夜明けがドアを叩くから


彼女は生まれつき自ら孤独の中に身を置く少女だった。
自分の内側に潜む孤独を明確に意識し始めたのがいつだったのかは覚えていない。気が付いたときには既に灰色の孤独が心に寄り添っていた。

幼馴染や弟と一緒に遊んで馬鹿みたいに大笑いをしながら、心の中ではどこか一線を引いていた。自分は「誰か」を選べないと分かっていたからだ。家族も友達も大切な人だった。一緒にいて楽しく思うし幸せだと感じる。けれどそう思うと同時に、言葉にし難い孤独感を抱え込んでいた。
しかし普段はそのような素振りを見せない。「扱いに困る暴れん坊」、周囲の人間が彼女に抱く印象は概して同じようなものだった。それでいい、と彼女は思っていた。心の内側で自分が何を感じていようと、他人にそれを悟られないようにしていれば、それで。この孤独を誰かに理解できるとは思わないし、理解してもらおうとも思わない。

彼女はいつからか「旅に出たい」と思うようになった。今の生活に不満があるわけでは決してなく、ただ、自分だけの視点で世界を見渡してみたかったのだ。
外側と内側の齟齬が大きくなっていくにつれ、旅への憧れは強まっていった。


そして15歳の誕生日を迎えた日、彼女はとうとう一人で旅に出る決意をした。その夜、家では家族と幼馴染たちが誕生日を盛大に祝ってくれた。おめでとう、これからもよろしくね―――祝福してくれる幼馴染の笑顔を見て、トウコはいつもと同じ態度を保って「ありがとう」と言うことで精一杯だった。
言えない。明日の朝には、たった一人で旅に出ようとしていることなど。ずっと一緒に育ってきた幼馴染にも、家族にすら打ち明けずに。まるで家出だ。この旅立ちは家出であるつもりはなかったが、トウコ以外の人間が見れば家出にしか見えないだろう。誤解されることは承知の上だった。たとえ家出と言われようとも、旅に出るという強い意志を曲げるつもりは無い。

誕生会を終えたトウコは部屋に篭って旅の準備をした。旅に出る旨を書いた小さなメモを机に置き、お気に入りのピンクのショルダーバッグに必要最低限の荷物だけを入れる。最後に用意したのはモンスターボールだった。父の部屋に埃をかぶって置いてあったものだ。
彼女の父親は現在、世界各地を旅しているらしいと母から聞いている。滅多に帰ってこないため、トウコはこの15年間で数回しか父と会っていない。最後に顔を合わせたのは何年前だったろうか。どのような顔をしていたかも記憶が曖昧だ。トウコと弟のトウヤはどちらも母親似で、父親の面影はどこにもない。以前、母は「トウヤの性格はパパによく似てるわ」と語っていたが、顔すらよく覚えていないのに性格が似ていると言われたところで実感が湧くはずもなく、トウヤは首を傾げていたのを記憶している。
そんな父とも思えない父がこの家に残した唯一と言ってもいい品がこのモンスターボールだ。旅に出て一番初めに捕まえるポケモンにはこのボールを使おうと心に決めていた。トウコは無自覚だったが、彼女が旅に憧れた理由には、父を追いかけたいという思いが少なからず含まれていた。

少ない荷物をまとめ、トウコは次の日の朝に備えてベッドに潜り込んだ。しかしいつまでたっても眠気がやってこない。旅立ちに対する期待や興奮からではない。ただ、考えることが多すぎたのだ。時間をかけて気持ちを整理したつもりだったが、それでもなお家族や幼馴染の顔が浮かんでは消えた。孤独と生きることにはもう慣れていた。しかし生まれた時からずっと過ごしてきた土地を離れて旅に出るということは思った以上に覚悟を必要とした。だが、長い間考え続けた末にやっと辿り着いた結論を今更変えられるわけがなかった。


窓の向こう側に見える景色を眺めていたら、いつのまにか空が白んでいた。予定していた出発時間に差し掛かっている。トウコは目を閉じて、心の中にいる孤独の姿を確認した。……大丈夫、ちゃんとここにいる。自分に言い聞かせるように頷いた。
手早く着替えを済ませ、帽子をかぶる。鏡の前に立つと、15歳になったばかりの自分と目が合った。
「おはよう」
にっこり笑って挨拶すると、鏡の向こうの自分もまた笑顔で挨拶を返してきた。同じ顔、同じ仕草、同じ自分。それなのに、鏡の中にいる自分を自分自身だと思えないのは何故だろう。トウコはその奇妙な感覚を振り切るように鏡の前から離れた。

顔を伏せたまま、床に置いたショルダーバッグを手に部屋を出た。足音を立てないように細心の注意を払って廊下を歩く。家族が目を覚ます前になんとしても家を出なくてはならなかった。今ここで家族と顔を合わせようものなら、きっとまた固めたはずの決心が揺らいでしまう。
そろそろと階段を下りていく途中で、トウコは一階から人の気配を感じた。……誰か、いる。
階段と一階のリビングは直接繋がっているため、このまま下りれば必ず一階にいる誰かと出くわしてしまう。このまま引き返して部屋の窓から外に出ようかとも考えたが、それこそ本当に家出のようで気が進まなかった。それにもし一階にいる誰かが家族以外の人間、つまり空き巣の類(しかし早朝に空き巣を考え付く人間は世界にどれだけいるのだろう)だったとしたら撃退しなければ。せっかく静かに旅立ちたかったのに穏やかではない。トウコはいつでも迎え撃つ準備ができるよう精神を集中させて階段を下り、一階に辿り着いた。

そこに誰がいても動じないつもりだった。しかしそれは所詮「つもり」にすぎず、トウコは驚きに固まるだけだった。
「……ママ……?」
背を向けてキッチンに立つ、見慣れた背中。一階にいたのは母親だった。トウコの声に気付いた母は振り向くことなく答える。
「おはようトウコ。もう少し待ってて、あと少しで出来上がるから」
「え、え、」
面食らってろくな反応が返せなかった。まさか、と思った。母がキッチンにいるのは珍しいことではないが、時間が時間だ。早起きの母でも起きてこないような時間を狙って出発時刻を設定したのだが、現に母はトウコより早く起きている。

トウコの混乱をよそに、母は鼻歌を歌いながら何か作業している。そして不意に「できた!」と嬉しそうに声を上げ、トウコに向き直った。
「はいこれ、お弁当」
手にしたピンク色の弁当箱が渡される。トウコは何度も瞬きを繰り返した。
「お……お弁当?」
「そう。本当は朝ごはん食べてほしかったけど、そうなると時間がかかってトウヤが起きてくるかもしれないからお弁当にしたの。これならいつでも好きな時間に朝食をとれるでしょ?……あ、そうだわ、これも持って行きなさい」
エプロンのポケットから取り出されたのはタウンマップだった。これではまるで旅立つ娘に向けた餞別のようではないか。当たり前だが、母に対して旅に出ようという意志を打ち明けたことは一度もないし、事前にそんな素振りを見せたわけでもない。トウコが今日の朝に旅立つことを知っているのは誰もいないはずだった。

「な、んで、知って……」
驚きで微かに震える声を絞り出す。母はにっこり笑うだけで問いには答えなかった。だが、その笑顔は雄弁に語っている。「ばれてないと思った?」と。
この人には勝てない。トウコは心の中で白旗を振った。15年もの間トウコを育ててきたのだ、最初から娘の思いを知っていたのだろう。内側に抱える孤独も、そこから生じた旅への憧れも、すべて。けれど何も言わず、トウコが自分自身の意志で決めるのを見守っていたのだ。そして旅立ちの日には、こうして手作りの弁当をわざわざ作ってくれた。
じんわりと目蓋の裏が熱くなった。家族と顔を合わせたら決意が揺らぐのではないかと思っていたが、逆だった。こんな家出まがいの旅立ちを受け入れて、見送ってくれる人がいる。その優しさに報いるには、旅の中で自分が成長する姿を見せることが一番だ。

……行こう。トウコは目から涙が零れ落ちそうになるのをこらえ、持ち得る限りの力をすべて注ぎ込んで笑った。特別なことを始める時はいつでも笑顔でいたかった。一人で迎えるはずだった旅立ちが二人になっただけで、こんなにも嬉しい。
「お弁当、ありがと。……いってきます」
「いってらっしゃい」
手を振る母に背を向けて、トウコは扉に手をかけた。故郷を離れ、新しい世界をその目に刻み付けるために。





夜明けがドアを叩くから
(外に出たらびっくりするほど綺麗な空が広がっていて、この日を選んで良かったと心の底から思った)







2011/02/09



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