未来の可能性。

ずっと『他人の為』にしか生きてこなかったあの子は、今も自分自身の願いを封じ込めている。『彼』と生きていたいという願いを必死に隠しながら、ぎこちない表情で笑って。取り繕った笑顔は、ひどく痛ましいものだった。
「わたしは、あの子の笑顔を取り戻したい」
ひとときでも、ほんとうの微笑みを見せてほしいのだ。心の底から溶け出すあたたかな感情を、感じてほしいのだ。
女神が祈るべきことではないと分かっている。これは『城戸沙織』の祈りであり我侭だった。
……どうか、あの子が『自分の為』に生き、『自分の為』に何かを願うことができますように。

「――そのためなら、奇跡すら起こしましょう」

たとえ、その奇跡が刹那きりのものであったとしても。
たとえ、すべてが掻き消えた後で、今以上の焦燥と空虚があの子を襲うことになろうとも。

沙織は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。その瞳には、先程までの嘆きとは違う、強い決意の光が宿っていた。立ち上がり、遙か遠くへと散逸した意志たちを見据える。
奇跡は長く続かない……それでも。



冥王ハーデスを貫いた杖を手に
タナトスが司る『死』の事実を否定する
ヒュプノスによって眠りについた魂を呼び戻す

掻き消えし過去を『無』へ そして『無』から『有』へ 顕現させるはこの瞬間の形
失われた命 失われた肉体 失われた記憶

すべてを今 此処に
すべてに今 奇跡を




(あの子の笑顔と幸せを ただ 祈る)





2009/01/03


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