gravity 2


「どうして、こんなことに……」

誰もいないシャワールームで、彼は一人うなだれていた。
まさか音也があのまま登校してしまうとは思わなかった。おかげでトキヤは一日のほとんどを、この狭いシャワールームで過ごさなくてはならなくなった。もちろん、当然のごとく全裸だ。そこまで冷えはしないものの、あまり心地良くはない。寒くなるとシャワーを浴びてみるが、濡れた体を拭くタオルがないのだから体温はすぐに逆戻りした。意味のない行為だ。

時計が無いので正確な時間は把握できないが、もうとっくに昼は過ぎている頃だろう。今日は早めに学校が終わる日だから、そろそろ音也が帰ってくるはずだ。
一刻も早くここから出たかった。長時間誰とも会わず、狭い室内に閉じ込められるのは、予想以上に精神を削られる。自分を閉じ込めた張本人の音也でも誰でもいいから、何かしらの会話がしたい。

……それでもトキヤは、音也の言いつけを破り、扉を壊して外に出ようという発想を初めから諦めていた。彼が望むのは消極的な自由だけだった。
本の一冊でもあれば少しは暇を潰せたかもしれない。だがタオルの一枚もないこの場所、この状況で、そのような望みはただの戯言にすぎなかった。今の精神状態でまともに本が読めるかどうかも怪しいのだが。

彼にできることといえば考える事くらいだった。

そもそも、別れを切り出したのは音也の方からだった。男同士で恋愛をするのはおかしいと、至極当たり前の理由で。
別れてからの音也は、驚くほどいつも通りだった。何一つ変わらない。二人の関係が解消されたということ以外は、何も。

ならば何故、今になって?
軟禁という行為に及ぶまでの執着。それはおそらく嫉妬の感情に由来するのだろう。だが、別れてからの音也は、トキヤに対する一切の関心を捨ててしまっているかのように見えた。それほどの執着心を顕にするなど、誰が想像しただろうか。

トキヤには音也の心が理解できなかった。別れようと突き放しておきながら、今度はがんじがらめに縛り付けてくる。どうせこんなことになるくらいなら、最初から抱き締めて離さずにいてくれればよかったのだ。そうすれば、他の誰かに惹かれることもなかった。自分は音也だけを見ていられた。なのに。それなのに。

――出会って、しまった。

月の光を避けるようにして、闇の中へ溶け込む「彼」に。断ち切れぬ想いを引きずりながら「彼」に惹かれてしまう自分の姿は、他人が見たらひどく浅ましいものとして映るのだろう。しかし引力は何よりも強く、乾き切った心を吸い寄せる。どこまでもどこまでも落ちて行く。
別れを告げることで、音也はトキヤを裏切った。そしてトキヤもまた、違う誰かに想いを寄せることで音也を裏切る。音也はそれが許せないのだろうか。

あと少しで答えが出そうになったその時、トキヤは寮の扉が開く音を耳にした。音也が帰ってきたのだ。弛緩していた体が一気に強張る。ここから出られるかもしれない、という歓喜は掻き消え、緊張と僅かばかりの恐怖が内側を侵食する。

「ただいまトキヤ。いい子にしてた?」

半透明の扉越しに、制服姿の音也が立っていた。今までトキヤを閉じ込めていたことに対して何の罪悪感も持っていないようだった。扉を開ける気配もない。
トキヤは痺れを切らして扉に駆け寄った。

「音也、早くここから出してください」
「やだよ。だってトキヤ、まだ俺の質問に答えてくれてない」
「……こんなことが許されると思っているんですか」
「は?何言ってるのトキヤ?許されないことをしてるのはお前の方なのに」

不意を突かれてトキヤは目を見開いた。――裏切り。その言葉が頭の隅を掠める。
音也の表情は見えない。顔の輪郭がぼんやりと分かるだけだ。トキヤは冷静さを保ちながら続けた。

「私とあなたはもう、そういった関係ではないはずです」
「うん、無いね。俺が別れようって言った」
「ならば私が誰と会っているかを詮索する理由はあなたにありません」
「あるよ」

音也は間髪入れずに返した。理由はある、と。しかしその言葉の先を言うことはなく数秒間押し黙った。
その沈黙の代わりに、何かを切るような音が室内に反響する。音也は鋏を手に、扉を固定していたビニール紐を順番に断ち切っていく。鋏が軽やかに空を舞う度に、扉の封はひとつずつ解き放たれていった。
チョキン。最後の音が鳴る。幾重にも巻かれたビニール紐がするりと扉から切り離され、長短様々な残骸が床に散らばった。扉を閉ざしていた縛めはもう無い。
トキヤが外へ出ようとするより先に、音也が扉に手をかけた。乾いた音を立てて、半日ぶりに扉が開けられる。

「ねえトキヤ、」

音也は、笑っていた。

「もうとっくに別れた俺たちだけど、もし俺に新しい彼女ができたらどうする?おめでとうって素直に祝福できる?寂しくなる?悲しくなる?あの時別れてなければ、なんて後悔したりする?
俺はどれでもないよ。俺は――トキヤがもっと欲しくなる」

一度はいらないと手放したとしても、それが誰かのものになると、急にまた欲しくなってしまう。自分の所有物には興味がないが、他人のものは奪いたい。奪って壊す。知らない誰かが美しく育て上げたそれを、見るも無残に引きちぎって壊す。そうすれば、心にぽっかりと空いた穴が塞がるような気がした。本当はなにひとつ変わらなくても。変わった気にさせてくれるのならそれでいい。……何ということはない。子供じみた独占欲だった。
音也はとうとうそれを自覚してしまった。今までの行動は全てその自覚の上だった。

「だって、トキヤは俺のものだから」

音也は笑う。かつてトキヤが好きだと言った、人懐っこい笑顔で。悪びれもせず、まるでそれが公然の事実だとでもいうかのように肯定する。
その瞳を見た瞬間、トキヤの背筋に震えが走った。得体の知れない恐怖が胸を圧迫する。足の力が抜けてその場にしゃがみこんでしまった。しかし音也から視線を逸らせない。見上げる者と見下ろす者。両者の優劣関係は明確に分け隔てられていた。

「ねえトキヤ、もう一回聞くよ。……昨日の夜、誰と会ってた?」

今度はちゃんと素直になってね、と言わんばかりに、音也は顔をぐいっとトキヤに近付ける。
抗えない。そう思った。


――コンコン。


刹那、張り詰めていた空気が、軽やかなノック音によって僅かばかり緩んだ。……誰かが寮の扉の前にいる。
トキヤにとってそれは救世主のようなものだった。音也の追求にこれ以上耐えられる気がしなかったのだ。
すると音也は明らかに気分を害したように舌打ちをした。トキヤにも聞こえる音量で。この程度で安心してもらっては困る。第三者の介入があったとしても、現在この空間には音也とトキヤしかおらず、音也が訪問者を追い払ってしまえばそれまでだ。
音也は床にへたり込むトキヤに目配せして浴室を出た。この場を取り繕うのはさほど難しいことではない。

扉を開けるとレンがその場に立っていた。「やあイッキ」と愛想よく笑う。厄介な相手が来てしまった、と音也は思った。勿論そのような素振りは決して見せない。
「どうしたのレン。トキヤに用?」
「ああ、今日の授業で出た課題を届けに来たんだ」
そう言ってレンは手にしたノートをひらひらと振った。もっともらしい言い分だ。しかし音也はレンの思惑に薄々気付いていた。おそらくレンは、トキヤの欠席の原因、そしてその真偽を確かめる為に、わざわざ自分からこの部屋に足を運んだのだ。
「あー……トキヤさ、まだちょっと調子が悪くてベッドから出られないみたいなんだ。俺が代わりに預かっておくよ」
レンの瞳が微かに揺れる。ふと音也から視線を外し、部屋の向こう側に目をやった。音也の背中越しに広がる空間。人の気配は、ない。壁に遮られてベッドまでは見えなかったが、それでも違和感は拭えなかった。

「……本当は」
「え?」
「本当は、風邪なんかひいてないんだろう?」

――彼は不必要なほどに鋭敏だった。
知らないままの方が幸せなこともあっただろうに。音也はレンの内側に、早いうちから多くを悟りすぎた子供の影を見た。俯いて口を閉ざす小さな背中に、幼い自分の姿が重なる。
生まれも育ちも違うが、二人はどこか似ていた。隠し事を容易く見抜いてしまう鋭さ、諦めを知った寂しい目。……似ているからこそ、音也とレンは同じ人間を好きになった。
一ノ瀬トキヤは不思議な引力を持っている。そして二人とも、その引力に抗えない。

音也の沈黙にレンは確証を得たらしい。音也の肩をどかし、無言で部屋の中へ入っていった。
無論、そこにトキヤはいない。綺麗なままのベッドを見るや否や、レンはリビングに背を向けて浴室へと足を踏み入れた。
その背中を音也はぼんやりと眺めていた。ああ、秘密が暴かれてしまう。
半開きになった浴室の扉を開ける。真っ先に目が行ったのは、バスルームに裸で座り込むトキヤの姿だった。

「レン……!?」

か細い声が名を呼ぶ。驚きと安堵、そして微かな絶望がトキヤの顔に浮かんだ。どうしてここに、とでも言いたげだった。
あまりにも異常な空気に、レンは言葉が出なかった。事前にいくらか予想はできていたはずだ。しかし、いざその光景を目にした衝撃は想像以上だった。
浴室内を注意深く観察する。バスルームの扉の取っ手に絡まるビニール紐、床に放り出されたシャワーのホース、そして何より、青ざめた顔で震えるトキヤ。それらの断片的な情報からレンが導きだした結論は、限りなく真実に近かった。

「あーあ、見つかっちゃったかあ」

レンの背後で、音也のあっけらかんとした声がする。罪悪感など微塵も感じられない。まるで悪戯が見つかった子供のようだった。
音也から危害を加えるような気配はしない。見つかってしまったものは仕方ないと開き直っているのだろうか。
レンは視線をトキヤに注いだまま、いつになく荒々しい口調で音也に問うた。
「……説明してもらおうか」
「何を?」
「しらばっくれても無駄だよ。これでも大体の事情は分かっているつもりだ」
他人の関係には口を出さない、それがレンのやり方だった。しかし今は違う。レンにとってトキヤは――大切な存在なのだから。彼が傷付けられるような事態を黙って見過ごすわけにはいかなかった。
レンは自分の正しさを信じていた。トキヤを守るのは自分だ。だからこそ、この事実は暴かれなくてはならない。

「……イッキ。君はイッチーを閉じ込めて、」
「――レン!」

続く言葉は、悲鳴のような声に遮られた。レンは驚いて声の主を見る。
トキヤは強い眼差しでレンを睨んでいた。焦燥が滲むその瞳は、必死に何かを訴えかけようとしていた。「これ以上関わるな」と。無言の圧力が突き刺さる。
レンは狼狽した。イッキに束縛されていたんだろう?解放を望んでいたんじゃないのか?次から次へと疑問符が飛び交った。
しかしトキヤはレンの問いに答えることはなく、ひたすらにレンの介入を拒んでいた。

「もういいでしょう、レン。あなたには関係のないことです。早く立ち去ってください」
「だけどイッチー、」
「――いいから早く!」

差し伸べられる手を見てはいけない。縋ってしまいたくなる。
トキヤは俯いて強く目を閉じた。レンの姿を視界から消すことに集中する。早くこの場からいなくなってくれと切実に思った。
レンにとってトキヤが大切な存在であるように、トキヤにとってのレンもまた、大切な友人なのだ。自分と音也の問題にレンを巻き込みたくなかった。深入りしてしまえば無関係ではいられなくなる。トキヤはそれを恐れていた。レンの優しさを受け入れることは容易いが、一度でも希望を持ってしまうとそれを捨て去るのはひどく難しい。
たとえ本心ではどれだけレンに救われたいと願っていても、頑なに拒絶することしかできなかった。

「お願い、ですから……」
トキヤが震える声を絞り出す。その響きはあまりに切実だった。
レンの背後で音也が笑う。
「そういうことだよ、レン。トキヤが必死になってお願いしてるんだから、大人しく出て行ってあげたら?」
「……っ、」
レンが息を呑む。トキヤにこれほど激しく拒絶されるとは思いもしなかったのだろう。ひどく動揺しているようだ。
その動揺は音也にとって非常に愉快なものだった。トキヤが他人との関わりを放棄して、自分を選ぼうとしてくれている。トキヤの拒絶は音也にそう映っていた。
息が詰まりそうな空気に耐え切れなくなったのか、レンはくるりと音也に向き直った。余裕の無い目が音也を映し出す。

「……オレは、このやり方を許したわけじゃない」

宣戦布告と呼ぶにはあまりに頼りない声音だった。しかしそれで音也が怯むわけもなく、彼は足早に去っていくレンの背中を見送った。弧を描く唇は優越感の現れだ。
レンの気配が完全に消えると、浴室は再び二人きりの空間へと戻った。しかしトキヤには、今の方が余程ましに思えた。叶いもしない希望を見せつけられるより、諦めだけしか無い状況の方がいっそ安心する。レンの存在はいたずらにトキヤの心を乱すだけだった。

「さてと。思わぬ邪魔が入ったけど……話はまだ終わってないよね?」
音也はにっこりと笑ってトキヤを見下ろす。いつの間に自分は音也をここまで変えてしまったのだろう。
きっと自分は音也から離れてはいけなかったのだ。縋ってでも引き留めるべきだった。音也から切り出したこととはいえ、あの別れが全ての始まりなのだから。あれが無ければ、自分は「彼」と会うこともなかっただろうし、音也は執着を知らずにいられた。だけど今は何もかも手遅れだ。

――砂月さん。

心の中で名前を呼ぶ。彼だけは、何も知らなくていい。





2012/04/30


次回予告(的な何か)(ただし続かない)


「あなたを、好きでいてもいいですか?」

彼は何度でも問い掛ける。
答えなど、返ってくるはずもないのに。


「誰でもよかった。隣にいてくれるなら、愛してくれるなら、誰だって。
だけど――それでも俺は、トキヤがいい」

「イッチーの言う通り、オレは友情を愛情だと錯覚しているだけかもしれない。
でも、それがこの手を離す理由にはならないよ」

「お前がいくら望んでも、俺はお前の手を取れない。
俺の体が俺だけのものじゃないことを、こんなにも悔しく思ったのは初めてだ」


選ばれるのは一人だけ。けれど誰と結ばれても幸せにはなれない。
切り捨てて、拾い上げて、赤い涙痕は消えずに残る。


「嘘でもいい。愛していると、言ってください」
「愛してる。……嘘じゃない」


――それは、抗うことのできない引力だった。


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