愛した証は残しておくよ


だんっ!と大きな音が部屋に響いた。強い衝撃と共に背中が壁に押し付けられる。痛い。首がぎりぎりと締め付けられて意識が飛びそうになる。痛い、いたい。酸素を求めているのに唇は恐怖で震えるばかりで空気を取り込もうとしない。くるしい、こわい、たすけて。
少年は涙で滲む視界に映る男を見ていた。本当は目を閉じてあの恐ろしい瞳から逃れたかった。けれど少年の瞳は男に釘付けになったままだった。逸らそうと思っても逸らせないのだ。
「その名で呼ぶな」
男が冷たく言い放った。声も、表情も、普段とはなんら変わりないのに、その瞳だけが違う。激しい憎悪で燃える瞳。殺しても殺しきれない、憎悪。

(どうして、ねえ、どうして)

少年には、何故これほどまでに男の瞳は憎しみで満ちているのか理解できない。

(だってボクは)

――おとう、さん。

(ボクが呼ぶべき名前で、アナタを呼んだだけだったのに)

少年はどこまでも理解できなかった。彼が男を父と思い、その名で呼ぶことこそが、男の憎悪を最も強く引き出す行為であるということを。英雄になれなかった男。英雄になるべく育てられた子供。男は、自身の力では果たし得なかった望みを叶えるために「息子」という人形を必要としただけだった。そして己の息子を見るたびに、自分は英雄たる器にはなれなかったのだと思い知らされる。男にとって「息子」は劣等感の塊だった。
「……ワタクシは貴様の父親などではない」
「ひっ、」
少年が小さく悲鳴を上げた。まるでこれから捕食されようとする小動物だ。助けを呼ぶこともできない憐れな子供。こんな弱く惨めな存在に頼らなければ、男の望みは果たされないのだ。少年が怯えれば怯えるほど、男の苛立ちは募る。

「忘れろ」
少年の首を締め上げながら男が言う。呪いの言葉を吐くような声だった。少年の大きな瞳から涙が零れ始めた。
「忘れろ」
「私が父であることを忘れろ」
「貴様が私の息子であることを忘れろ」
「この事実に関するありとあらゆることを忘れろ」
「英雄になるために必要な知識以外のすべてを忘れろ」
「忘れろ。何もかも」
次々と繰り出される言葉には、男が生涯に渡り溜め込み続けた怨嗟が渦を巻いていた。これは呪詛だ。己を英雄として受け入れなかった世界、そして英雄になれなかった自分自身への。

純粋無垢な器の中に男の憎しみの全てを注ぎ込まれた少年は、最後の言葉を聞き届けるとあっけなく気を失った。まだ両手で数えるほどの年月しか生きていない少年には重すぎたのだ。
男はやっと少年の首から手を離した。小さな体が床の上に投げ出される。きつく締め上げたせいで、少年の白く細い首には指の跡がくっきりと残っていた。まるで紅い蝶のようだ。その赤黒い跡を無感動に見つめ、男は無言で少年に背を向けた。罪悪感など欠片もない。もとよりこの子供を息子とはおろか、まともな人間として見ていないのだ。望みを叶えるためだけの人形に親としての情をかける必要性を感じるまでもなかった。

やがて目覚めた少年は、その時に起こったすべてのことを忘れていた。涙で赤く腫れた目と、首についた指の跡を残して。


(それが愛だなんて誰が信じただろう)




2010/10/01


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