パティスリー・アンドロメダ 3


【6】同日 23:19 オリオン通り パティスリー・アンドロメダ前


撮影スタッフとの飲み会帰り、私は約一ヶ月ぶりにオリオン通りを歩いていた。
明日の仕事に支障が出るからと一次会終了後に抜けたはいいが、このままだと就寝は日付を越えた頃になってしまうだろう。この時期はただでさえ肌荒れしやすいというのに、貴重な睡眠時間まで削られるのは忍びなかった。
私が帰宅時にいつも使っている道は、自宅から駅まで最短距離で行けるが、夜になると真っ暗になってしまうのがネックだった。あの道に比べれば、オリオン通りはずっと明るい。
夜の商店街に人はない。等間隔に設置された電灯が淡い光を放っている。昼間の活気とは裏腹に、この時間はどの店もシャッターが閉められておりひどく静かだ。カツン、カツン、私が一歩進む度に革靴の音が響く。

しばらくしてあの店の前を通りがかった。――パティスリー・アンドロメダ。しばらく訪れていなかったが、外観はあまり変わっていない。
深夜なのだからもう誰もいないだろう、そう思って店内に目をやると、仄かな明かりが見えた。店の奥、キッチンのあたりにまだ明かりがついている。閉店作業か、それとも明日の仕込みか。こんな遅い時間まで店に残り、明日また早い時間に起きて当日の準備をするのだ。洋菓子店の仕事も楽ではない。

店の奥の明かりをぼんやりと見つめながら、私はこの店のパティシエの姿を思い描いた。四ノ宮砂月。彼は小さなケーキひとつにも妥協せず、自分の納得がいくまで味を追求する。雑誌の特集記事にはそう書いてあった。
私は、今日口にしたあのシュークリームの美味しさを忘れられずにいた。
願わくば、彼の手によって作られた洋菓子の数々を、心ゆくまで味わってみたい。カロリーなど一切気にせず、ただ自分の望むままに。
「……叶わぬ夢、ですね」
諦めと共に呟いて、私は店の前を通り過ぎようとした。その時だった。

「――おい!」

チリン、というドアベルの音、そして背後からの声。心臓が跳ねる。……まさか。私は恐る恐る振り返った。
「あ……、」
開け放たれた店の扉の前に、つい先程まで私の脳内を占領していた彼が立っていた。思わず間抜けな声が漏れる。こんな暗闇では店の前を通り掛かる人間になど気付くはずがないのに、何故私がいることに気付いたのだろう。もしかしたら空き巣にでも間違われているのか。確かに今日の私の服装は黒のコートに黒ブーツ、暗い中をこんな格好の男が歩いていたら確かに怪しく思われるかも知れない。
呼び止められたはいいがどう反応すればいいのか分からない。内心の動揺を隠しきれずうろたえる私を彼は睨む。

「……お前、あの時の」

彼の言う「あの時」とは、間違いなくアレのことを指すのだろう。私には忘れられない出来事だが、よりによって彼が覚えているとは思いもしなかった。
あれは一ヶ月も前の話だし、第一この店には毎日大量の客が来る。そんな中で、たった一度きりしか訪れていない私の顔を覚えられていることのほうが驚きだった。……あの時の印象の悪さが、記憶に残っていただけかもしれないが。
顔を覚えられていたのは逆に都合が悪かった。余計に気まずくなる。私はあの時と同じように、早くも逃げ出したい気持ちで一杯だった。

「あの、たまたまここを通り掛かっただけですので……」
失礼します、と再び背を向けようとするが、瞬時に「待て」と静止の言葉が背中に突き刺さる。私は渋々その場に留まった。
用があるなら早く済ませて欲しい。情けないことに私は逃げ腰全開だった。あの一件以来、私は彼に対して苦手意識を持っている。彼のパティシエとしての技能には惜しみない賞賛を送りたいが、できることなら関わりたくないというのが本音だった。
彼は相変わらず私を睨みつけている。その鋭い眼光に射抜かれて私は竦み上がった。偶然通り掛かっただけで何故こんな目に遭わなくてはならないのか。こんなことなら最初からオリオン通りではなくいつもの道を通っていればよかった。
後悔に身を浸らせていると、それまで何か思案していたらしい彼が声を上げた。

「あと3分そこで待ってろ」
「え……?」

思いがけない言葉に私は目を白黒させた。彼は何がしたいのだろう。3分間……カップラーメンでも作るつもりか?それとも警察に連絡?驚きの連続で麻痺した頭は意味のないことばかり考える。
「絶対に動くなよ。逃げたりしたら許さねえ。分かったか」
「は、はあ」
念押しでもしないと逃げる可能性が限りなく高いと思われているらしい。信用がないのは今更だ。
私が生返事すると、彼はもう一度確認するように私を強く睨んでから店の中へ姿を消した。
結局、私は大人しく彼の命令に従うことにした。逃げ出したいのは山々だが、逃げたら許さないなどという脅し文句を突きつけられてはその場を離れる訳にはいかない。私はどこまでも臆病だった。3分後に悪夢が待っていないことを願うばかりだ。

溜息をついて天井を見上げた。この商店街のアーケードは透明で、夜は星空がよく見える。オリオン通りという名にふさわしい設計だった。
夜の冷気も相俟って今夜は星が綺麗だ。オリオン座が一際強く輝いている。いつもここを通るのは朝か夕方ばかりで、夜は初めてだった。夜は沈黙する商店街の中で、この星空の美しさを知る人はどれだけいるのだろうか。夜遅くまで店に篭っている彼は、ずっと前から知っていたに違いない。

空に見入っている間に、3分はとうに過ぎていたらしい。
軽やかなドアベルの音と共に彼が再び姿を現した。先程からの変化といえば――右手に提げられた小さな箱。私が知る限り、それは1号サイズのケーキ箱だ。
「……持っていけ」
無愛想な表情のまま、彼は右手に持っていた箱を私に突きつけてきた。私は混乱した。
何故彼はこんなものを私に寄越す?まさか爆弾が入っているなんてことはないだろうから、中身の答えは一つしか無い。……ケーキ、またはそれに類する何かだ。間違いなく。限りなく謎なのは、夜中にただ店の前を通り掛かっただけの私を呼び止めてまでそれを渡そうとする理由だ。心当たりのようなものは一切なかった。
混乱する私を見て、彼はおもむろに口を開いた。

「これはうちの新商品、カロリーオフのフルーツタルトだ。型はバターと油を一切使わずに豆腐をベースにして作った。砂糖もできるだけ抑えて、フルーツ本来の甘みを最大限に活かしてある。他にも……、」
訊いてもいないのに次から次へと説明の言葉を並べ立てていく。彼は話の中で、いかにそのタルトが低カロリーか、そこまでカロリーを抑えるためにどれだけの工夫と苦労を重ねたかを強調した。
四ノ宮砂月といえば、仏頂面でただ黙々とケーキを作り続ける職人気質のパティシエというイメージだ。こんな饒舌に喋る姿など誰が想像できただろう。
立て板に水とばかりに滔々と語る彼を、私はただただ呆気に取られて見つめることしかできなかった。
「こいつのレシピを一から考えて、商品として仕上がるまで丸一ヶ月かかった。一応、カロリーを気にする女性客向けってことにしてるが、実際は…………まあいい」
私の反応が鈍いことにようやく気付いたのか、彼はゴホンとひとつ咳払いをした。

「とにかく、これならお前も食べれるだろう?」
「……どうして、それを」

震える声で呟く私を見て、彼は「当たり前だろう」とでも言うかのように鼻を鳴らした。
彼は、気付いていたのだ。
私が毎日のように店の前を通っていた理由。決して店内に入ろうとはせず、ただショーケースを見るだけに留まっていた理由。……全て、見抜かれていた。
だからこそ彼は私にこの「新商品」を差し出す。限界までカロリーオフにこだわったそれを。神経質なほどカロリーを気にするあまり、本当に食べたいものを前にしても手を伸ばさない私のために。
なぜ彼が数多くの客の中で私の存在を明確に認識できていたのか、なぜ私の事情をそこまで見抜けていたのか、そんなこと私には到底分かりはしない。
重要なのは、彼の努力と研鑽の賜物が目の前に差し出されているという事実だ。

「受け取っても、いいんですか?」
「何度も言わせるな」

ぐい、と箱を押し付けられて、私は否応なしにそれを手にした。タルト一つ分の重みがあった。
その時初めて、私は彼を――砂月さんの目を真っ直ぐに見た。先程までは恐れしか感じなかったが、今は心境の変化もあって感じ方が変わっていた。
無愛想で、威圧的で、……けれど優しい。そして真摯だ。あんなにも美しく繊細な洋菓子の数々を生み出す彼の瞳が、優しくないはずがなかった。

私が箱を受け取ったことを確認すると、彼の唇は満足げに孤を描いた。同じ双子でも、那月さんとは随分と印象の異なる笑みだった。彼はこんなふうに笑うのか。ほんの少しだけ彼に近付けたような気がした。
彼は「今日中に食べろよ」と言い残し、薄暗い店の中へ戻っていく。私はその背中を見送って、深々と礼をした。



【7】同日 23:56 自宅


早足でマンションに戻ると、私はすぐさま先程受け取った小さな箱を開けた。待ち遠しくて仕方なかったのだ。
中には、彼の言ったように一切れのフルーツタルトが入っていた。私がずっと恋焦がれ続けたもの。
あまりに眩しくて、開けるやいなや蓋を閉める。ずっと見つめ続けていたいが、なんだか勿体無いような気がしてならない。早鐘を打つ胸を押さえながらもう一度開ける。まるで芸術品のように美しいタルトが私を出迎えた。
「うっ……!」
思わず息を呑む。完璧な造形だ。一部の狂いもなく配置されたフルーツたち。それらを聖母のような優しさで包み込むタルト生地。全てが芸術だった。
私は何度も蓋を開けたり閉めたりを繰り返した。その度にタルトは待っていましたと言わんばかりに私の前に現れ、神々しい姿を惜しげもなく見せてくれる。

ああ、なんて素晴らしい!

私は未だかつてないほど高揚していた。これを今から食べるというのか。甘い背徳感に全身が痺れた。この美しい形を崩して、フォークに突き刺し、口の中へ運ぶ。たったそれだけの行為ですら私にはとんでもない重罪のように思える。しかし、その罪を犯して初めて味わえるものがあるのだ。
緊張を和らげるために、用意しておいた紅茶を一気飲みするが、胸の高鳴りは収まりそうにない。

時計を見ればもうそろそろ日付が変わろうとしていた。こんな夜中に甘い物を食べるなど、以前の私なら考えられなかったことだ。
だが彼は今日中に食べろと言った。その言いつけを破るわけにはいかないではないか。自分に言い訳しながらフォークを手にする。カロリーがどうこうという考えは綺麗さっぱり消えていた。
震える手でフォークをタルトに刺す。さくり、と軽い音がして、一口分が切り出された。
もう覚悟はできている。私はゆっくりとタルトを口に運んだ。

「…………、」

言葉が出なかった。

フルーツ本来の甘みが引き出され、それぞれが主張しすぎることなく調和し、絶妙なバランスをもって口の中で溶ける。
豆腐をベースにしたというタルト生地はしっとりとしており、今までにない新しい口当たりを実現していた。
つまり、何から何まで完璧だった。
間違いない。これは私が今まで食べてきた中でも最高のタルトだ。いや、タルトというカテゴリーの中だけに留まらない。これまでの人生で最も美味しい食べ物といっていい。最高だ。
言いようのない幸福感が私を包み込む。この幸福が今の一口だけでなく、次にも待ち構えている。これほど喜ばしいことがあろうか。

気付けば私は一粒の涙を流していた。あまりに幸せすぎたのだ。おそらく私はこの時のためにずっと耐えて耐えて耐え抜いてきたのだと思う。その分の感動といったら何物にも代えがたい。
泣きながらもう一口、新たな幸せが口の中に広がる。更にもう一口、ああ、この時間がいつまでも続けばいいのに。
幸せを噛み締めながら私は黙々とタルトを食べていく。そして僅か数分で完食してしまった。
幸福感と満足感、そしてもうタルトがなくなってしまったという喪失感。私はしばらく放心状態のまま中空を眺めていた。タルトの余韻にまだ浸っていたい。

食べる前の興奮ぶりとは打って変わって、すべてを食べ終えた後の心はとても凪いでいた。今なら悟りを開けるかもしれない。
――後片付けをしなければ。
ふと思い立ち、おもむろに椅子に座り直した。タルトの入っていた箱を畳もうと手を伸ばすが、
「……ん?」
箱に添えられていた紙ナプキンに何か書いてあることに気付く。さっきまではタルトに夢中になっていてまったく目に留まらなかった。
ひょいとナプキンをつまみ上げ、文字に目を通す。走り書きではあったが、存外柔らかな筆跡だった。

『食ったら感想よこせ』

素っ気ない一文の後に、電話番号らしい数字が並んでいる。店の連絡先ではない。おそらく彼個人の携帯電話番号だ。それに気付いた瞬間、私の心臓は跳ね上がった。箱を開けてタルトを目にした時以上の驚きだった。
……これは、この番号に電話をかけろということだろう。このタルトの感想を伝えるために。
彼から半ば押し付けられるような形だったとはいえ、店の商品を無償で受け取ったことには変わりないのだ。どのみち彼には改めてお礼をしなければと思っていた。だが、それはあくまで後日、一人の客としてするものだとばかり――こんな直接的な方法を彼の方から取ってくるなど思いもしなかった。

彼が提示してきた方法に従うのが礼儀だろう。それにお礼を言うなら早いほうがいい。彼のメモからは、「食べ終わったらすぐ連絡しろ」というメッセージが言外に滲み出ていた。彼が待ちくたびれて寝てしまう前に電話しなくてはならない。分かってはいるが、なかなか勇気が出なかった。
彼とまともに会話したのすらつい先程の話だというのに、次は直接電話しろと。私にとってそれはかなりハードルの高い要求だった。急激に縮まっていく距離に戸惑いを隠せない。
ぐるぐると頭の中で考えを巡らせる。タルトを食べた直後の幸福感はとっくに吹き飛んでいた。

だが、いくら考えようと私が次に取るべき行動は一つに決まっているのだ。
私は観念して携帯電話を鞄から取り出した。メモに示された番号を打ち込む。……迷っていても無駄だ。もうどうにでもなれと発信ボタンを押した。
4回目の呼び出し音の後、とうとう彼が電話に出た。
『……もしもし』
不機嫌そうな声。やはりこの時間に電話するのは非常識だったかもしれないと後悔する。だがもう遅い。あとは成り行きに身を任せるしかない。
私は軽く息を吸い込んだ。

「あの、先程はありがとうございます」

一歩、また一歩。
私は少しずつ、彼との距離を埋めていく。


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