死にたがりの夜と冬の月


深夜も1時を過ぎた頃、私は天井に吊り下げられた太いロープの輪を前に心を鎮めていた。
もう充分すぎるほど耐えた。このしがらみからの解放を願ってもいい頃だろう。
自殺ならどれが最も楽なのかと考え抜いた結果、私は首吊りというポピュラーな手段を選んだ。飛び降りは確かに一度身を投げてしまえばすぐに終わるが、地面に激突した瞬間の痛みを想像すると恐ろしくて堪らないのでやめた。練炭もあまりいい話は聞かないし面倒だ。ネットで探していくうちに、私はどんどん自殺の方法について詳しくなってしまった。

首吊りは人気なだけあって実践するのもそれなりに簡単だった。自殺用のロープの巻き方は完璧に再現できたし、これなら途中で下手に暴れてもうっかり解けてしまうことはないだろう。この輪に首を通し、椅子を蹴ってしまえばそれで全てが綺麗に終わる。アパートを借りている大家さんには申し訳ないが、首吊りをするとなると自分の部屋くらいしか選択肢はなかったのだから仕方ない。

開け放たれた窓から真冬の冷たい風が吹き込んできた。ロープが形作る輪の中で、青白い月が光り輝いている。
どうせなら窓は開けたままにしておこう。私が最期の瞬間に見るのはきっとこの綺麗な月なのだ。汚濁だらけの歪んだ世界で、唯一汚されずに美しさを保つ月。こんな綺麗な月を見ながら死ねるのなら悪くない。
いよいよ私は決心して椅子の上に立った。ロープは私を歓迎することも、かといって拒絶することもなく目の前に垂れている。死ぬなら早く死ねと言いそうだ。なんてビジネスライクなロープだろう。死に臨む私にはとてもありがたい態度だ。

輪に首を通す。ここで椅子を思い切りよく蹴ってしまえば終わりだ。こんな世界ともおさらばできる。やり残したことはもうない。遺書を書く程の未練もない。最期の言葉は何にしよう。誰も聞く者がいないのだから考えた所で無駄か。夜が開ければ、この部屋には物言わぬただの死体が天井からぶら下がっているだけなのだから。
私は目を閉じて、自分が死んだ後の光景を思い描いた。ああ、素晴らしい世界だ。私のいない世界はかくも美しい。
心の中でカウントダウンを始める。さあ、天国に行けるまで、3、2、1――

ピンポーン。

下世話なチャイムの音が、静まり返った部屋に鳴り響いた。今まさに死への扉を開こうとしていた私は冷水を浴びせかけられた気分になり、急激に現実世界へと引き戻された。幸福な感覚が台無しだ。
どこか別の部屋のチャイムだろうかと思ったのだが、鳴ったのは私の部屋のチャイムだ。あんな大きい音を間違えるわけがない。だが何故こんな時間に?郵便ではないだろう。友人でもない。だって今から死のうとしている人間に、夜中部屋を訪れるような友人も家族も知り合いもいるはずがないのだ。心当たりの無さに失笑する。
無駄なことを考えている間にもチャイムは何度も鳴った。相手は苛々しているのか、チャイムを押す間隔がだんだん短くなっていく。ドアの隙間から漏れ出る光で、そこにお前がいるのは分かっているんだとでも言いたげだ。無視を決め込んでも向こうは諦めてくれまい。
私は仕方なくロープを首から外して椅子を下りた。どうせ酔っぱらいか何かだろう。適当にあしらって帰ってもらうのが得策だ。死ぬのはその後でもできる。

「どちらさまですか」
ドア越しに声をかけるとチャイムが止んだ。
「開けろ」
返ってきたのは不機嫌そうな男の声だった。はて誰だろう。聞き覚えがあるような気もするが思いつかない。まさかこの時間に押しかけ強盗か。いやさすがにそれはないだろう。
仮にこのドアの向こうにいる誰かが強盗だとしたら、むしろ好都合だ。向こうがわざわざ殺しに来てくれるなら大歓迎、保険も下りるし世間は形ばかりの同情をくれる。ただ痛いのはあまり好きじゃない。死を決意した後だからか、私はもう何もかもがどうでもよくなっていた。投げやりの極みだ。この際誰がいようと驚きはしない。

鍵を開けてドアを開ける。そこには長身の男が立っていた。
「部屋の鍵どっか行ったから一晩ここで寝せろ」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼はずかずかと私の部屋に入ってきた。靴はちゃんと揃えていくのが変に几帳面というか何というか……いや、それどころの話ではない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……」
男の腕を掴んで引き止めてみたが、いとも簡単に振り払われてしまった。自分の非力さは今に始まったことではないにしろ、この男は少々強引すぎる。

よくよく観察すると、部屋に不法侵入してきたこの男は、私の部屋の隣の住人だった。確か先月新しく入居したばかり。それ以前から大家さんに「新しい子が今度来るわよ」と言われていたが、入居した後も挨拶一つなかった。隣から響く生活音で、ああそういえば新しい入居者が来たんだったと思い返す程度だった。
前に一度だけ、外出するタイミングが一緒で階段の前で鉢合わせしたことがある。この辺りの住人とは雰囲気がまるで異なる人だと驚いた覚えがあった。私でも見上げるような長身に目立つ金髪、目付きの悪い目。容姿はやたらいいが纏う雰囲気は凶暴そのもので、私はあれ以来彼とは関わり合いにならないでいようと思ったのだった。

その彼が、何故か私の部屋に上がり込んでいる。おかしな話だ。
部屋の鍵をどこかへやったというが、入居当時に渡された2つのスペアキーも紛失したのだろうか。まだ入居してからひと月しか経っていなはずだが、もしそうだとしたら彼はとんでもないおっちょこちょいか、鍵を大切に保管するという習慣が無い人物ということになる。私の推測では十中八九後者だ。

「なんだこのロープ。趣味の悪いインテリアだな」
彼は天井に吊るされた自殺用のロープを見て私を馬鹿にする。あのですねお隣さん、それは本当に自殺しようとして用意したものなんですよ。私の趣味のせいにしないでください。そんなことを言いかけたが馬鹿らしくなって結局言わずじまいだった。今から自殺しようだなんて他人に報告する方がおかしい。というか、このロープをインテリアだと誤解する方がもっとおかしい。何なのだこの人は。
鍵を失くして隣人に助けを求めようというのは分かる。だが家主の許可なしに勝手に上がりこみ、インテリア(だと彼は勘違いしているロープ)に難癖をつけるとはどういうことだ。傍若無人にも程がある。最初に顔を合わせた時の嫌な印象そのままの人物だった。

「つーか何で窓開けっ放しにしてんだ?早く閉めろよ寒いだろうが」
「はあ……」
まるでここが自分の部屋だとばかりに堂々と命令してくるので私は従わざるを得なかった。冬の風が入り込んでくる窓を渋々閉める。美しい月が曇りガラスによって遮られてしまう。さっきまでの静かな雰囲気はどこへやらだ。私がのろのろと窓を閉めている間に、彼はテーブルの上に置いてあったリモコンを掴んで勝手にエアコンの電源を入れた。このアパートではすべての部屋に同じ家電製品が設置してあるから、リモコン操作などお手の物なのだ。手にしたリモコンでピッピッピッと設定温度を上げまくっている。地球温暖化がどうこうという考えは彼の頭の中には一切ないらしい。隣人の部屋に我が物顔で押し入ってくるくらいだから当たり前か。

エアコンから暖かい風が流れこんでくると、彼は満足げに鼻を鳴らした。あ、鼻の先が赤い。この寒い夜に彼は今まで何をしていたのだろう。深夜1時を過ぎてやっと帰宅してくるようだから、ろくなことではないことは確かだが。
「あー寒い寒い」
今度は何をするつもりだと身構える間もなく、彼は私のベッドに近寄ると、布団をめくりあげてそのまま潜りこんだ。何度も言うがここは私の部屋である。そして彼が潜り込んだのは私のベッドである。本来なら私が寝る場所であるそこに、この男は何の躊躇いもなく侵入したのだ。信じられない。どういう思考回路ならばこんな非常識な行動を取れるというのか。

「あの、すみませんがそこは私のベッド、」
「つべこべうるせえ。俺は今から寝る。絶対起こすなよ。騒ぎやがったら殺す」
「え……、」

理不尽以外の何物でもない。呆然とその場に立ち尽くす私の目の前で、彼は脅しという名のおやすみ宣言をしてから数秒としないうちに穏やかな寝息を立て始めた。驚くほど寝付きがいい。よほど疲れていたのだろうか。いや問題はそこではない。
自殺へのカウントダウンをしかけてから僅か5分も経っていないというのに、この意味不明な闖入者によって状況は一変してしまった。驚きと混乱と脱力が一気に襲いかかり、私はへなへなと床に崩れ落ちた。
「な、なんなんですかいったい……」
客用の布団など用意しているはずもなく、この部屋唯一の寝床であるベッドを奪われてしまった以上、私には床で眠る以外の選択肢しか残されていない。なんてことだ。首を吊るのはよくても床で眠るのを強制されるのは許せない。屈辱的である。

突然現れた非常識男に対する怒りがふつふつと込み上げてきた所で、ふと我に返った。私はつい先程まで、首を吊って死のうとしていたのではなかったか?それが今は何だ、自分の寝床の心配をしているではないか。まるで、今夜はもうふて寝して朝を迎えることが最初から決まっているとでもいうかのように。
「は、はは、ははは……」
今の今まで当たり前のように流れていった思考を自覚して、私はとうとう笑い出した。
想定外の出来事が起こったとはいえ、結局私は本気で死のうなどとはこれっぽっちも考えていなかったのだ。死という非現実に憧れながらも、頭の中では所帯染みた日常しか思い描けていなかった。首吊り寸前でそのことに気が付くとは自分も相当馬鹿だ。馬鹿らしくて涙すら出てくる。
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回すと嫌な臭いが鼻についた。ここのところ自暴自棄になって何日も髪なんて洗っていなかったから脂ぎっている。ああ気持ち悪い。早くシャワーを浴びよう。髪を洗って、顔を洗って、体を洗って、ついでにこの身に巣食う自殺願望も洗い流してしまおう。そうしたらきっとさっぱりする。汚らしいと思っていた世界も少しは好きになれるような気がする。うん、そうしよう、それがいい。

たった数分にして私の心に革命が起こるきっかけとなった男は、相変わらず人のベッドの中ですやすやと気持ちよさそうに寝ている。憎らしいくらい穏やかだ。起きている時はあんなに不躾で傍若無人で鋭い目付きをしていたのに、眠る彼の表情はまるで幼い子供のようにあどけない。
もしかしたらこの隣人はこれから一晩ベッドを借りるだけでは済まず、更にとんでもないことを私に要求してくるのではないだろうかという予感がある。しかし私の悪い予感は大抵当たるのだ。どうせ今回も大当たりに決まっている。
だが、驚いたことに、私はその悪い予感が当たってくれることを心のどこかで期待していた。死によってもたらされる解放への期待とは真逆の、言ってみればそれは生きることへの期待だった。本当におかしな話だ。つい先程まであれほど死にたい死にたい死のうと連呼していた人間が、数分後には手のひらを返したように生きることへの希望を見出しているのだから。ほんの些細なきっかけ――私にとってそれはこの男の自殺現場乱入――が、それまでの自分の世界をひっくり返してしまう。人生、何が起こるか分かったものじゃない。だけどそれこそが人間の生きる道であり醍醐味なのだ。

私は自殺用のテーブルに手をついて立ち上がった。脚はまだふらつくがなんとか自力で歩ける。
これから私がするべきは、シャワーを浴びてさっぱりしてから自分の寝床を用意することだ。クッションやバスタオルを集めれば床で眠れないこともない。朝起きたらこの男をベッドから引き剥がして追い出すなり何なりして、それからこの「趣味の悪いインテリア」を撤去しようか。たぶんもう必要ないだろうから。

らしくもなく鼻唄などを歌いながら、私はバスルームに足を運ぶ。
シャワーの音によって目覚めた彼が「うるせえっつってんだろ」とバスルームにいた私の頭を強かに殴りつけたのは、それから十数分後のことであった。





2012/07/14


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