セカンドフェイズ


夏の暑さはまだ厳しいが、夕方になると気温も下がり過ごしやすくなる。仕事のない日の放課後、私は図書室で読書をしていた。怒涛の課題提出期間が終わったこともあって生徒の数はまばらだ。だが私にとってはそちらの方が好都合だった。寮の部屋だと音也が無意味に騒ぐせいで集中できないし、外は夕方になると手元が暗くなり読書には向かない。がらんとした図書室はこの学園内において最も読書に適した場所だといえる。

そして、私が創り出した読書空間の扉を叩く者が一人。
楽典のテキストを何冊も抱えた少女が、彼の目の前の席に腰を下ろした。Aクラスの七海春歌だ。
「こんにちは、一ノ瀬さん」
可愛らしい微笑みが向けられるが、そんなものが私に効果があると思っているのだろうか。だとしたらとんだ自惚れだ。私は「ここは図書室ですよ」と冷たく言い放った。
「ご、ごめんなさい……」
彼女は困ったように俯き、手にしていたテキストを広げておもむろに自主勉強を始めた。これから先は当分課題も出ないというのに熱心なことだ。勤勉さに関してだけは彼女を認めざるをえない。
しかし、わざわざ私の目の前の席に座るとは嫌がらせのつもりか。今すぐにでも席を立ってこの場を離れようとも思ったが、もう少しで本が読み終わる所だったので留まった。向こうが話しかけてこないことを願った。

私たちはしばらく無言でそれぞれの作業に没頭していたが、ふと私が視線を本から離すと、目の前の七海くんと思い切り目が合った。彼女は慌てて目を逸らす。互いが同じ瞬間に顔を上げて偶然目が合うということはたまにあることだ。私は気にせず読書を再開した。
……が、しかし。どうにも視線を感じる。視線の主は言うまでもなく七海くんだろう。この場合無視すればいい話なのだが、こうも執拗に見つめられては集中できない。
「……私に何か用ですか?」
不愉快を露わに七海くんを見る。すると、彼女は取って付けたような笑顔を顔に貼り付けて両手を顔の前でぶんぶんと振った。

「えっと、その、何読んでるのかなあと思って……」
「見れば分かるでしょう。ただの本です」
「いえ、本なのは分かるんですけど、どういう本を読んでるのか気になって!それに、今なら寮にも行けるのに、どうして図書室なのかなあ、とか」
「…………」

思わず眉を顰めた。答える必要性の感じられない問いだった。だがここでまた無視しても、彼女は私が答えるまで視線を外さないのだろう。
「少し考えれば分かるでしょう。寮には音也がいるんです。ギターの音はまだしも、即興でそれに恋愛絡みの歌詞を乗せてくる。……あれを聞くと、集中しようにもできない」

きっと、私は音也を好いているのだと思う。友人としてではなく、恋愛対象として。認めたくはないがそれは事実だ。
初めは懲りもせずに話しかけてくる音也を鬱陶しく思っていたが、私はいつの間にか彼に心を開いていた。そのまっすぐな生き方に惹かれ、焦がれた。
このような感情は絶対に表へ出してはいけない。音也に想いを伝えるなど以ての外だ。音也と会話する時は私の心を決して悟らせないよういつも万全の注意を払っているし、彼がどれだけ私の心を揺さぶるような言動を取ってもできるだけ平静を取り繕っていた。

だが、音也の歌うラブソングだけはどうしても受け付けられなかった。恋愛事にはあまり興味のない私でも、音也が彼女に対して特別な感情を抱いているであろうことは分かる。そして、彼女への想いを歌にしているのだということも。音也が、私ではない誰か―――七海くんに向けて歌う歌など聞きたくなかった。だからこそ私はわざわざ寮の部屋から逃げ出して図書室に来たのだ。

「ああ、一十木くんはラブソングがとっても上手ですよね!」
七海くんが明るい顔で嬉しそうに語る。彼女は自分が音也に好意を寄せられていることに気付いてもいないのだろう。
彼女を羨ましいと思うどころか、妬ましさすら感じる私はどうかしている。私がどう足掻いたところで彼女に勝てる要素などひとつもないというのに。濁った闇が私の思考を覆う。やはりすぐにでも席を離れるべきだった。彼女の前では醜い嫉妬の感情を抑え切れる自信がない。
「……音也の書く詞には実感が篭っていますから、当然でしょう」
思わず皮肉の言葉が出てしまう。このようなことを言っても無駄だと知っていながら、私は何をしているのか。
しかし七海くんは私の皮肉にすら笑顔で返す。

「そうですね、一十木くんの歌を聴いていると、本当に一ノ瀬さんのことが大好きなんだなあっていうのが伝わってきます!」
「……は?」

思いがけない言葉に私は目を丸くした。読んでいた本を取り落とす。……音也の歌詞作りの話題で、何故私の名が出る?音也は七海くんのことを想いながら歌詞を書いているのであって、そこに私という存在は一切関与していないはずだ。
私の動揺に構わず彼女は続ける。
「一十木くんはいつも楽しそうに一ノ瀬さんのことを話してくれるんですよ!昨日は夜遅くまで一緒に勉強したとか、今日の朝はいつもより機嫌がよくて可愛かったとか……その話を聞いていると、わたしまで幸せな気持ちになれます。一ノ瀬さんに対する一十木くんのまっすぐな愛情はとても素敵です!」
目をきらきらさせて饒舌に語る彼女を、私は呆気に取られてただ見ているだけだった。私が考えていたこととまったく正反対の内容が、彼女の口から語られている。音也は私のことを考えながら詞を書いている?音也が私のことを……?

「すみませんが、音也はあなたを……好き、なのでは……?」
「えっ!?」
「えっ」
「ど、どうしてそんな結論に辿り着いちゃったんですか!?」
「どうしてと言われても……見ていれば分かるでしょう」
「それはこっちの台詞です!一十木くんの好きな人は一ノ瀬さんに決まってるじゃないですか!」
「な……」

七海くんが慌てている。そして私はそれ以上に慌てている。ここが図書室だということを忘れるくらいには。
何が起こっているのか、今の私には理解できなかった。七海くんが唇をわななかせて私に迫る。
「一十木くんが言っていました。『トキヤのことを考えると、自然にフレーズが浮かんでくるんだ』って。すごく、すごく、愛おしそうな目で!なのに、当の一ノ瀬さんはそんな勘違いをしていたなんて……わたしは悲しいです!遺憾の意です!」
凄まじい気迫だ。七海春歌とはこれほどまでに熱く何かを語れるような人物だっただろうか。
七海くんは力いっぱい私の腕を引っ掴み、あと少しで読み終えようとしていた本を置き去りにしたまま、私を図書室の外へ連行した。
「いいですか一ノ瀬さん、今すぐ寮の部屋に戻って、一十木くんの歌をよく聴いてください!それでもまだ一十木くんがわたしのことを好きだなんて見当違いの寝言を言って、彼の想いに気付かないようなら!許しませんから!絶対に!」

初めて見る彼女の鬼気迫る表情に気圧されて、私は数歩後ずさりした。七海くんは「早く行け」と言わんばかりに仁王立ちで私を睨む。本を取りに図書室へ戻れるような空気ではなかった。
既に一度逃げた私が、再び音也の歌と向き合うことなどできるのか?恋の歌を歌う音也を前にして正常でいられるとは到底思えない。しかし、それでも行くしかなかった。音也の本当の気持ちを確かめるために。
私は七海くんに背を向けて駆け出した。彼女に「ありがとう」の一言を投げかける余裕もなかった。走る、走る。目指すは寮、音也のいる部屋。決心が鈍らないうちに行かなければ。

彼女の言葉を信じてもいいのだろうか。
音也は私を想って恋の歌を歌っているのだと。私が音也を想うのと同じように、音也も私を好きでいてくれているのだと。
……自惚れても、いいのだろうか。

今はただ、その自惚れが現実であってほしいと、願う。





2011/08/19


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