ダイヤモンドクラッシャー


少女は乗っていたポケモンの背から飛び降り、軽い足取りで着地した。
「ありがと、ウォーグル」
翼を撫でてやるとそのポケモンは嬉しそうに目を閉じて、大人しくボールに入った。一人になった少女は目の前に広がる茂みを掻き分けて目的の場所へ迷いなく突き進んでいく。
彼女が目指す場所に「彼」がいる保証はない。ただの勘だ。今までも、勘を頼りにイッシュ地方を手当たり次第探し回った。その結果はすべて無駄骨。どこを探しても「彼」の影すら見当たらなかった。
もしかしたらこの地方にはいないのでは?――――国際警察のハンサムからは何度もそう言われた。暗に「あの男のことは諦めろ」と言いたかったのかもしれない。だが少女は決して自らの考えを曲げようとはしなかった。「あいつは必ずイッシュのどこかにいる」、根拠のない自信だけが彼女を突き動かしていた。

数分ほど歩くと茂みが消え、代わりに洞穴が現れた。外の風が洞穴の中へ吸い込いこまれて不気味な音を響かせている。風に髪を揺らし、少女は静かな瞳で洞穴の暗闇を見詰めた。闇の先にあるものを見極めようとするかのように。
――――ここだ。
勘が確信へと変わる。中に人の気配など微塵も感じられなかったが、ここにこそあの男がいると彼女の中の何かが叫んだ。行け、闇の中へ。声に導かれるまま、洞穴の中へ足を踏み入れた。冷気が素肌に触れる。これと似た冷たさを少女は知っていた。ありとあらゆる侵入を頑なに拒む瞳。暗く冷たく、それでいてどこか寂しい。身を潜める場所にすら、「彼」は自身に似た要素を無意識に求めたのかもしれない。
光を灯さず歩く。感覚を研ぎ澄ますことで、暗闇の中に自分の確固たる存在を認識する。それ故、足元に転がる石に足を取られることも、恐怖心を煽るかのような風のうねり声に耳を塞ぐこともなかった。

彼女の心を揺らすのはただ一人。
土の壁に寄りかかるようにして、その男は冷たい地面の上に座していた。全てを拒絶する暗い瞳が突き刺さる。
……やっと、見つけた。
求めてやまなかった、「彼」。もう一度出会えたならきっと自分は飛び掛らんばかりに抱き着くだろうとばかり思っていたのに、少女は自らの熱が急激に失われていくのを感じた。頭の芯が冷えていく。今まで必死に積み重ねてきたものが崩れ、霧散し、闇の中へ溶けた。

長い長い沈黙の後、少女の唇から零れ落ちたのは嘲笑だった。笑う、笑う、嗤う。
「オハヨウゴザイマス、プラズマ団元幹部のゲーチスさん。ご機嫌いかが?」
顔を歪めて笑みを形作る。ああ笑いが止まらない。何故こんなおかしな感情が込み上げてくるのか少女自身にも分からなかった。
男はそのような少女の変化を知ってか知らずか、低い声で言った。
「……貴様のおかげで最悪だ」
「やだ、せっかくイッシュ各地を捜し回ってやっとの思いで見つけたっていうのに、久しぶりの挨拶がそれ?傷つくわぁ」
「よく言う」
会話だけを見れば、数年来の悪友の再会にでも取れるかもしれない。しかし、二人を取り巻く状況が、一見軽く見えるやり取りに矛盾を生じさせていた。男を見下ろして乾いた笑いを繰り返す少女、少女を濁った目で見上げる男。ちぐはぐだ、何もかも。

「何の目的でここへ?落ちぶれたワタクシを嘲りにでも来たのか」
「まぁそんなとこかな。予想以上に酷い有様だったから呆れたけど」
少女は笑うのを止めた。洞穴に反響していた笑い声が途切れ、余韻を残して土壁に消えていく。代わりに感情の全てを視線に込めて男を見た。満ち溢れる侮蔑、欠片ほどの同情、そして失望。
「あんた、逃げてどうするつもりなわけ?あの黒ずくめ三人組の手も借りずに国際警察から逃げ切れるとでも思ってるの?財産も地位も名声も全部棄てて、これからたった一人で何する気?」
「貴様のような小娘にとやかく言われる筋合いは無い。ワタクシは自分の生き方を貫き通すだけだ」
「……そんなの強がりにしか聞こえないわ。だって今のあんた、最高に惨めだもの」
「……」

焦りにも似た何かが少女の中に渦巻いていた。おそらくそれは失望から生まれたものだった。
こんなはずでは、なかった。
少女が思い描いていたのは、全てを打ち砕かれても矜持を守り抜こうとする、真っ直ぐに伸びた背筋だった。しかし今目の前にいるのはただの敗北者。その焦りが少女の弁舌を加速させる。傷付いて傷付けて、それでも何一つ自分はこの男を変えることができないと分かっていながら。
「あーあ、それなりに一生懸命あんたのこと捜したのに損しちゃった。いかにもな『負け犬』に成り下がってるなんて思いもしなかったわ」
勝者と敗者。二本足で立つ人間、四足で這い蹲る負け犬。なんてことだろう、ほんの短い期間の内に、二人の立ち位置はこれほど変わってしまった。

男が涙を棄ててまで辿り着こうとした場所を奪ったのは、他でもない少女だった。そのことを後悔するつもりはないし、ましてや謝ろうなどと考えたこともない。
ただ、知っている。その身に刻み付けている。彼女の弟が一人の青年の夢を終わらせたように、自分もまた、一人の男が無謀にも抱いた夢を粉々に砕いたという事実を。その形がたとえ酷く歪なものだったとしても、「夢」であることに変わりはないのだ。

……だから。
少女は思う。その潰えた夢の先を見届けるのは自分の役目である、と。誰かに乞われたわけではなく、自らの意志で選び取った道だ。きっと男は少女の選択を望みはしないだろう。しかし、だからといって引き下がるような少女ではなかった。彼女はもう既に選んでいたのだ。忘れもしないあの時、砕け散った夢を前にしても尚、爛々と光る男の瞳を見た瞬間から。

少女が惹かれた赤い瞳は、時間の経過によって輝きが失われ暗く淀んでいた。今の自分が為すべきは、この瞳に光を取り戻すこと。
「……あたしが追いかけようと思ったのは、丁寧な言葉遣いなのにイラッとするような慇懃無礼さがあって、自分を完全な存在だと勘違いしてて、いつでも意味不明な自信に満ち溢れてて、どこまでも自分の利益しか考えてなくて、外道だろうと何だろうと、それが決して正しいことじゃないと分かっていても、自分の道を真っ直ぐに突き進んでいく男よ。……こんな場所で惨めに蹲ってるような奴じゃない」
そして少女は右手を男に差し出した。
「来なさいよ。逃亡者なんて柄じゃないわ。あんたなら、どんな場所でも自分が世界の中心だと精一杯の虚勢を張っていられるでしょ?あんたはあんたに相応しい場所で、あるべき姿でふんぞり返っていればいいの」


一方的な命令をされても男は何も言わず、目の前に差し出された少女の手を見詰めた。およそこの年代の「女の子」には似つかわしくない、切り傷だらけの手だった。いや、手だけではない。暗くて気付かなかったが、よく見ると少女の腕や脚にはそこかしこに傷や痣があった。
男はそれらの痛々しい跡を見て僅かに眉を顰めた。可哀相に、などと不憫に思ったわけではない。少女がここまで自分に執着する理由がまったく分からず、自身の理解が及ばない事柄の出現に苛立ちを感じたからだった。そして、自分はその苛立ちを必ずしも不愉快に感じていないということが、更に理解できなかった。

計画の遂行に向けて一心不乱に突き進んでいたあの頃は、分からないことなどありはしないと思い込んでいた。しかし、こうして「負け犬」の気分を味わうことで知り得たものがある。全てを理解したつもりでいても、実際は分からないことだらけなのだ。現に男は、少女が内に秘めた力を見抜けなかったために敗者となった。
男にとって最大の謎は、他でもないこの少女だった。何故少女は自分に勝てたのか、何故ここまで追いかけてきたのか、何故よりによって「手を差し伸べる」などという行為に至ったのか。分からない。分からないからこそ、知りたい。
――――そうだ。これこそが、ずっと求め続けていたもの。
無限の知識欲がふつふつとわき出てくる。長いこと忘れていたその感覚に男は微かに身震いした。


二人は長いこと互いに口を閉ざしたまま動かなかった。
行き場のない手を引っ込めてしまおうかと少女が考え始めた頃になって、男はやっと立ち上がった。その背筋はぴんと伸ばされている。少女は呆気に取られて長身の男を見上げた。数秒の間の後、少女は弾かれたように笑い出した。先程の嘲笑とは違う、明るい笑い声が洞窟の中に反響する。
「なぁんだ、ちゃんと自力で立てるんじゃない」
「見くびらないで頂きたいものだな」
「見くびってなんかないわよ。あんたは絶対に自力で立ち上がると思ってた。もしあたしの手を借りようものなら、有無を言わせず蹴り倒す気だったし」
「自分から手を差し伸べておきながらその言いようか」
「だってそうでしょ?あんたは誰かを利用することはあっても、誰かの力を借りることは絶対にしない。あたしが知ってる『ゲーチス』はそういうプライドだけが妙に高いの。無駄すぎるくらいにね」
少女は、笑う。震える声で。歪む視界で。

「……そんなちっぽけなプライドを必死で守り抜こうとするあんただから、あたしも必死で捜したのよ」

――――そう。これこそが、ずっと求め続けていたもの。
正義だろうと悪だろうと揺らがない瞳、真っ直ぐに伸びた背筋、響きの良い声。思い描いていた全てがそこにあった。

安堵と喜びが入り混じり、泣きそうになりながら少女は笑っていた。
いくら瞳が潤んでも、その雫を頬に伝わせてはならないと何度も自分に言い聞かせる。何とかして笑顔のままでいようとしたが、必死の努力も空しく涙はあっけなく零れ落ちた。
「あ、れ」
その一粒を合図とするかのように、抑え込んでいた涙が溢れ出す。少女は棒立ちで呆然と涙の流れるままに任せていたが、とうとう耐え切れなくなったのか、男の服の裾を強引に掴んで顔を押し当てて泣いた。みるみるうちに裾が湿り気を帯びて重くなる。
まるで幼子のように声を上げて泣く少女を前にして、男は眉を顰めただけでそれ以上何をするということもなく、ただ少女が泣き止むのを待ち続けるのだった。



どれだけの時間が経過したのだろう。暗い洞窟の中には、泣き腫らして真っ赤になった目元を擦る少女が一人、眉間に深く皺を寄せた男が一人、そして涙を吸って随分と重くなった裾があった。
「あー、よく泣いたわー」
ぐっと大きく伸びをして、少女は妙に清々しい表情で笑ってみせた。好き放題泣けたことに満足したらしい。

「それじゃ行くわよゲーチス」
「……行く?」
「そう、行くの。暗い洞窟を出て、外の世界にね。…………なによ、その嫌そうな目。もしかして、うら若き乙女をこんなしみったれた場所に長時間放置するつもり?ほんっと自分のことしか考えてないんだから」
いつまでも泣き止まなかったのはそちらの方だろう、と反論しかけて、やめた。どうせこの小娘には何を言っても無駄だろう。自分にできるのはせいぜい小言や皮肉を飛ばして調子を崩すことくらいだ。
大きな溜息をつくと、それを承諾と受け取ったのか、少女は男の手を引いて洞窟の外に向かって歩き出した。

しばらくの間立ち止まることなく歩みを進めるうちに、暗闇が薄まって微かな光が見え始めた。外に続く光だ。その光を見とめた少女が不意に立ち止まって口を開いた。
「……あたし、今のあんたで好きな所、ひとつだけあるかも」
少女の唇はゆるやかに弧を描いている。
「その口調。慇懃無礼な敬語よりも、そっちの方が断然良い。遠回しな言い方とか嫌いだから。『歯に衣着せぬ物言い』って言うのかな、あんたが遠慮しないでずけずけ言ってくれるのを聞いてると逆に安心する」
「……おかしな女だな」
「物好きってよく言われるけど、自分でもそう思うわ」

少女が笑うと、その機嫌の良さに反比例するかのように男は唇を曲げた。
繰り広げられる会話に意味があるかどうかなど問題ではない。他愛無い、馴れ合いのようなやり取りこそが二人には必要だった。
やがてどちらともなく再び歩き出し、一人の男と一人の少女が光の中へと消えていった。




「あっ、ハンサムさーん!ゲーチスとっ捕まえて来ましたー!あとは国際警察の方でなんとかしてくださーい」
「……こ、国際警察だと……!?貴様、騙したのか!?」
「分かってないなー。さっきから散々言ってるでしょ?『あんたに相応しい場所でふんぞり返ってろ』って」
「あるべき場所……成程、刑務所というわけか……」
「あったりー!意外に素直じゃない。面会になら何度でも行ってあげるから、寂しくて泣かないようにね」
「ワタクシが泣くとしたら、それは一瞬でも貴様を信じた自分自身に対する失望でだ」
「へぇ、あたしのこと信じてくれてたんだ」
「……!」
「照れてる照れてる」
「ち、違う、今のは単に言葉の綾というもので、」
「またまた強がり言っちゃってぇ!ほんと可愛いんだから!」
「くっ……!後で覚えておくがいい、小娘……!」


――洞窟を出た先で、そのようなやり取りが繰り広げられたのは言うまでもない。


(さあ、楽しい獄中ライフの始まりね!)




2011/01/20


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