春待ち人


季節は春、時は昼過ぎ。一人の少女と一人の少年が、野原の上に隣り合って座っている。春の風が通り過ぎて、青空に桃色の花びらを散らせた。
「ねえチェレンー」
飴を口の中で転がしながら少女が傍らの眼鏡をかけた少年に話しかける。その表情は不満げだ。
「今日は、あたしたち幼馴染が久しぶりに、ものすごーく久しぶりにカノコタウンに集まったじゃない?それって特別な日だと思うんだよね」
「うん」
「なのにさ、トウヤはどうしてあんなにぼーっとしてるのかなぁ?」
頬を膨らませて少女が前方に視線を向ける。その視線の先にはもう一人の幼馴染がいた。彼はチラーミィを連れてあてどもなく野原を散歩している。少し歩いては立ち止まり、また少し歩いては、時々じゃれてくるチラーミィの相手をして立ち止まる。傍目にはただ微笑ましい風景だが、少女にとっては物足りないらしい。

眼鏡の少年は少女と同じように、散歩を続ける一人と一匹の姿を目で追った。
「トウヤのママに聞いたら、トウヤは毎年この季節になると、ふらふらーっとカノコタウンに帰ってくるんだって。それで、何かをするってわけでもなく、あんなふうにぼーっとして、何日か経つとまた旅に戻っちゃうらしいの。変だよね」
「……変じゃないさ」
それまでじっと黙っていた少年が口を開いた。思いがけない言葉に少女は目を丸くして少年を見つめる。なんだかその言葉には単なる否定とは違う意味が込められていた気がしたのだ。
「トウヤは、待ってるんだよ」
「待ってる?……誰を?」
少女の問いに少年は答えなかった。答えは春風が知っている、とでも言うかのように目を閉じて、目蓋の裏に過去の映像を思い浮かべた。

――今からちょうど三年前。今日のように故郷が淡い春色に染まる頃、少年は旅の途中で大きな事件に遭遇した。約一年かけてイッシュ地方を回り、多くのポケモンを捕まえて図鑑の空白を埋め、より強いトレーナーになろうとした旅。各地のジムを制覇し、四天王を倒し、チャンピオンに挑もうとして……その後に起こったのは信じられない出来事だった。少年はそれを一歩離れたところで見守る以外にできなかったが、事件の渦中にあり、伝説のポケモンを従えた人物なら知っている。目の前でチラーミィと戯れている幼馴染だ。
事件のもうひとりの当事者は、あれ以来姿を消した。生きているのか死んでいるのかも分からない。
しかし、幼馴染が待っているのはきっとその人なのだろう。彼とその人は繋がっている。伝説のポケモン、レシラムとゼクロム。イッシュを建国した双子の英雄。遥かなる時を越えて再び現れた英雄二人。対になって紡がれる運命の鎖よりも、もっともっと強い引力で。
あの場に居て感じた強い繋がりは、三年経った今も変わらない。……だから。

「……じきに分かるよ」
少年は、少女の髪についた花びらを取ってやりながら微かに笑った。その微笑みの意味を図りかねた少女が「えーなにそれぇ」と脱力する。少女はあの出来事にそれほど深く関わっていないから分からないのだろう。けれど少年には分かる。あの幼馴染が何を求め、誰を待っているかを。
「あ、」
頬杖を付いていた少女が声を上げた。つられて前を見ると、今まで幼馴染と戯れていたチラーミィが突然走り出し、カラクサタウンの方面へ向かっていくのが見えた。幼馴染は慌ててそれを追いかけ、転びそうになりながら野原を後にする。一人と一匹が姿を消し、野原は急に静かになった。しかしその静寂も少女の楽しそうな声によってすぐに破られる。
「そっかぁ!」
跳ねるように立ち上がって、目をきらきらさせながら少年に笑いかける。
「ねえチェレン、なんとなーく分かったよ!トウヤが待ってる人!」
自信満々な笑顔。この少女の勘は、意外なほどよく当たる。きっと少年が思い描いている人物と同じだ。

少女は駆けていった幼馴染を追うでもなく、再び元気よく芝生の上に腰を落ち着けた。少年は思わず「追わないの?」と尋ねたが、首を横に振ることで行かない意志を示した。
「あたし、ここで待ってるよ。きっとチラーミィが『ふたり』を連れてきてくれるから!」
だからチェレンも一緒に待とう?そう言って少女は笑う。これから起こるであろう未来を信じて疑わない瞳で。だから少年も頷いた。
二人の間を、優しい春の風が通り過ぎていった。





信じている。あの人が残した言葉。あの「サヨナラ」は決して永劫の別れではなく、再びまた会おうという意味の言葉であるということを。
彼はそんなこと言わなかったし、最後の笑顔なんてまるで死にに行く人のように綺麗だったけれど、彼は今もこの世界に生きていると信じている。自由になったあの人は世界中のありとあらゆる場所を飛び回っているんだ。狭く息苦しい部屋から解き放たれ、イッシュだけでなくもっともっと広い世界を見て、多くの人やポケモンと出会い、彼等の絆に触れて。そうして、自分が今まで目指してきたものが何だったのかをもう一度振り返り、新しい未来を彼自身の意志で選んでいく。俺はそう信じている。

だから、俺のやるべきことはたったひとつ。別れたあの時と同じ日に、俺の旅が始まったこの場所で、彼を待つ。彼が羽根を休めたいと思った時、誰よりも早く迎えに行って、両手を広げてその体と心を受け止める。
あの日、あの時。微笑みと共に飛び立った彼を見送った俺はそう決めた。

「……なのに、ね」
肩に乗せたチラーミィを撫でながらぽつりと呟く。自分の声ながらなんて情けない。
でも、と頭の中でもう一人の自分が否定接続詞を並べた。でも、いくら待っても彼は来ないじゃないか。もう三年経った。これ以上待っても無駄なだけだ。そもそも生きてるのかすら分からない相手を待つなんて不毛なことは早々に止めたほうがいい。
一方で、違う、と弱々しく叫ぶ自分がいる。これは俺の意志で決めたことだ。彼が来るとか来ないとかが問題じゃなく、俺がここで待つという事実が大事なんだ。
けれど、徐々に肯定は否定に押し流されていく。三年という年月は思ったよりも長かった。チャンピオンを目指して旅をしていたあの頃は、あっという間に時が過ぎていったのに。

俺が溜息をつくと、おもむろにチラーミィが体をすり寄せてきた。どうやら俺を慰めようとしてくれているらしい。彼のようにポケモンの声が聞こえるわけではないけど、ポケモンが何を思い、何をしようとしているのかは俺にもなんとなく分かる。言葉にしなくても伝わってくるものがあるからだ。
……あの時だって、そうだ。彼は「サヨナラ」としか言わなかったけど、俺は確かに、別れの言葉以上の意味を感じ取った。いつかまた必ず会いに行くから、その時まで待っていてくれないかい、と。あれは間違いなんかじゃない。

「!」
「えっ、」

それまで大人しく俺の肩に乗っていたチラーミィが、突然何かを思い出したかのように耳をぴくぴく動かして、次の瞬間には芝生の上に飛び降りて駆け出していた。考え事に夢中だった俺はいきなりの事態に対処できず慌てた。チラーミィは全速力で野原を疾走し、北へと向かっていく。あの小さな体のどこにそれほど速く走れる機能が備わっているのか分からない。そもそもバトルの時だってあんなに速くなかった。そうこうしている間に俺とチラーミィの距離はかなり開いた。すぐに追いかけないと見失ってしまう。俺は急いでチラーミィの後を追いかけた。

どれくらいの距離を走ったかは覚えていない。走っている間にチラーミィの姿を見失い、俺は息を荒くしながらそこらじゅうを歩き回る羽目になった。いつもは大人しいのに、どうしていきなり逃げ出したりしたんだろう。滲み出る汗を拭いながら草の間を掻き分けて歩いていくと、広い野原に出た。花の甘い香りが満ちていた。
確かここは、小さい頃に訪れたことがある。イッシュでは珍しい花の樹があるから、と母さんに手を引かれて。

(カノコタウンでも一部の人しか知らない、隠れた名所。だから誰にも言っちゃダメよ)

そう言われたのを覚えている。無闇に知られてしまえば、その樹は多くの人の手によって手折られ、本来の美しさを失ってしまうかもしれないから。俺は幼馴染二人にもこの場所を教えなかった。勿論、それ以外の人にだって言うはずがない。

……けれど。そこには、俺のよく知る人が立っていた。

捜していたチラーミィは、その人の腕の中で居心地よさそうに丸まっていて。

(この樹の名前はね)

背を向ける形で大きな樹を見上げていたその人は、ふ、と流れるような動作で振り向いた。

(――――サクラ、というのよ)

春の風が吹く。舞い散る花びら。揺れる緑の髪。
その場に立ち尽くしたまま動けない俺の代わりに、彼が自ら歩み寄ってきた。ゆっくりと、一歩ずつ。まるで三年の空白を一歩ごとに埋めていくかのように。

ごく近い距離で彼と正面から向き合った。あの時とは少し目線が違う。あれから俺は随分身長が伸びた。あの時は俺が彼を見上げるくらいだったのに、今では同じ高さで見詰め合っている。三年という月日の長さはこんなところに表れていた。
でも、彼は見たところ何も変わっていない。声も、身長も、俺の記憶の中にあるものとまったく同じだ。

「……やあ」

驚きもせず、ただそこに俺がいるのが当たり前のような自然さで。まるで昨日会ったばかりの友人に挨拶するような気軽さで。彼は、俺に微笑みかけた。最初に出会った時に見せた作り物めいた綺麗な微笑みではなく、血の通った人間の優しい微笑みだった。
――笑い方が、変わった。三年を経た彼の変化はそれだけ。でも「それだけ」が、もっとも尊い。

その変化に気付いた瞬間、動けなかった俺の体は、見えない束縛から自由になった。俺は耐え切れず手を伸ばし、彼を強く抱き締めた。彼の腕の中にいたチラーミィは、俺が彼を抱き締める前に腕から抜け出して、芝生の上にちょこんと座り、俺達のことをじっと見ている。彼はチラーミィに笑いかけてから、俺の肩越しに言葉を紡いだ。
「……久しぶりだね。ちょうど3年ぶり、月にすると36ヶ月、日にすると1095日、時間にすると26280時間、分にすると1576800分、秒にすると94608000秒ぶり……かな」
相変わらず飄々とした口ぶりで意味の分からないことを言う。ああ、でも、あの早口が影を潜めていた。落ち着いていればこうやってゆっくりと話すこともできるんじゃないか。

この三年間どこに行ってたんだ、こんなに待たせてどうしてくれるんだ、俺はお前に会いたくて会いたくてたまらなかったのに。
言いたいことはいくらでもあった。でもそれらの言葉はサクラの花びらと一緒に青空へ溶けていって、残ったのはたったひとつの言葉だけだった。

「……おかえり」

帰るべき場所を持たない彼のために、俺ができることは何か。三年間ずっと考え続けてきた答えがこれだった。
優しく微笑む以外の表情を見せなかった彼が、その時初めてはっと息を呑んだ。抱き締めているせいで顔は見えなかったけれど、彼の頬に伝うものが何かを僕は知っている。
そうして、彼は震えながら俺の背に腕を回した。彼に残された言葉も、たったひとつ。

「……ただいま」


(そして僕等の春がやってくる)




2010/10/01

【BGM】サクラビト/Every Little Thing


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