真昼に祈る月のこと。


トキヤは久方ぶりに獲得した静寂な空間を思う存分満喫するべく本を読み漁っていた。今日、音也は友人に会いに行く用事があるらしく帰ってこない。誰にも邪魔をされずに一人で過ごせる時間はやはり大切なものだ。
つい先日あのような出来事があってから、トキヤは学園内の人間と関わりを持つことを極力避けるようにしていた。お節介な何人かからは「双子の兄」と自分の関係について問い質されたりしたが、全て無言で貫き通した。下手な返答をして疑いが深まるよりは、このまま人々の関心が別な話題に移るのを待っていた方がいい。
……それで、いい。

トキヤは溜め息をついて読みかけの本を閉じた。何をしていても、いつの間にか「あのこと」を考えてしまう。授業で上の空になっていた時は担任にそれを指摘された。今も、趣味の読書をしていたにも関わらず集中できないまま結局は同じことばかり考えていた。
今までの自分が崩れ始めている。それを認めてしまったら終わりだ。……なのに。
あの雨の日に聞いた歌が、頭の中にこびりついて離れない。

「おい」

突然、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。ぎゅっと瞑っていた目を開けると、眼前に肌色が見えた。
「な……っ!」
驚いてすぐに顔を上げる。目の前に全裸の大男が立っていた。トキヤは口を開けて呆然と男を凝視したまま固まった。
「し、四ノ宮さん……!?」
そこにいたのはAクラスの四ノ宮那月だった。あまりの事態に声が裏返る。何故彼が全裸のまま自分の部屋にいるのか理解出来ない。
すると彼は眉をしかめて「あの時も言っただろう、俺は那月の陰……砂月だ」と言った。
「砂月……?」
もう一度彼を観察する。顔は紛れもなく四ノ宮那月そのものだった。違いは、眼鏡をかけていないということ。その瞳を真正面から見た瞬間、トキヤの口からと驚きの声が漏れた。見覚えがないどころの話ではない。

彼は、あの雨の日にトキヤの前で歌った男だった。

音也から話は聞いていた。四ノ宮那月は眼鏡を取ると性格が変わる、と。トキヤの知るいつもの彼が那月ならば、今ここにいるのは、彼の言うとおり「砂月」なのだろう。確かに別人のような雰囲気だ。
しかし何故全裸なのか。トキヤのいる部屋までこの格好で廊下を歩いて来たというのか。信じられない。そして考えることに集中するあまり、彼が部屋の扉を開けたことにすら気づかなかった自分が恨めしい。

トキヤの混乱をよそに、彼は気だるげにトキヤを見下ろす。
「……シャンプー」
「は……?」
「シャンプー、切れたから貸せ」
本当は全裸の姿など見たくもなのだが、状況把握のために砂月の様子を観察する。柔らかな金髪が濡れており、体にも水滴がついていた。おそらく先ほどまで風呂に入っていたのだろう。そして髪を洗おうとしたらシャンプーが切れていたために、こうしてトキヤの部屋まで足を運んだというわけか。同室の翔はどうした、と言いかけて、今日の夜は歌のレッスンをするとか言っていたのを思い出す。なんて運の悪い巡り合わせだろう。

「……早くしろ」
不機嫌さが増しているのか、砂月の声がだんだんと低くなっていく。駄目だ、この男に逆らっては命が危ない。本能的にそう判断し、トキヤは光の速さでシャワールームへと駆け込み、シャンプーとバスタオルを掴んで出てきた。
「私の使っているシャンプーでよければどうぞ。それとこのタオルも使いなさい、そんな姿で出歩かれて他の生徒と鉢合わせでもしたら大騒ぎになりますから!」
手に持っているものを砂月に押し付け、一気にまくし立てる。これ以上この男とは関わり合いになりたくない。用事が済んだら一刻も早く出ていって欲しい。
だがそんな願いとは裏腹に、砂月は険しい顔でトキヤをじっと見つめたまま動かなかった。

「……お前、まだ悩んでるのか」
呆れたような、怒っているような、声。砂月の言わんとしていることが嫌でも分かって、トキヤは唇を噛んだ。
「自分が望みもしない虚像を作り上げてまで、押し付けられた他人の望みに応えようとすることに何の意味がある?そのせいで自分自身が追い詰められて、バカバカしいと思わないのか?……中途半端な覚悟のまま自分を偽るくらいなら全部辞めろ。そんな生き方も、歌も。見ていてイラつくだけだ」
あの雨の日、彼がトキヤに向かって言った言葉が駆け巡る。偽りの歌。真っ黒な陰。全て見抜かれている。そうだ。いくら悩んだところで、肝心な部分は何も解決していない。他人との関わりを拒むのも、抱えている問題から逃げようとしているからだ。

「……あなたに私の何が分かるんですか」
せめてもの抵抗として呟かれた言葉は、あまりに頼りなかった。
気付いている。自分という存在を支えている根底の価値観すら揺らいでいること。このままでは、偽りの自分どころか、「本当」まで見失ってしまうこと。気付いていながら、自分一人ではどうすることもできなかった。
どうやっても口では砂月に勝てないと思ったのだろう、それきりトキヤは何も言わずに黙りこくってしまった。伏せられたトキヤの表情は砂月からは見えない。だが、きっと情けない顔をしているのだろうということは容易に予想できる。
「お前のことくらい、歌を聞けばすぐに見抜ける。お前は俺の側に近いからな。……だが、俺とお前とで決定的に違う部分がある」
俯くトキヤの頭を軽く引き寄せ、耳元で囁く。

「お前には、闇の底から引き上げてくれる奴らがいるんだろう?」

「え、」
トキヤは咄嗟に顔を上げる。砂月の鋭い瞳の中に、今にも泣きそうな自分の顔が映し出されていた。
「それは、どういう……」
「いずれ分かるさ」
砂月は一言そう告げると、トキヤの頬をするりと撫でてから踵を返した。もちろん、部屋に入ってきた時と同じ姿のままで。

砂月の出ていった扉を呆然と眺めながらその場に立ちすくむ。
彼が何を言おうとしているのかは分からない。だが、全てを見透かしてしまう砂月のことだ。トキヤが気付けていないことすらも、彼には当たり前のように見えているのだろう。
彼に触れられた右頬はまだ熱を持っていた。人を殴るためにあるようなあの手が、優しく頬を撫でることもできるのか。その素っ気ない優しさが、不思議とトキヤの心を楽にしていた。張り詰めていた糸が少しずつゆるみ、解けていく。

「おかしな人だ……」
いきなり本質を突くような言葉を浴びせかけるところも。「俺の歌を聞け」などと勝手に歌い始めるところも。偽りを演じるトキヤを責める一方で、存外優しく頬に触れてくるところも。
その行動は強引で、ぞんざいで、まったく予想ができないが、そんな彼に救われているのもまた事実だった。

トキヤは小さく笑った。あの雨の日から、演技以外で初めて自然に笑えた瞬間だった。





2011/08/07


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