100万打リク | ナノ


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ボソボソと喋る声が聞き取れず、もう一度言ってくれと聞き返す。
岸田の眉間にはこれでもかというほどに皺が寄せられており、口元はへの字に曲がっている。今回の原因によほど腹を立てている様子だ。

縁さんは、いったいなにを…

「キスしてた!!」
「…………」
「…………」
「…誰と?」

浅北が恋人以外の相手とキス。そんなことはとてもじゃないが…ありえる状況だ。
浅北縁という男に一般的なモラルというものは期待できない。けれど岸田と付き合い出してからは、そういった遊びに手を出すことをピタリとやめている様子だった。
ちなみに、いままでの浅北を知っている者には信じられないことだが、浅北の岸田への執着は半端ない。それはもう凄い。
誰かが岸田にちょっかいでもかけようものなら、次の日にはその誰かが東京湾の水底で魚と戯れている姿が容易に思い浮かぶほどだ。
そんな男が死ぬほど執着している恋人を放って、浮気に走るというのはちょっと考えられない。
とはいえ見間違いじゃないかと言おうにも、はっきりと断言しているのだからその可能性は低いだろう。となると問うべきところは、誰と、という箇所しかない。

「胸くらいまでの長さの黒髪で、日本人形みたいな美人。なんか高そうな着物着てた」

日本人形みたいな美人。その形容詞にぴったりと当て嵌まる女の顔がすぐに思い浮かび、同時に状況もみえてきた。
浅北のキスのお相手は、どうやら佐々木財閥の会長の孫娘。佐々木雪子(ユキコ)嬢だ。
柏田がクリスマスも正月も関係なく走り回っていた商談の相手である。
正確には商談相手は雪子嬢の祖父、佐々木財閥の会長であったが、その会長、佐々木宗佑(ソウスケ)の孫娘に対する可愛がりようは有名な話であり、雪子嬢の機嫌を損ねたがために、倒産に追い込まれた企業も数多いというのは実の話だ。

今回、柏田たちもこの雪子嬢にはさんざん苦労させられた苦い思い出がある。
商談の相手が雪子嬢といったのも、佐々木会長の首を縦に振らすには雪子嬢に気に入られることが暗黙の了解だったからだ。
浅北は見事に雪子嬢のお気に入りとして認められ、この度の話は双方に有意義な形で結ばれた。ただ一つ問題があったといえば、浅北が雪子嬢に気に入られすぎてしまったことだ。
お気に入りが度を越えて惚れ込まれた挙句、雪子嬢に結婚まで迫られあの浅北の顔が一瞬だけだが、わずかに引き攣ったのを覚えている。

まあその話は家柄を重んじる佐々木家であるからして、いくら有能な男とはいえ極道者では孫娘の嫁ぎ先には相応しくない。という佐々木会長の一言で退けられた。
さすがの雪子嬢も祖父相手に我を通すことはせず、ちょっとした一騒動というだけで終わった話だったのだが。
よく考えればあの我儘なお嬢様が、そう簡単に諦めるわけがないか。

「俺には忙しいからしばらく会えないとか言っといて、自分は美人と浮気とか信じらんねえ」
「あの、岸田さん。その人は佐々木雪子さんといってビジネスの相手です。けして浮気というわけでは…」
「キスされても嫌がる素振りすらなかったのに?それどころかそのあと、鼻の下伸ばしたにやけ顔で、一緒に車に乗り込んだっつーの!ああーっ思い出しただけで腹立つ!!」

そりゃ突き飛ばすわけにもいかないでしょうよ。話がまとまったとはいえ、雪子嬢の機嫌を損ねれば、せっかく成った契約も破棄される恐れがある。
鼻の下伸ばしたにやけ顔というのは岸田の思い込みだろうが、浅北とて雪子嬢に下手な対応は出来なかったに違いない。

「とりあえず少し落ち着いて下さい。せっかく持ってきて下さったんですし、コレ、飲みませんか?」

コンビニの袋を間に挟んで隣に座り、缶ビールのプルトップを開けて岸田に差し出す。
乱暴に缶をひったくるとCMにでも出れそうな勢いでまるまる一本を飲み干し、空になった缶を握り潰すと岸田が盛大な溜息をついた。
その溜息で空気が抜けたかのように頭がガックリと下がり、なにやら公園のベンチで缶ビール片手に項垂れるサラリーマンのような格好になる。

岸田は意外なことに酒に強い。缶ビール一本くらいで酔っ払うわけもない。
とすれば下を向いてしまった顔は、かなり落ち込んでいるのだろう。
無理もない話だ。忙しい忙しいとほったらかされた挙句、恋人が他の女とキスをしている場面を目撃したのでは傷つくのも当然だ。自分が岸田と同じ立場だったら、やはり同じようにショックを受けたと思う。


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