Y&Sシリーズ | ナノ


▼ 23

「…ありがとう」

相手の耳に届くか届かないかの小さな声は、ちゃんと井坂に届いたようで、もう一度肩が叩かれる。
じゃあね、そう告げて肩に置かれた重みが消えた。立ち去る姿を見られるのを拒むように、余韻なく歩き出した井坂を振り返ることはせず、残り少なくなったアイスコーヒーのグラスを持ち上げる。
ヒールが床を鳴らす音が遠ざかって、店員の見送りの声が聞こえると自動ドアが開閉する音がした。
井坂のいなくなった店内。いままで耳に入ってこなかった喧騒が、一気に溢れたよう聞こえ出した。
立ち去るまで笑っていた井坂。けれどその目が悲しげに揺れていたのに、気づかないほど鈍くない。
きっと辛い思いを抱きながらも、友人としての関係を築こうとしてくれていたのだ。

「ありがとう」

聞こえないと知りつつも、彼女の優しさに声に出して告げずにはいられなかった。






次の日から三日間、仕事を休んだ。
多忙から疲労していた体に加え精神的な疲れが出たのか、久しぶりに40℃近くの熱を出して寝込むはめになったのだ。
昨夜のうちにセットしておいた目覚まし時計に起こされ、洗面台で顔を洗う。鏡に映った顔に無精髭が生えているのを見つけると、剃刀で丁寧に剃り落とした。
体毛が元々薄い佐野は髭もそう生えるほうではなかったが、さすがに三日ともなると顎の辺りがザラザラとしてくる。
着替えをすませると用意しておいた旅行鞄を肩にかけて家を出た。
今日から三泊四日の修学旅行だった。
体調はまだ万全というわけではなかったが、休むわけにもいかない。それに八嶋のことが気にかかっていた。
休んでいた三日間、八嶋が家に来ることはなかったし、電話が掛かってくることもなかった。
あれ以来、話をするどころか顔すら見ていない。
いまさら勝手な言いようだと詰られるかもしれない。けれど、きちんと話しておきたかった。
井坂の気持ちに応えるためにも、この想いから逃げ出すことはしたくない。
修学旅行の行き先は、京都大阪。
一日目と二日目が京都観光。三日目が大阪の某映画関係のアミューズメントパークだ。
京都までは新幹線に乗ることになっている。バスで集合場所の駅まで行くと、教師陣はすでに集まっていた。
八嶋の姿を探すと、三年の担任らの輪のなかで眠そうに柱に凭れている。当たり前だが白衣は着ていなかったが、いつも着ているスーツに寝癖のついた髪と、特に普段と変わったところはない。たかだか数日顔を見ていなかっただけだというのに、なんだか落ち着かない気分になる。

「佐野先生、おはようございます。もう体調は平気なん?」

背後から声を掛けられ振り返ると、関が気だるそうな顔で立っていた。その隣に頭にタオルを巻いた社会科の吉澤が並んでいる。
吉澤の肩には自分と関のものだろう、二つの旅行鞄が重そうにぶら下がっていた。

「どうして吉澤先生が?」
「先生が休んどるあいだに、田辺先生のお父さんが倒れられたらしいんよ。それで急に吉澤先生が引率任されたみたいやわ」
「あー…、気の毒に」

そういえば7組の副担任は吉澤だったか。いきなり引率を任せられたなんて、さぞ不安になっているんじゃないかと吉澤を見るも、当の本人からは緊張の欠片すら感じられない。
関に荷物持ちにされ、ぼんやりと立っている。
関とよく一緒にいるところをみかけるが、口数が少ない吉澤とはあまり話したことがなかった。

「ミーティング始めるみたいやで」

一つどころで輪になっている教師らを見つけ輪に加わると、佐野たちが最後だったようですぐに学年主任の話が始まった。
引率の教師が集まってのミーティングが終わると、集合した生徒への諸注意が告げられ、新幹線に乗り込む。
佐野の席は4号車で、1組の担任である八嶋は1号車に乗っているはずだった。
近くにいるというのに挨拶すらしていない。ひとクラスの面倒をみる立場にあるだけあって、担任教師は忙しそうだ。
隣を見ると関が気持ち良さそうに眠っている。生徒が座席に座ったのを確認するなり寝てしまった。点呼後の監視までする気はさらさらないらしい。
することもなくしばらくは窓の外の景色を眺めていた佐野も、気づけば寝入っていた。


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