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――― 好きな相手なら触れたい衝動に駆られるときもあるし、会いたくなる。
ああ、そうだな。
あんたの言ったとおりだ。
エレベーターが着いたのは屋上だった。
百万ドルの夜景とはいかないまでも、大通りから外れたところに立つホテルは静かで空気がしんと冷えていた。
二人並んでフェンスの前に座った。重なった肩がなんだか気恥ずかしい。
「日付変わったし、9月22日だな」
「そうですね」
煙草が吸いたくなったが残念なことに部屋に置いてきていた。煙の代わりに肺に冷たい空気を吸い込む。
「なんだよ。感慨ねえヤツだな」
「なに言ってんですか。日付変わったぐらいでしんみり言うほうが変ですよ」
「ぐらいじゃねーよ。お付き合い記念日ってやつだろ」
「…あ」
「あ?」
忘れていたことを思い出したように、隣に並んだ八嶋を振り返る。真顔で振り向いた佐野に、八嶋がたじろいでわずかに身を引いた。
「な、なんだよ…」
「いま思い出したんですけどね」
「…なにを?」
「八嶋先生、俺二股だわ」
「はぁ!?」
突然の爆弾発言に思っていた以上に驚いた八嶋が一度は引いた体を戻し、肩を掴んで乱暴に揺さぶってくる。
ガシャガシャとフェンスを鳴らしながら、八嶋のあまりの慌てっぷりに悪いと思いつつも笑いが込み上げた。
「笑うとこじゃねえぞオイ。どういうことだよ。井坂さんと別れてなかったんか!」
「ええ、忘れてました」
「忘れんなっ。ホントおまえ最低だっつの」
「すみません。順番が違うのはわかってるんですけど、俺も切羽詰まってて」
「ああ…いや。それより井坂さんどうすんの?」
「ちゃんと話しますよ。別れます。だからそれまで、付き合うとか、ちょっと待ってもらっていいですか」
尋ねれば返ってくるのは沈黙だ。
「最低っぷりに呆れましたか?」
投げ出された手に躊躇いがちに自分の手を重ねた。八嶋の手が動き、払いのけられるのかと指先が震えかける。
離しかけた手にするりと裏返しにされた手が握り込まれた。温かく絡む指に詰めた息をそっと吐く。
「おまえの性格なんかな、元々呆れてんだよ」
「八嶋先生が悪趣味で安心しました」
「…可愛くねえなぁ」
お決まりのセリフを言いながらも繋いだ手を離さない八嶋に、ゆっくりと口角が持ち上がる。
9月の終わりに近づいた夜は夏の暑さを過ぎ、酔いに火照った体を冷やす。冷たい風に繋いだ手の体温が温かかった。
部屋に戻ると野田たちの姿は消えていた。自分たちの部屋に引き上げてくれたのはいいが、片付けくらいしていって欲しい。仕方なく酒瓶を片付け、食べ散らかした菓子やツマミをゴミ箱に捨てて、あらかた片付いたところでベッドに入った。
「自分のベッドで寝て下さいよ」
横になるなり布団のなかに潜り込んでこようとする八嶋を足で蹴って追い出すと、隣のベッドを指差す。
「寝れるかよ、あんな酒くせぇ布団」
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