ひとみをそらさないで


※砂トキペアでデビューしてから5年経った頃の話


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目の回る忙しさとはこういうことなのだろうか。次から次へと仕事の予定で埋まっていくスケジュール帳を一瞥して、砂月は眉間の皺をいっそう深くさせた。
ドラマの劇伴、とある歌手への楽曲提供、それと平行して現在進行中の企画がいくつか。引き受ける依頼の数は厳選しているつもりだったが、それでも多い。世間に自分の仕事が認められるようになったのだと前向きに解釈するべきか否か。とはいえ、ここまで一日の時間を作曲作業に取られると流石に疲弊してしまう。

集中するために飲んでいるコーヒーはもう何杯目かも分からないし、飲み過ぎのせいで味覚が麻痺してきて苦味すら感じられなくなってきた。
そろそろ集中力にも限界が来たか――と溜息をつこうとした時、コンコン、と扉をノックする音が部屋に響く。その音は、砂月の心に安堵をもたらすには充分すぎるものだった。深く刻まれていたはずの眉間の皺が、みるみるうちに消えていく。

砂月は椅子ごと上半身を捻り、扉の向こう側にいるであろう相手へ意識を向ける。その相手が自分から扉を開けてくることを期待しながら。
そしてその期待は見事に叶えられた。藤色のエプロンが似合う、同居人兼恋人、一ノ瀬トキヤの登場によって。

「砂月、晩ご飯の準備ができましたよ」

控えめに開けられた扉からひょっこりと顔を出してトキヤはそう言った。彼の背後からは、今できたばかりであろうビーフシチューの香りがふんわりと漂ってくる。テーブルの上では今頃ほかほかの料理たちが砂月を待っているに違いない。

―ーばんごはん。そうだ、ばんごはんだ。
砂月はやっと自らの空腹を思い出した。麻痺しかけていた味覚が復活を心待ちにしている。

「まだ作業が終わっていないなら、後にしますが……」
「……いや、ジャストタイミングだ」

気遣いの言葉を遮って砂月は椅子から立ち上がる。34小節目のメロディーが決まらないだとか、あの部分でストリングスを使うのはどうだろうだとか、そういう面倒な仕事関連の考え事はすっかり消え去って、砂月の頭の中はもうビーフシチューのことでいっぱいだった。
するとトキヤは少しだけ首を傾げて、「では一緒に食べましょうか」と笑った。



四ノ宮砂月は作曲家である。音楽に関わる様々な仕事をしているが、一般の認識では「アイドル・一ノ瀬トキヤ専属の作曲家」というイメージの方が強いだろう。早乙女学園時代にトキヤとペアを組み、その力を最大限に発揮してデビューへと漕ぎ着けた。以来、砂月はトキヤのために曲を作り続け、トキヤもまた砂月の曲を歌い続けてきた。

なりふり構わず目の前のやるべきことをこなしていった結果、今では人気アイドルと作曲家のコンビとして広く知られるようになった。砂月はたまに雑誌の取材に応じるくらいで、テレビには一切出ず裏方に徹しているのだが、ファンの間では何故かトキヤとのセット扱いが鉄板らしい。トキヤの歌う曲のほとんどを砂月が手掛けているのもその一因だろう。
――流石に、二人が恋人同士の関係にあって、同じマンションで同棲しているということは知られていないようだが。

食後のコーヒーを手に、砂月はソファーに体を沈めた。一口飲んで、ほう、と息をつく。おいしいものを食べた後のコーヒーはどうしてこんなにも落ち着くのだろう。さっき作業に行き詰っていた時に飲んだ泥水のようなあれとは雲泥の差だ。トキヤが淹れるコーヒーは、砂月が自分で淹れるものよりも柔らかな舌触りだった。考えすぎて疲れた頭には、これくらいの苦味が丁度いい。

二人揃って食事ができる時、朝は砂月が、夜はトキヤがそれぞれコーヒーを淹れる。同棲生活を始める際にそんなルールを作ったのは、もう五年も前のことだ。
互いに仕事が忙しくなってからはスケジュールが合わず、一度はそのルールが消えかけたりもした。トキヤが朝起きる頃に砂月がようやく眠りにつくことも決して珍しい光景ではなかった。

だが、それでも二人は同棲をやめようとはしなかったし、コーヒーを淹れる時はいつだって二人分のマグカップを用意した。たとえ相手が家にいない時であっても。便宜上ルールという名を冠してはいたが、かといってそれが互いを縛る枷になることはなく、気付けば日常の一部に溶け込んでいた。そうして、デビュー以来ずっと使い続けているお気に入りのマグカップには、いつの間にか漂白しても落ちない染みがついた。
五年という歳月が長いのか短いのか、砂月にはよく分からない。だがこのマグカップの染みは、五年を経たからこそ今ここにあるのだ。不思議な感覚だった。

「どうしたんですか、コーヒーをじっと見つめたままで」

洗い物を終えたらしいトキヤが、砂月の隣に腰掛けた。その手にはやはりマグカップが握られている。砂月とお揃いのブランドのものだ。
返答の仕方に窮して砂月は黙っていた。トキヤは砂月の横顔を見つめる。

「……『デビューしてからもう5年も経つんだな』?」

唐突にぽつりと呟かれたトキヤの言葉に、砂月は目を見開かざるをえなかった。
「……いきなり何の話だ」
「あなたが何を考えているか当ててみようと思ったんです。その様子を見ると、正解だったようですね」
「正解じゃなかったらどうする」
「いいえ正解ですよ。だって『そういう顔』をしてますから」
「……俺がか?」
「ええ」

自信満々にトキヤがそう言うので、砂月は思わずマグカップを覗きこんでいた。果たして自分は本当に『そういう顔』をしているのだろうかと不安になったからだ。しかし、コーヒーの表面に浮かぶ砂月の顔は相変わらず眉を顰めた仏頂面で、いつもと何がどう違うのか自分自身ではまったく判別できなかった。

真剣にマグカップを覗く砂月がおかしくてたまらないのか、トキヤは堪え切れず吹き出した。くすくすと肩を震わせて笑う。あまりにも長い間笑っているので、砂月は「いい加減にしろ」と怒鳴ってやろうかという衝動に駆られた。勿論それは戯れの延長にすぎず、いずれトキヤも笑うのをやめて再びこちらに意識を向けるはずだと思ってのことだった。

しかしトキヤは一向に砂月を見ようとしない。それどころか、リビングの窓の向こう側へと視線をやって、夜の闇を見つめた。
「本当に……もう5年も経つんですね」
トキヤは薄く微笑む。5年という歳月に思いを馳せて。遠い目だった。砂月はそれを今までに何度か見たことがあった。遠い遠い、過去の記憶を辿る目。

――俺がいる前で、そんな目をするな。

不意に沸き上がってきた感情が砂月の心を波立たせた。この苛立ちには覚えがある、否、ありすぎる。五年前、砂月はこれと似たような苛立ちを毎日のように感じていた。
トキヤと――そしてもうひとり、HAYATOという名の存在に対して。

「……あの、砂月」

トキヤは思い切ったように砂月へ視線を向けた。こういう時のトキヤの目は、砂月にとって嫌な予感を思い起こさずにはいられないのだ。できることなら見なかったことにしていたい。適当に相槌を打って話を逸らすことも考えた。だが、どうせ逃げられはしないのだ。
「……なんだよ」
動揺を悟られぬようゆっくりと息を吐いた。なるべく平常心を保ち、気怠げな空気を纏いながら。
砂月が息を吐いたのとは反対に、トキヤはすうっと息を吸い込んだ。

「アニバーサリーライブの件で、少し相談が」

――やっぱりその話か。
嫌な予感はあっけなく的中した。眉間に皺が寄るのを自覚する。

五年という節目を迎えて、以前から砂月とトキヤは特別な企画を進めていた。それが、デビュー五周年を記念したアニバーサリーライブだ。ファンの投票によって決まった人気曲を中心に、一ノ瀬トキヤというアイドルの5年間を振り返る大規模なライブで、チケットは予約時点で即座に完売という盛況ぶりだった。公演日はあと数ヶ月先だが、セットリスト等は既に決まっており準備も着々と進んでいた。今更わざわざ「相談」することなど何もない。少なくとも砂月はそう思っていた。だがトキヤは違う。

「ライブの中で、HAYATOの曲を歌いたいんです」

いつかその話になるだろうと分かっていながらも、本当は一番聞きたくなかった言葉。今のトキヤが、HAYATOの曲を歌いたいと、自ら告げるということ。遠い過去に置いてきたはずの苛立ちと焦燥が胸に迫り上がってくる。

砂月にとっての「5年前」は、トキヤとの記憶が全てだった。アイドル志望と作曲家志望の二人が出会い、それぞれの価値観をぶつけ合いながらも、最後はひとつの歌によって結ばれた。
トキヤと共に臨んだ卒業オーディション、そこで勝ち得たデビュー。5年前のあの時から始まった関係が、今の二人を繋いできた。

だが、トキヤの語る「5年前」は、砂月とは全く違う意味合いを持っている。砂月にとっての「始まり」だったあの時は、トキヤにとって「終わり」でもあった。HAYATOを演じることの終わりだ。
トキヤの中で、5年という歳月の感慨は、砂月ではなくHAYATOへの想いによって成り立っていた。だからトキヤは、5年前という言葉を使う時に砂月を見ない。遠い目でHAYATOを見る。その事実が砂月を苛立たせるのだった。

お前が歌う曲を作っているのは俺だ。今お前の隣にいるのは俺だ。
……「あいつ」じゃ、ない。

棘のついたその感情に突き動かされるまま、砂月はただ一言「駄目だ」と叫んでいた。トキヤは砂月の語気の強さに一瞬怯んだが、すかさず食らいついてきた。

「何故ですか砂月。HAYATO時代も私のキャリアの一部です。それはあなたも知っているでしょう」
「知らねえな。確かにHAYATOはお前の一部かもしれないが、今回のライブは『一ノ瀬トキヤ』のためのライブだ。『お前』のためじゃない」
「ええ、分かっています、分かっているんですそんなこと! 私のファンには、HAYATOの時からずっと応援してくれている人も、そうでない人もいる。後者の人達には、HAYATOの歌は望まれていないかもしれません。……それでも私は!」
「――自分の我が侭を押し通したいっていうのか?」

トキヤの切実な訴えを遮って、砂月は鋭く切り捨てた。責めるように、突き放すように。瞬間、トキヤの顔がぐしゃりと歪む。強く引き結ばれた唇と、力を入れすぎた肩が震えていた。薄く膜の張った瞳もひどく不安定に揺れる。

……ああ、やってしまった。
砂月は自分に悪態をついた。こんなことを言いたかったわけじゃない。そんな顔を見たかったわけじゃない。そう思う心とは裏腹に、言葉は鋭さばかりを増していく。

トキヤは一度浅く息を吸った。だが次に吐き出されたのは微かな息だけで、言葉はなかった。俯いてしまったので表情は見えない。砂月と決して目を合わせないようにしながら、静かにソファーから立ち上がった。そうして、手にしていたマグカップをテーブルの上に置くと、無言でその場を立ち去った。

砂月はソファーに座ったまま微動だにしなかったが、トキヤが自室の扉を閉める音を遠くに聞いて、やっと解き放たれたように全身の力を抜いた。
「何やってんだ、俺は……」
途方もない後悔に襲われるが、もう遅い。マグカップの中に入ったコーヒーはすっかり冷たくなって、砂月にひと欠片の温かさも分け与えてはくれなかった。





「さっちゃんとこうしてお茶を飲むの、すっごく久しぶりですね〜!」
にこにこと笑う那月は心から楽しそうで、砂月は一抹の申し訳無さを抱えて苦笑するしかない。

トキヤとの言い争いがあってから6日ほど経ったが、トキヤは一向に砂月と目を合わせることはなく、一緒に食事をする時もひたすら無言を貫き通していた。同棲生活においてこの空気の悪さは最悪の状況である。

トキヤのことは一旦忘れて、とりあえず仕事を片付けようと試みたこともあったが、集中しようとすればするほど余計なことを考えてしまい作業どころではなかった。おかげでこの六日間まったく仕事が進んでいない。
どん詰まり状態だった砂月にとって、那月からの「お茶しませんか?」という誘いは救いのようにも思えた。即座に了解して那月のもとへと直行したのは言うまでもなかった。

那月がいれてくれた紅茶を一口飲むと、アールグレイの香りがふわりと鼻をかすめた。ここ最近コーヒーばかり飲んでいたから、紅茶の優しい味はどことなく新鮮だった。
今日のお茶請けは、砂月が道中で買ってきた洋菓子店のクッキーだ。様々な形と味が皿の上にひしめき合っている。砂月はそれらのクッキーには手を出さず、紅茶だけを飲みながら那月の話に耳を傾けていた。

那月と話をするのはとても気が楽だった。那月は次から次へと喋り続けてくれるので、それに相槌を打つだけでいい。束の間の沈黙すらちっとも苦に思わない。
砂月が自分のことをあまり語りたがらないのは那月もよく知っているので、必要以上の詮索もされず、砂月にとってひたすら心地よいお茶の時間が流れていく――はず、だった。

「そういえばさっちゃん、最近トキヤくんと何かあった?」

ストレートすぎるその質問に動揺して、砂月は飲みかけの紅茶を盛大に吹き出すところだった。ぎりぎりのところで抑え込むが、その代わりひどくむせてしまう。げほげほと何度も咳をしながら、砂月は自分を落ち着かせるために必死だった。

「なっ……なんでいきなり、あいつの話、が、出てくるんだ」
「昨日、雑誌の撮影で一緒になったんだよ。知らなかった?」

知らなかったも何も、トキヤとはかれこれ6日間ろくに会話をしていないので、相手の仕事の情報が入って来ようもない。砂月の反応からそれを察したのか、那月は腕を組んで困ったように唸る。

「その時のトキヤくん、なんだかとっーても元気がなくて、溜息ばかりだったから……やっぱりさっちゃんが原因だったんだね」
「ま、待て那月。『やっぱり』ってどういう意味だ、あいつ俺のこと何か言ってたのか」
「ううん、何も。だけど、トキヤくんがあんなに落ち込んだりするのは、さっちゃんが関係することだけでしょう?」

初耳である。当たり前のように同意を求められても困る。だが那月の目は決して嘘をついているようには見えない。
那月はじっと砂月を見つめてくる。砂月の次の言葉を――トキヤとの間に何があったのかが語られるのを待っているのだ。こんな透明な瞳を前にして、最後まで隠し事ができる人間などいようか。いや、いない。砂月は観念して深く息をついた。

当初は、トキヤと喧嘩してしまった経緯を掻い摘んで話すだけのつもりだった。しかし聞き手に回った那月は砂月から話を引き出すのが抜群に上手く、とうとう砂月は自分がHAYATOをどう思っているのかということまで洗いざらい話す羽目になった。

「……ただの嫉妬だ。あいつがいつまでもHAYATOを大事にしてるのが、羨ましくて仕方ない」

心の奥底にしまいこんでいたはずの本音さえ、いとも簡単に吐き出してしまう。だが不思議と、那月になら全部知られてもいいと思うのだ。

アニバーサリーライブで歌う曲のリクエスト投票は概ね予想通りの結果だった。CMソングに起用された知名度の高い曲、盛り上がりやすいアップテンポ曲、アルバムの隠れた名曲としてコアなファンからの人気があるバラード……どれも納得の行く票の集まり方となった。

そんな中、予想外だったのは順位そのものでなく、とある問い合わせの多さだ。
曰く、「HAYATOの曲は歌ってくれないんですか?」と。

本来、投票の項目にHAYATO時代の曲は含まれていなかった。事務所も名義も違うのだから当たり前だ。しかし、投票開始以降その問い合わせは毎日のように殺到していたという。五年を経た今でも、HAYATOを望む声は決して少なくなかった。

アニバーサリーライブでは一ノ瀬トキヤ名義の曲だけを歌うという方針は変わらなかったため、セットリストもそのように決まった。
だがトキヤ自身は問い合わせの多さをずっと気にしていた。どうにかしてファンの願いに応えたい、しかし今の自分はあくまで「一ノ瀬トキヤ」というアイドルだ。HAYATOであった頃に区切りをつけた以上、今更過去に縋りつくわけにはいかない……そうやって過去と現在との板挟みになって思い悩んでいたことは、トキヤの近くにいる砂月が一番よく知っている。
――だからこそ、認めたくなかった。

HAYATOを語るトキヤはいつでも遠い目をしていて、5年経った今でもHAYATOはトキヤの心の大事な場所にいるのだと思い知らされる。
もしこのままトキヤがHAYATO時代の曲を歌ったら? 砂月はHAYATOの曲には一切関わっていない。知らない誰かが作った曲をトキヤが歌うなど、砂月には耐えられなかった。だからあんなにも強い言葉で否定してしまった。

HAYATOではなく自分を見てくれと、ただそう言いたかっただけなのに、どうして上手く伝わらないのだろう。我が侭を押し通しているのは自分の方だと分かっていながら、どうしても引き下がれなかった。

まるで懺悔のように語られる砂月の胸中を、那月は黙って聞いていた。砂月は終始泣きそうな顔で途方に暮れている。那月の双子の片割れは、言葉で何かを解決すること苦手で、とてつもなく不器用で、――優しいのだ。幸せになってねと願うより他はない。

「さっちゃんは、言葉以外の方法で、トキヤくんに気持ちを伝えることができるはずだよ?」

だから、ほんの少しヒントをあげるくらいなら、きっと音楽の女神だって許してくれるだろう。那月は砂月に微笑みかけた。その先にある意図は、彼が自分自身の力で見つけ出せることができるように。
砂月はその言葉を受けて、はっとしたように顔を上げた。言葉以外に気持ちを伝える方法。砂月が思いつくのは一つしかない。

「……それで、いいのか?」

自分の辿り着いた解答を確かめるように尋ねる。すると那月は返事の代わりににっこりと笑った。それだけで十分だった。





その日のスケジュールを全てこなし、トキヤは自宅であるマンションに辿り着いていた。しかし、かれこれ一分ほど扉の前で立ち尽くしている。家の中にいるであろう同居人のことを考えると気が重いのだ。どうにかして砂月と目を合わせずに済むことはできないかと思案する。

仕事をしている間は何も余計なことを考えなくていいから楽だった。しかしこうして一日を終え、アイドルではなくただの一ノ瀬トキヤとなる時は少しばかり憂鬱である。それもこれも砂月との言い争いが原因だ。

HAYATOも自分の一部として認めてほしい、そのためにライブでHAYATOの曲を歌いたい――そんな我が侭を押し付けてしまった。受け入れられないかもしれないという覚悟はあったが、ああも全面的に否定されるとは思っていなかったので、予想以上にこたえた。立ち直りにはまだ時間が掛かりそうだ。現に、玄関の扉を前にしてなかなかノブを回せずにいる。

どうにも家に入る勇気が出ないので、もうしばらく外で時間を潰そうか……と逃げの思考すら芽生え始めたが、それは許さないとばかりに、トキヤの目の前でいきなり扉が開いた。ガチャリと音を立ててノブが上下する。

「……そこで何してんだ、お前」

内側から扉を開けた砂月が、呆れたような表情で立っていた。なぜ玄関前で立ち往生していることがバレたのだろう。よほど意識をしていない限り、部屋にいる間は外の気配など分かりそうにないはずだが。
慌てて顔を上げた拍子に思い切り目が合ってしまい、トキヤは咄嗟に俯いた。

「別に……家に入ろうとしただけです」
「だったらとっとと入れ。寒いだろ」
「え、あっ、ちょっと……!」

手首を掴まれて、トキヤは強引に家の中へと引きずり込まれた。そのまま有無を言わさずリビングのソファーに座らせられる。トキヤは抵抗する暇も与えられず、砂月の為すがままになっていた。コートは玄関の時点で既に奪い取られている。

暖房がついたリビングはとても暖かく、外から帰ったばかりのトキヤの頬は赤く染まった。砂月は普段あまり暖房を好まない人だから、トキヤが帰ってきた時に室内がこんなにも暖まっているのは珍しい。どういう風の吹き回しだろうか。不可解な行動の数々にトキヤが首を傾げていると、その間に砂月はキッチンからマグカップを2つ持ってきた。

「ん。」

と言って差し出されたマグカップを恐る恐る受け取る。カップの中には黒色のコーヒーが並々と注がれている。砂月がよく淹れているブレンドコーヒーだった。
一口飲むと独特の苦味が舌に広がるが、その後すぐにふわりとした甘みが溶け出してくる。おや、とトキヤは思った。今までに砂月の淹れるコーヒーは幾度となく飲んできたが、この甘みは初めてだ。

「砂月、これ……蜂蜜ですか?」
「ああ」

砂月の返事はそっけない。蜂蜜入りの飲み物には疲労回復の効果があるというが、これもそれを意図してのことなのだろうか。
砂月の真意は未だに読み取れないものの、節々に自分をいたわるような態度が見え隠れすることにトキヤは気付き始めていた。変によそよそしいのも、先日の喧嘩を引きずっているというよりは、慣れないことをして落ち着かないためだ。玄関の外の気配にすぐ反応したのも、乱暴にソファーへ座らせようとしたのも、リビングが暖房全開なのも、蜂蜜入りのコーヒーをすぐ準備していたのも。
――これが全て、彼なりの「おもてなし」のつもりだったら?

ぽっと出てきた推測は、案外的を得ているように思えた。砂月がさっきからトキヤの様子を横目でちらちらと伺っているのが何よりの証拠ではないだろうか。さながら、母親に叱られた子供が、自主的に家事手伝いをして機嫌を取ろうとするかのごとく。たぶん、いや絶対にそれだ。

――別に、最初から怒ってなどいないのに。
砂月の妙なよそよそしさが面白くて、トキヤは自然と笑みを零していた。

「砂月、あなたにご機嫌取りは似合いませんよ?」
そんなつもりじゃない、と慌てて首を横に振ろうとする砂月を制止して、トキヤは続ける。
「あなたに気を遣わせてしまうなんて、私も大人げなかったです。意地を張りすぎていました。……アニバーサリーライブの件も、私の我が侭ばかり押し付けてしまって、すみません」

今度はしっかりと視線を合わせた。そういえばもう6日間もろくに顔を見ていなかった。我ながら子供じみた抵抗だったと思う。嫌なことがあると目を逸らしてしまう癖は、もう終わりにしてしまおう。
砂月は隣に座るトキヤに視線を注ぎ、小さく呟いた。

「……我が侭なんかじゃない」
「え?」

目を見開くトキヤをよそに、砂月はテーブルの上に置いてあったファイルを取り上げて、中から数枚の紙を出した。すぐさまそれをトキヤに押し付ける。
「これ」
「……これ、とは」
「いいから見ろ」

返品不可とばかりにぐいぐい押し付けてくるので、トキヤは訝しみながらもその数枚を手に取った。五線譜に数多くの音符が書き込まれている。何の曲だろうと1小節目に目をやった瞬間、トキヤは雷に打たれたような衝撃を感じた。トキヤの視線は次から次へと新しい小節に移っていく。「聴き覚えがある」どころではない。決して忘れられるはずのない懐かしい音が、頭の中に響いてやまなかった。これは――この曲は。

「……七色の、コンパス……」

最後のページを手に、トキヤは呆然と呟いた。5年前、HAYATOというアイドルが心を込めて紡いだ歌。そのアコースティックアレンジが、トキヤに渡された楽譜に記されていた。紛れもない砂月自身の筆跡で。

言葉ではうまく伝わらないことを知っている砂月は、言葉の代わりに音楽の力を借りた。作曲家の自分にできることといったら曲を作ることしかなかった。
完璧に調和している原曲の音をひとつひとつ解体し、自分の音としてもう一度組み立てていく。既存曲のアレンジは、トキヤとHAYATOの間にある強固な関係に自分を割りこませる行為に似ていた。一歩間違えれば激しく拒絶されかねない。だが、この曲の中にいたトキヤとHAYATOは、優しく砂月の手を引いてくれた。

――君も一緒にこの曲を愛そう。そんなふうに語りかけられているような気がした。

そうして出来上がったのがこのアコースティックアレンジだった。奇を衒ったコードも、過剰な装飾音もない。ごくシンプルなアレンジだからこそ、編曲者の解釈が色濃く投影されている。
トキヤにはこの曲からふたつの星のイメージを受け取った。それが何を表しているかは言うまでもなかった。きらきらと輝く音たちが、ふたつの星を祝福している。

トキヤの目から、涙が一粒落ちた。そして二粒、三粒と、透明な雫が次々に溢れ出していく。砂月はぎょっとしてトキヤの顔を覗きこんだ。

「泣くなよ。そんな感極まるほどのことでもないだろ」
「だって、こんな素晴らしいアレンジ……この音はあなたにしか作れません。私のことも、――HAYATOのことも、ずっと見ていてくれたあなただから……!」
「……それなら、お前もちゃんと俺を見ろ」

両手でトキヤの顔を包み込むと、涙で潤んだ目が砂月をまっすぐにとらえた。真珠の粒ほどの大きさだった雫は、今や倍以上の大きさでぼろぼろと零れ落ちていく。始めこそ表情を動かさずに泣いていたトキヤだったが、砂月の言葉を聞くと顔をくしゃくしゃにさせた。

「あ、当たり前でしょう、誰を見ろと言うんですか!あなた以外の誰を!私の人生はあなたの目に狂わされてばかりなんですよ!今更あなたを見ないなんて選択肢があるとでも!?」

久しぶりに泣いたせいで自制がきかないのか、トキヤはわあわあと喚きながら喧嘩腰で殺し文句を連呼する。こいつ自分が言ってることの意味ちゃんと分かってるのか?と砂月は訝しむが、こんな時でないとトキヤは本心を曝け出せないのだ。どうせ後で真顔に戻って自己嫌悪に陥るように決まっている。せめてそれまでは、この腕の中で可愛い殺し文句を聞かせてもらおうではないか。

あなたじゃないと駄目なんですよお……と壮絶に「らしくない」ことを呟いて咽び泣くトキヤの背中を撫でながら、砂月はふわふわとした優越感に浸るのだった。




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2014/02/02
2020/03/10


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