キリリク | ナノ


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その日の昼過ぎ浅北さんから電話があった。
今晩ディナーでも一緒にどうかというお誘いの連絡に、少し迷った後で20時に駅前でと約束して電話を切った。今朝のことを俺が知っているなんて浅北さんは気づいていないようで、電話の対応はいつもどおり。
母さんはすでに仕事に出かけたあとで誰もいない家でメイクを終えると、女物の服とミュールを紙袋に詰めて普段の服装に深く帽子をかぶって家を出る。ご近所さんに化粧をしている顔をみられないためだ。
駅に着くと近くのコンビニのトイレに入る。このコンビニのトイレは男女共同になっていて、服を着替えるときはここを使うことが多い。
このごろでは利衣になることに少しの慣れも出てきたけれど、さすがに女子トイレに平然と入っていけるほど図太い神経を持ち合わせてはいないわけで、このトイレが俺にとって救いの場所になっていた。
救世主といっても過言ではない。
大袈裟だと笑う奴がいるなら、自分が女装して女子トイレに入っていくところを想像してみればいい。特殊な趣味でもないかぎり、俺の気持ちがわかるはずだ。
トイレで着替え、なにも買わずに出るのも悪いとガムを一つ買ってからコンビニを出る。

駅前の大時計の前は待ち合わせスポットということで、平日の夜だというのにそこに集う人は多い。浅北さんの姿を探して周囲を見渡すも、それらしき姿が見当たらず、あまり離れた場所にならないよう大時計の近くで空いているスペースを探す。
ちょうど合流したカップルが寄り添って歩き出したため、ロータリー側のガードレールの一角が空いたのを見つけ、入れ替えでそこに凭れかかった。

腕の時計は20時ジャストを指している。待ち合わせの時間に浅北さんが遅れたことはない。
正確には一度遅れてきたこともあったけれど、そのときは事前に携帯に連絡が入った。
携帯を見ると不在着信もメールも表示されていない。
すぐ近くまで来ているのかもしれない。
そう思うものの、顔を上げて浅北さんを探そうという気にはなれなかった。
待ち合わせの相手が現れることを望んでいないように、デジタルの時計と好きなミュージシャンのロゴが表示されているだけのディスプレイを眺める。
本当は今日の誘いも断わろうと思ったのだ。けれど咄嗟に断わる理由が思いつかず、流れのまま返事をしてしまった。
今朝のことがなければ久しぶりに浅北さんと会えるのだから、一秒でも早く会いたくて、いまだって落ち着きなくキョロキョロと周りを見回していただろう。

帰りたい。

急用が出来たとメールしてこのまま浅北さんが来る前に帰ってしまおうかと、そんな考えが頭を過ぎる。
こんな気持ちで会えば、こちらの様子がおかしいことに、あの鋭い浅北さんなら気づくはずだ。どうしたのかと問われれば、柏田とのことを苛立ちのままぶつけてしまいかねない。

「やっぱり帰ろう」

そう決意して新規メールの画面を開こうとした指は、背後から聞こえた車のドアの開閉音に硬直した。
…遅かった。

「お待たせしてすみません」

聞こえてきた低音の柔らかい声に、ブリキのロボットのような鈍い動きで振り返れば、何度か乗せてもらったことのあるベンツの前に立った浅北さんが、申し訳ないといった顔で小さく頭を下げる。

「いや、…うん。時間どおりだし…」

笑おうとするも、表情筋まで固まってしまったようで、上げたはずの口角は引き攣った動きをしただけだった。
あからさまにおかしいこちらの態度を浅北さんが見逃すわけもなく、チラリと見た顔は怪訝に顰められ、なにかを見透かそうとするように、細めた目がじっと見据えてくる。

「なにかあったんですね」

疑問系ではなく断定する形で言いきられ、言葉に詰まって息を呑む。真っ直ぐに向けられる視線に堪えられずウロウロと目を彷徨わせていると、急に足から地面の感触が消えた。

「動かないで。落としますよ」

高くなった視界に驚き反射的に暴れかけるも、耳元で聞こえた恐ろしい宣告に指の先の動きまで一瞬で停止してしまう。
今この状態で落とされるということは、真下にあるガードレールに弁慶の泣きどころをガツンとぶつけるわけで。

痛い!それはマジで痛すぎる!!!

激痛を想像し固まった俺の体を易々と担ぎ上げた浅北さんは、後部座席のドアを開けるとそのなかに俺を座らせ、隣に自分も乗り込んでドアを閉めた。


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