▼ 3
「…岸田さん、大丈夫ですか?」
怒って喚き散らしているあいだはまだいい。まぁまぁ、と宥めに入ればいいのだから。けれど、こうやって落ち込まれてしまうと困る。なにが困るって、とにかく困るのだ。
何度も喉元まで出かかった言葉を口にしてしまいそうになる。言えば最後。いままで積み重ねてきたものが、すべて崩れてしまう。
それだけではない。自分だけならいいのだ。自分だけが責を負うだけで済むのであれば、きっと何度も込み上げる想いを呑み込んだりはしなかった。
喉に留まる言葉は刃だ。
大切な人たちを傷つけるだけの。だからけして口には出さない。
「…自信がないんだよね」
ポツリと吐き出された呟き。岸田の顔は相変わらず下を向いたまま、握られた缶がひしゃげる音を立てる。
「俺さ、なんも出来ないんだよ。柏田さんみたいに仕事面で浅北さんを支えたりも出来ないし、かといってプライベートでも頼ってもらえる存在にもなれない。浅北さんってさ、俺には絶対弱音とか吐かないの。頼ってもくれない」
「そんなことは…」
「いや、俺が頼ってもらえるだけの器がないだけで、浅北さん責めるのは筋違いだよな。愛想尽かされたってしゃーないわ…」
「縁さんが岸田さんに愛想を尽かすなんてありえませんよ」
断言するように言えば、俯いた岸田が笑う気配。人間、笑うといっても色んな感情があるものだ。楽しいから笑う、それだけじゃない。
悲しいときや辛いときだって人は笑う。涙を流すよりもその姿は痛々しい。
浅北と利一の喧嘩は珍しいことじゃない。その都度、愚痴を零しにくる岸田を宥めたりすかしたりしてきたが、今回はどうやらいままでとは違うようだ。
浅北との関係に自信がなくなっていたところに、トドメのようなキスシーン。
怒っているというよりは、不安といったほうがいいのかもしれない。
浅北は共にいて安らげる男ではない。それは彼の立場によるところも大きいが、それ以上に考え方が常人とは異なるが故もある。この先、関係を続けていけば不安はオプションのようについて回るだろう。岸田がそのことにずっと耐えられるとは思えない。
「顔を上げてください」
返事はなく、その代わりに小さく頭が左右に揺れる。もう一度促すも反応は同じだった。
「岸田さん…」
頬に掌を添え俯く顔を上げさせる。躊躇いがちに上がった顔は泣いてはいないものの、いまにも泣き出しそうで、それを必死で堪えているかだ。
引き結ばれた唇にそっと自分の唇を重ねる。触れるだけの幼い口づけに、心臓が強く跳ねた。そんな自分がまるで中学生のようで可笑しい。
「っ!!」
唇が触れ合ったのは数秒。肩を岸田の腕に強く押され、半ば突き飛ばされる格好で引き離された。
痛みはない。いや、嘘だ。笑いが唇を歪める。
人というものは、痛みを堪えるときにも笑うのだ。
「どう思いました?」
「なに…?」
「いまのキスです」
大きく目を見開いたまま固まっている岸田から、距離をおくようにソファを立つ。
「…ビックリした、かな…」
なにがなんだかわからないといった顔で見上げてくる岸田に、でしょうね、といって笑う。
「その程度のことなんですよ。愛情のない相手とのキスなんて。縁さんだって同じです。岸田さんのように突き飛ばさなかったのは、相手が仕事上、機嫌を損ねられない相手だったからといった理由だと思います」
「…もしかして、いまの…っ」
「ええ、口でいうよりも実演したほうが早いと思ったので」
prev / next